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「そっちじゃない」
亡霊のようにふらつく男はぴたりと歩を止めた。見るものすべてがじれったくならざるを得ない緩慢な動作でこちらに振り向く。
「こっち」
タバコの煙をふうと吐き出して女が顎で示す。男はぼんやりと女を眺めたままだ。女は吸い殻を床に捨て乱雑に踏みつけるとつかつかと男へ近づき、左手を掴む。
「いくぞ」
男はさしたる抵抗もなく引かれるがまま歩き出した。無言のまま二人は進む。女は迷いなく扉を開いていく。男はぼんやりと女が握る己の左手を眺めていた。程なくして立ち入り禁止線を示すポールのある廊下へたどり着く。もちろん、こちら側が『立ち入り禁止区域』である。
女が握った男の手にそのままドアノブを握らせると、それを合図にドアは独りでにガチャリと開く。隙間から見えたその部屋は、割れた鏡だらけだ。
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