水平線に沈む恋プロローグ
人心が病んでいようとも、この国の海だけは美しい。
波の音だけが鼓膜を揺らす窓辺で、ベッドに横たわった母親は静かな口調でそう言った。すっかり食欲が落ちて弱った身体は、何日も前から起き上がることができず。もはや医者からは、幾ばくもないだろうと言い渡された女の、恨み言と呼ぶにはあまりにも愛おし気なその声に。
なにかしてやれることはないかと、彼女の小さな一人息子は両手を握り締めてじっと母を見上げる。泣くことを堪えたその横顔は、皮肉にも死の淵に居る女を見舞おうともしない男と同じ色彩で。
彼女はただひとりの血縁をじっと見つめると、唇をゆうるりと吊り上げて哀し気に笑った。
「波の音が聞こえる、貝殻を拾ってきて」
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