パバステ展示物冒頭部(てるかおになります)弁護士を辞めた。
正確には、勤めていた弁護士事務所を辞めて、フリーになったと言った方が正しい。守りたいと思ったものを守って、己の正義を貫いた結果だから後悔は無い。だけど、この先どうするかとか、経験年数の浅い俺がフリーの弁護士として活動をしたところで上手くいくのかとか。そういうことを考えていたら、急にこの先の未来が真っ暗になった気がした。
まるでそれは、薄い氷の上に立っているような、不安。あとちょっとでも身動きしたら、暗い水の底に叩き落とされてしまうんじゃないかという、漠然とした恐怖。特に深夜から朝方にかけての時間に、ふと目が覚めては襲われた。ベッドの中で体を丸めて、もう一度眠りに落ちるまできつく目を閉じてやり過ごす。
──そうすると、いつも誰かが引っ張り上げてくれる夢を見る。暗い方へ沈んでいく俺の手を強く引いて、光の射す方へと昇っていく。なんだか懐かしくて心地良い、優しい歌声と一緒に、沈んだ心も浮上していく。そうして目が覚めた頃には、いつも通りの朝が俺を迎えてくれた。
だけど、いくら夢の中で浮上しようと現状は変わらない。自宅兼事務所に依頼の連絡は一切来ないし、メールフォルダには迷惑メールが積もっていくばかり。ワーカホリックってわけでもないけど、何かしていないと落ち着かない。過去の判例を読み返したりだの、法律の勉強をし直したりだの、とにかく何かに打ち込んでいたかった。そうしないと、ふとした瞬間に悪い方向に考えを引っ張られそうだったから。
これからどうするんだとか、俺はこのまま進んで大丈夫なのだろうかとか。だけど、困っている人を見過ごせないし、笑顔になってもらいたい。正義のヒーローに憧れ続けて弁護士になって、今もまだ自分の夢を諦めようとは思えなくて。こうやって燻ってはいるものの、誰かの助けになりたいと思う気持ちは全く変わらない。
だからこれは、もう一度頑張る為の小休止。悪く言えば、現実逃避なのかもしれないけど──現状から逃げ出したかったのは、確かだった。
スーツケースに荷物を詰め込み、電車と飛行機を乗り継いで、辿り着いたのは海の見える駅。中学生の頃、ここに住んでいるという親戚の家に向かう為に降りた場所だ。行ったことは覚えているけど、何をしていたのかは全く思い出せない。だけど、何故か行きたいと思ってしまった。海辺のペンションに宿泊予約を入れて、滞在期間は二週間。海でも眺めて、時々釣りでもして、のんびり過ごしてリフレッシュ。あれこれ予定は決めていないので、後は現地で考えれば良い──そんな風に考えていた。
ペンションに寄る前に海でも眺めていこうと、スーツケースを引きながら海岸へと降りていく。波は穏やかで、傾き始めてオレンジ色になった太陽の光を受けた海面が輝いている。
そういえば、最近ずっと海なんて来ていなかった。平日の夕方だからか俺以外に人はいなくて、波の音だけが響いている。その音を聴くだけで、不思議と心が凪いでいく。足を浸したい気持ちにもなったけど、それはペンションに荷物を置いてきてからにしよう──と、思っていると。
俺がいる場所から少し離れた桟橋の上に、人影を見つけた。地元の人だろうか。それとも、俺みたいに時期外れの旅行者? 出張でここに来た人か? どちらにしろ、初めて見かけた人のことが気になって、俺はスーツケースを引きながら桟橋へと近付いた。砂にキャスターが取られて進みづらいが、砂浜に置いておくには不用心過ぎる。
桟橋が近付いてくると、徐々にその人の姿がハッキリ視認出来るようになってきた。痩身で黒髪、スラックスにシャツ姿の男だ。ただ、近くに荷物らしきものは何も無く、桟橋の淵に立って海をじっと見つめている。観光をしに来たようにも、仕事で来ているようにも見えない。ほんの少しの、違和感。まさかそのまま海に落ちたりなんて──いやいや、そんなことは──だけど、一応話しかけた方が──逡巡していると、男は突然姿を消した。
