My First Kissゴーストプリンセスのひと騒動から解放された日の夜。イデアはタキシード姿のまま、とある寮の地を踏みしめていた。
さく、さく、と乾いた砂を踏みしめる音が微かに響く。
イエローベースのこの場所は、自分には馴染まない。すっかり暗くなったあたりを見渡し、自傷気味な笑みをたたえそのまま足を進める。
消灯時間もとっくに過ぎた深夜。最低限の灯りしかついていない談話室を通り過ぎ、宿舎の奥の奥へ。
迷うことなくたどり着いたのは、他の扉とは違う重厚な扉。以前教えてもらった解除魔法を小声で唱えれば、カシャリと鍵が外れる音。
そのままそううっと扉を開け、中に身体を滑らせる。身体が薄いおかげでわずかな隙間で中に入ることができた。ありがとう薄い身体。こんなことで役に立つ日がこようとは。
部屋に入れば、彼の香りが鼻腔から肺いっぱいに広がる。それに僅かに心臓が高鳴るも、深呼吸をしてなんとか脈拍を落ち着かせる。こんなところで心臓の無駄遣いをしているところではないのだ。
だって、自分はこれから、好きな人にファーストキスを捧げようとしているのだから。
恋心に気がついたのはついさっき。ゴーストのイザベラにキスをされそうになった瞬間。
自分を助けにきた生徒全員平手打ちされ、いよいよ彼女の唇が迫ってきたとき。こんな形で死ぬのなら、せめてファーストキスくらい好きな人に捧げたかった。なんて、思ったのだ。
——好きな人。
その瞬間、イデアの頭の中に浮かんだのは、一人の獣人であった。
不遜な態度で後輩に身の回りの世話をさせる王子様。面倒ごとを頼まれるのを嫌がるくせに、最終的には折れてくれる実は優しい人。チェスを指すときは楽しそうな顔をするかわいい人。
レオナ・キングスカラー。
知らぬ間に、彼に恋をしていた。
なんでこんなタイミングで気がつくんだ。非情な現実に涙が溢れる。もっと早く気づきたかった。死ぬ瞬間に恋心に気がつくなんて、自分はとことん幸運の女神に見放されているらしい。
彼女の唇が近づきいよいよ死を覚悟したその時、まるでアニメのヒーローのように現れたエースには心の底から感謝した。
そして全てが丸く収まり、自室に戻ったイデアは決心したのだ。
——僕のファーストキス、レオナ氏にもらってもらおう。
別に自分たちは付き合っているわけではない。それなりに交流はあるが、授業に出たがらない者同士がいつの間にかサボり仲間になっただけ。だからこれはイデアのわがまま。
今日のように、不可抗力で命を落とす可能性は今後も大いにあり得る。いつどんなトラブルに巻き込まれるか分からないのがこのナイトレイブンカレッジなのだ。それならば、ファーストキスを好きな人に捧げたいだなんてかわいいわがままの一つくらい許されたっていいだろう。
別に面と向かってキスをせがむ訳じゃない。彼の寝室に忍び込んで、一瞬唇を合わせるだけ。
幸い、あの王子様は一度寝るとなかなか起きない寝汚ない一面がある。彼の部屋にも何度か足を運んだことがあるし、寝ているところを邪魔されるのが嫌だからと鍵の解除魔法も以前教えてもらった。
ここまで好条件が揃っているなんて、据え膳食わぬはなんとやら、じゃないだろうか。
そうして忍び込んだレオナの部屋。耳をすませば、規則正しい寝息が聞こえる。
ほうっと胸を撫で下ろし、月明かりを頼りにベッドに近づく。ぼんやりと浮かぶ彼の寝顔は、まるで彫刻のように美しかった。
——綺麗な顔。
思わず撫でそうになった手を慌てて引っ込める。まつ毛も長い。鼻筋もスッと通り、唇も程よく厚みがある。
——あぁ、好きだなぁ。
