「あなたが欲しい」 彼を、とても好きだと思う。
――――とても。
遠目からでもすぐに解る人目を引く整った顔立ち。視界の端に捉えるだけで、高鳴る胸は本物。
誰よりも近くに居る事を許されているのに、いまだにふとした仕種にときめいてしまう自分の気持ちも本物。
この想いには本物しかないのに。
――――何故、自分から「あなたが欲しい」と言えないのだろう。
……歌が聞こえる。
かすかに聞こえてくる曲。さほど大きな音ではないが、聞き覚えのあるその優しい曲調に誘われるように、リゼルは浅い眠りに就いていた意識をゆっくりと浮上させた。
薄く目を開けば、見慣れた白い天井が見える。どうやら仕事の電話の応対にリビングを出て行った男を待っている間に、深く躯を受け止めてくれるソファに身を横たえて、そのまま寝入ってしまっていたらしい。
しばしぼんやりとその天井を見上げていたリゼルは、瞬きをしながら躯を起こして、ふと肩にかけられていた薄い上着に気が付いた。
「……ジル?」
上半身を起こした拍子に、ぱさり、と乾いた音を立てて膝に落ちたその上着からふわりと香ったのは、そのリゼルの待ち人である男が好んで吸っている煙草の香り。
既に嗅ぎなれたその香りに、まだ覚めきらぬ意識の中、ぼんやりと呟けば。
「起こしたか?」
扉を開く音と共に、穏やかにかけられた声。
ゆっくりと首を巡らせれば、リビングの奥にあるシステムキッチンで流しにもたれるようにしてグラスを傾けながら、上着の持ち主が穏やかな笑顔を見せていた。
「いえ、自然と目が覚めました」
「よく寝てたな」
そう言って笑った男……ジルに、リゼルは照れたように首を竦めて、小さく苦笑をする。
「起こしてくれても良かったのに」
「あんまりにも気持ち良さそうだったから、起こせなかった」
ジルはもたれさせていた躯を真っ直ぐに立てると、手にしていたグラスをそのまま流しに置く。それを横目に、リゼルはふわ……、と一つ小さな欠伸をすると、両腕を伸ばして固まった筋肉を伸ばした。
さすがに慣れているとはいえ、ソファの上で小さく丸まるようにうたた寝をしてしまったのだ。中途半端な睡眠も相俟って、少々関節のあちこちがギシギシと軋みを訴えている気がする。
その耳に、ふとリゼルの意識を浮上させるきっかけになった聞き覚えのあるフレーズが、ソファの前にあるテーブルの端に置かれている小さな携帯ラジオから聞こえているのに気が付いた。
題名も思い出せない。だがよく聞く三拍子の曲。
今日は久し振りの二人きり。その穏やかなリビングに流れる優雅なワルツ。心地よさに再び寝入ってしまいそうになっているリゼルに笑って、ジルはリゼルの顔を覗きこんだ。
「目覚ましに何か飲むか?」
「そうですね、コーヒーでも飲もうかな……」
眠たげに目を擦るリゼルの仕種の幼さに誘われるように、ジルはリゼルの髪に手を伸ばした。
「…………っ、」
その瞬間、リゼルは一瞬、本当に一瞬、かすかに息を詰めて小さく肩を震わせる。その事に、リゼル自身が驚いたように目を見開くと、慌ててジルを見上げた。
「あ……っ」
しかし、ジルは気付いていたのかいなかったのか、いつもと変わらない様子で肩を竦めると、
「今、ちょっと豆切らしてンだ。下で缶コーヒーでも買ってくる」
リゼルに触れる事なく手を引き、リゼルに背を向けて部屋を出ていった。
ぱたり、と閉じられたドアの音がやけに響いたような気がして、リゼルは胸をかすかに圧迫するような緊張感に眉をひそめると、小さなため息をついた。
携帯ラジオは既に音が消されていて、リビングは妙な寒々しさに包まれる。
「……駄目ですね、こんなの……」
解っているのだ。
――――このままではいられない。
同じ頃。
自販機で甘い缶コーヒーを購入する為に、ジルは硬貨を挿入しながら、初めてリゼルを抱いた時の事をぼんやりと思い返していた。
互いに想いを伝え合ってはいても、「行為」そのものに関して理屈で解ってはいても、実際その行為に当たった時、素直に感じる躯とは別に、完全に心が置いてきぼりにされてしまったらしいリゼルは、激しい混乱を見せた。
幾ら思いを告げ合った間柄だとは言え、今思い出しても、あれは強姦だったと思う。
激しい恐怖からか、ジルを求めながらも抵抗をして、混乱して前後不覚になったリゼルを、無理矢理ベッドに押さえ付けて、結局ジルは自分の欲望を最優先させたのだ。