「……えっ」
その次に俺が見たのは、水飛沫。躊躇う素振りも見せず、桟橋の淵から海へ飛び込んでいったのだ。観光でも仕事でも、ましてやダイビングで来たとも思えない。とすると、まさか。
「ちょっ……おい、大丈夫か!? まずいだろ、あれ!」
スーツケースを投げ出して海へと駆けていく。服が濡れようが構わない。とにかく今は、桟橋から飛び込んだあの男の安否を確認して、助けなくては。打ち寄せる波に逆らいながら、深い所へ、桟橋の方へと向かう。いよいよ足が付かなくなった所で、泳ぎながらあの男の姿を捜してみるけれど、海面にそれらしき姿は見当たらない。
「いたら返事しろって! あんたのこと、助けに来たんだよ……!」
辺りを見回すも、やはり姿は見えない。一度桟橋に上がって、すぐ警察か消防に連絡をして、あの人を見つけてもらわなくては。どんな理由を抱えているにしろ、飛び込む瞬間を見てしまったのなら見過ごすわけにはいかない。だけど、今ここで見つけて助けないと、確実に命に関わる問題になる──焦りと不安でもう一度呼びかけると、
「……何なんだ、騒々しい」
「うおっ! 何なんだよいきなり……って、あれ……?」
こちらを怪訝そうに眺める男が、俺の背後でぷかぷかと浮かんでいた。その姿は間違いなく、あの桟橋から海へ飛び込んだ男そのもの。
「俺、今あんたのこと捜してて……そこの桟橋から飛び込んだから、その……身投げかと……」
「他人の行動を勝手に決めつけるな。それと、僕の方が君より泳ぎが得意だ。君にいちいち助けられる必要は無い」
何だよあんためちゃくちゃ失礼だな、なんて言いそうになったけど、俺はこの失礼発言よりもっと驚くべき問題にぶち当たっていた。
俺の目の前にいる男は、二本足で桟橋に立っていた。だけどどうだろう、海面を漂う姿は、上半身は俺と同じ人間。下半身は──腰から下が、鱗に覆われている。青色に輝く魚の鱗だ。裸の上半身に再度目を向けると、前腕から肘の辺りにかけて、青色のヒレのようなものが生えていることに気付く。足は当然そこに存在しなくて、代わりに尾ヒレをひらひらと揺らしながら海に浮いている。おとぎ話とか都市伝説とか、そういう類でしか見たことの無いその姿は。
「あんた、もしかして……人魚、ってやつか」
「その通りだ。姿を見せる気など無かったが、あまりにも海中が騒がしいからここにいる。……海岸に戻るのだろう、手を貸せ。溺れそうな人間をわざわざ放置する趣味もないからな」
「は? っちょ、早……!」
言うや否や、俺の答えも聞かず突然腕を引っ張って泳ぎ始めた。あっという間に俺がスーツケースを放り出した砂浜まで辿り着き、足が付くくらいの水深になった所で手を離され、背中を押された。
「今日、僕に会ったことは他言無用だ。もっとも、人魚を見たなど誰に言っても信じられないとは思うが」
「あんたは、今からどうすんだよ」
「君には関係ない。それと、もう二度と無策で海に飛び込むな。死にたくなければな」
ふんと鼻を鳴らした後、人魚はすぐに海中へと姿を消した。一切の波も立たないから、どこにいるのかも分からない。分かったとも、余計なお世話だとも、何も言えなかった。今後会うかも分からないけれど、名前さえも知らないままだ。
「……しかし、どうすっかな……」
一人海の中に取り残され、俺はふと息を吐いた。ペンションのチェックインの時間はもうすぐ。このずぶ濡れのまま行っても良いものだろうか。海から上がって、水を吸って重くなった服の裾を申し訳程度に絞りながらスーツケースの下へと戻る。来た時と同じようにスーツケースを引きずりながら砂浜を後にするが、行きと帰りでは心持ちが全く違う。
海中で出会った人魚は、確かに失礼な奴だった。だけど肌は白くて、瞳は綺麗な青で、艶のある黒髪で、鱗は瞳の色と同じ海の青。声は憎まれ口のくせに耳に馴染む低音で、思い返せば見惚れてしまう程綺麗な顔をしていて、つまり──あの姿と声が、頭から離れなくなっていたのだった。