異形の森 2 フロイド・リーチはゴーイングマイウェイを絵に描いたような人魚だが、彼にだって不得手とするものくらいある。束縛しかり、しいたけしかり。それらがそうなるだけの所以があって嫌いな物事として、小ぶりだけどやたらと高演算な頭部に押し込められている。あるいは心臓から送り出されて全身を循環しているのであろう。席について淡々とした講釈を聞き流すだけの授業は、フロイドの体内を巡る苦手なもののひとつだ。だからこそやんちゃの称号を欲しいままにする人魚が、ほんの少し目を眇めるだけに留めているのがひどく不気味だった。
「どうかした?」
回されたプリントを差し出して思わず問う。そしてすぐに失敗した、と口の中だけで呟いた。フロイドが小さく舌打ちをして、乱暴にプリントを奪ったからだ。一瞬視線を向けられ、用はないとばかりに外された。何かを言ってくるでもなく、ましてや不条理に絞めてくるわけでもなかったことに安堵する。それが伝わったのかまた舌打ちされたため、これ以上不興を買わず意識に踏み込まないよう努めてシャットダウンする。机はそこそこ大きいから互いの間に距離があるのが救いだ。どうせなら衝立も設置したい。
一週間の療養休暇が明けて復帰したばかりのフロイドは、懸念していたほど不機嫌というわけではなかった。むしろ足取りは軽かったように思える。それも僕の隣に腰を下ろした次の瞬間には百八十度方向転換をきめていたけれど。何がそうさせたのかはわからない。情緒がジェットコースターな幼女を理解しろというほうがどうかしているのである。
授業終了の鐘が鳴るのと同時に、クラスメイト達は次々と扉を潜っていく。食事を求めて大食堂へ赴く者がほとんどだろう。僕は人気の少ないところでひっそりと昼食を摂るのが好きだから、彼らに続くことはないし皆もそれを知っているので声をかけられるでもない。軽く手を振って見送りながら授業道具をまとめるのが常だった。今日はそこにたった一つだけイレギュラーが混ざる。移動するそぶりを未だに見せないフロイドが、表情を削ぎ落していながらも何か言いたげにしていた。足を片膝に乗せ右の肘を机についている。視線だけでなく体全体をこちらに向けてただただじぃ、と見つめていた。普通に怖いのでやめてほしいのだが。
「……トド先輩がさ」
荷物を片付け終えてあとは席を立つだけというタイミングでフロイドが口を開いた。普段の波のある、悪く言ってしまえば調子のはずれたメトロノームを彷彿とさせるおぞましさが、なりを潜めていた。彼がこういう静かな声を出す時は決まって物事の核心に触れるのだ。どういう経緯があって僕にそれを聞かせるのかはわからないが、ここで話をぶった切って機嫌を悪くさせるよりは付き合ってやったほうが後の自分のためになるだろう。
「『あいつは畏怖すべき者を愛すべき隣人として生きている。そんな奴の不興を買ったオマエらが悪い』って」
なんの話なのか正直さっぱりわからなかった。とりあえず席に座り直して顔だけで彼の目を見た。足が出口のほうを向いてしまっているのは容赦してほしい。いつでも逃げられる体勢にしておかないと、僕のメンタルがおからになってしまうので。
「俺さぁ、本能? 第六感っていうの? そういうの割と当たるし、ジェイドもアズールも『おまえのそれは僕ですら舌を巻きますよ』って言うくらいでさ。そんでアンタはそこらへん泳いでる小魚で、俺にとっては被食者だし。だからあんま気にしてなかったんだけど」
「はぁ……」
「でもなぁんか気持ち悪ぃの。言葉にできないおぞましさってこういうのかなぁって思うんだよね」
「さようで……」
盛大にディスられてるのは理解できる。
どうやら彼は言語化できない忌避感を僕に対して抱いてるらしい。こちらは一に物騒、二に論外、三に近寄るなという恐怖心をお前に持っているのだが? と教えてやりたい。実際にそうしたら明日の朝日は拝めないのでやらないが。
フロイドは二度三度、視線を左右に振って口をもごもごとさせた。やがて考えがまとまったのか、あるいは何かに対する覚悟が決まったのか、身を乗り出してこちらの顔を覗き込んでくる。キャンディだろうか、ミントの香が微かに鼻に届くほど体を寄せてくるので、人魚って毛穴ないのかなぁなどと現実逃避じみたことをしてしまった。髭も生えてやしねぇし、緩められたシャツから見える胸元もツルツルだ。すね毛もないんだろうな……えっ、まさか下もピカピカとかないよな……まさかな。もし生まれながらに全身永久脱毛なら、サバナクローのゴリラに謝れ。
「オレの認識が甘かったみたい。サメ? メガロドン? いっそクラーケンじゃんね」
「それは喜んでいいのかどうなのか」
いや意味がわからん。
フロイドが体勢を戻したので、僕ものけ反らせた背を正す。
「そんでさ、えーとぉ……ごめん。謝るから」
一体何に対しての謝罪なのだろう。首を傾げる僕に、彼は顔を少しだけ下げた。指先でこちらのジャケットの袖をつまむ様子は、親兄弟に叱られて拗ねた幼子のようだ。
「オレがジェイドの分も謝るからさ……」
だからアイツに声、返してやって。
不機嫌というよりは、不安を必死に隠すように口を尖らせたフロイド。伺い見てきた綺麗な金の目は、少しだけ白く濁っていた。
用を済ませて流水で手を洗う。男子校にしては綺麗だし、どちらかというと商業施設の女性用トイレのようだ。パウダールームとまではいかなくても、身だしなみを整えるための鏡が別途備え付けれているのはすごいなと素直に思った。ポムフィオーレ寮生でもない自分には、授業を受けるためだけに化粧をする習慣はないので不要の長物だが。
「めんどくさい絡まれ方してたね」
「ほんとそれ。結局何だったんだろう」
「気分屋人魚の気持ちなんてわかるわけないでしょう」
クスクスと笑う友人の声が、トイレの空気を静かに揺らす。僕にはない、穏やかで耳障りのいい低音だ。
「まぁ、それはそうと……」
ハンカチで手の水分を拭き取りながら振り返る。
「いい声だとは思うけど、返してあげなよ。何で取ったか知らないし、どうでもいいけど」
おまえには似合わないよ、そんな色気のある声。
教えてやると友人は「そう? じゃあもういらない」と囁いて、バシャリと液体になった。これでもう話しかけられる度に肩を跳ねさせなくてもよくなるだろう。やれやれ。
肺から息を吐き出して、僕は首を振ったのだった。