恋心に気づいた今、彼の全てが愛おしくて仕方がない。この人の全てが自分のものになればいいのに。しかし、そんなこと夢の中だとしても無理なことは分かっている。だからこうして夜這いまがいのことをしに来たのだ。
「——っ」
すぅ、と息を吸い込む。
そのままゆっくり、ゆっくりと顔を近づける。
ほんのり開いている厚めの唇。息を止めたまま、自分のそれを、重ねた。
ほんの一瞬。まさに瞬きの間。しかしその数秒、確かに彼の唇の柔らかさを感じた。胸が暖かい幸福感に包まれる。
最初で最後のファーストキス。それをイデアは、彼に捧げた。
「ごめんね、ありがと」
小さく、小さく言葉を残し部屋を立ち去ろうとした。——その時。
「なにが、ごめんね、なんだ?」
今この瞬間、聞きたくなかった声が、鼓膜に届いた。
「は? え? わっ……!」
どさり
強い力に引っ張られ視界が反転する。何事かと目を白黒させていれば、顔の周りにはブルネットのカーテン。すぐ目の前には、サマーグリーンの宝石がイデアを捕らえていた。
「ひっ……」
数秒後、やっと自分の置かれている状況を理解する。
レオナに、押し倒されている。
その事実にイデアは今にも失神しそうであったし、むしろ意識を失いたいすらと願った。
「おい、こっち見ろ」
しかし、そんな考えをこの獅子が許すはずもなく。吐息のかかる距離で甘いテノールが響く。
「なぁ、なにが、ごめん、なんだよ」
やけに熱い彼の指先が、唇に触れる。寝起きだからだろうか。まだ夜は涼しいはずなのに、いやに身体が熱い。心臓がどこどこと胸を叩く。
「あ……ぁ、」
「なんだ、答えられねぇのか?」
すり、と皮の厚い指が唇を撫でる。スポーツマンの指。王子様の指。その指が、こんな陰キャの唇を撫でるなんてあっていいのだろうか。
開放的な部屋のはずなのに、今のイデアには外の音なんて聞こえない。聞こえてくるのは、自身のうるさい心臓と、彼の音だけ。
「お前のファーストキス、もらっちまったな」
グルル、と獅子の喉が鳴る。
「あ……」
起きて、いたのか。そりゃあそうか。でなければこんな俊敏に自分を押し倒すことなんてできないだろう。まったくタイミングが悪い。君は一度寝たら起きないはずだろう。なんで今日に限って起きてるんだよ。
寝ていて、欲しかったのに。
気づいたばかりの恋心。さすがのイデアでも、この感情は隠すべきものだということくらい分かっている。だって彼は王子様だ。お耳がキュートで、ちょっと意地悪。だけど優しい王子様。そんな彼に自分なぞが好意を寄せるなんて、おこがましいにも程がある。
「ご、ごめん……」
生温い何かが、頬を伝う。瞼がじわりと熱を持つ。
ごめんなさい。勝手にキスなんかして。気持ち悪かったよね。もう近づかないから、君の視界には入らないから。だからどうか、拒絶の言葉は吐かないで。
弱い僕は、そんな言葉を聞いたら、あのままゴーストとキスをしておけば良かったと思ってしまうから。
「ごめん、ごめんっなさっ……」
震える唇でなんとか言葉を紡ぎ出す。
あぁ、離してほしいのに離してくれない彼は、なんて意地悪なのだろう。お願いだから離して。今すぐここから逃げ出したいの。
ひっ、ひぐ、とみっともない嗚咽をこぼしていれば、「なぁ」と頭上から優しい声が降る。
「なんで謝る?」
コツン
額が合わさる。額だけじゃない。鼻もあたっている。唇も、今にも、触れ合いそうで——。
「お前に部屋の解除魔法教えた意味、よおく考えてみろよ」
クッと彼が笑う。
目の前にあるサマーグリーンが、とろりと溶けた。
——あ、これは。
イデアが全てを理解するのと二度目の口づけ、そのタイミングは同じであった。