ずっと欲しくて欲しくて堪らなかった相手だったから。
誰からも欲され、手を差し伸べられる存在。見守るだけで満足出来ていれば良かったが、ジルはリゼルの全てを求めた。追い求め、手を伸ばし、彼の心の中に己の居場所が欲しいと望んだ。熱望した。渇望すらした。
雄である本能も衝動も、恐怖すら抑え込もうとしたリゼルの心は、ジルを求める躯とは裏腹に、激しくかき乱されたはずだった。だが、ジルは無意識に抵抗をする躯を押さえ付けて、自分の欲望を最後まで貫いた。
行為の後、ぐったりとしたリゼルの涙と汗に濡れた頬を撫でながら、ジルは何度も「好きだ」と囁いた。
額に、頬に、瞼に、耳元に。何度も唇を落としながら、自分の想いを囁き続けた。
それは、この行為に対しての謝罪でもなければ、その理由でもない。
リゼルが、心身ともに弱り切っている今だからこそ、己の「囁き」は、強く強くリゼルの中に刻み付ける事が出来るだろうと思ったからだった。
永遠に、リゼルを自分の言葉で縛り付ける事が出来るだろうと思ったから。
「……どこまで行っても、身勝手極まりねぇな」
小さく自嘲を漏らして、ジルはクシャリと前髪をかき上げる。
こんな自分の業の深さが罪なのか、それとも、そこまでしても「欲しい」と思わせたリゼルの存在が罪なのか。
ただそれ以後、リゼルはジルが触れようとするその一瞬に、ほんの少し身構えるようになった。別にジルに触れられる事を嫌がっている訳ではない。むしろ、一度触れてしまうと、嬉しそうに頬を染めて目を細めてくれるのだけれど。
リゼルはいつも、一瞬だけ、躯を震わせるようになった。
それが、まるで己を責めているように思えて、ジルはあれから一度もリゼルに触れられずにいる。
自分の犯した罪を、後悔をしている訳ではない。
リゼルの目に宿る深い情愛も決して嘘ではないだろう。
……だが、らしくなく胸を刺す、小さな「不安」と言う名の棘が抜けないだけ。
「……駄目だ、このままじゃ」
音を立てて自販機の取り出し口へ落ちてきたそれに手を伸ばしながら、ジルは小さく独りごちる。
――――それでもリゼルが欲しい。
けれど、二人の間に流れる言葉に出来ない緊張感が、もう限界にきていると感じている。
『あなたが欲しい』 ―― 2 ――
「ジル、もうすぐ向こうで仕事があるんですとね?」
部屋に戻ってきたジルから温かい缶コーヒーを受け取って、何事もなかったように口を開いたリゼルに、その前に立っているジルも笑って頷いた。
「ああ、来週からだな。今週一杯はこっちである程度片付けて、しばらく向こうで仕事だな」
ジルの仕事は時に国外に長期間留まる事がある。
今回も大きな案件があるらしく、しばらくの間は向こうに滞在するらしい。今日はいわば久し振りであり、しばらく会えないが故の逢瀬でもあった。
「またしばらく会えないんですね……」
甘いコーヒーを一口喉に流し込んで、リゼルは唇を尖らせる。お互いにいい年をした男同士だから、長期の別離は別段珍しい事ではないし、一つの事に集中すると存在を忘れてしまう事もあるのだが、それでも来週からのその期間、連絡を取り合わない限りジルの動向を知る術はほとんどない。
解っていてもほんの少しよぎる寂しさから、本当につまらなさそうに唇を尖らせたリゼルに、ジルは小さく苦笑を浮かべた。
「そんな顔すンな」
「だって、次いつ会えるか解らないじゃないですか」
連絡は取り合えるだろうけれど、顔を見られないのは一抹の寂しさを感じさせてしまう。
空になった缶コーヒーをソファの前にあるテーブルに置いて、目を伏せながら口の中でぶつぶつと呟いたリゼルに、ジルは不意に真顔に戻った。
―――― それでもリゼルが欲しい。
けれど。
「…………会わない方が、いいんじゃねぇか」
「……え?」
てっきり自分と同じ言葉が聞けると思っていたリゼルは、思いがけない言葉に顔を上げた。
「な……、んて?」
驚愕に目を見開いたリゼルに苦笑して、ジルはゆっくりと口を開く。
「このまま会わない方がいいんじゃねぇか」
「何でですか!?」
「お前と、少し距離をおきたい」
「だから、何で!」
弾かれるようにソファから腰を上げて、リゼルは目の前のジルを睨み付けた。
だが、言いたい事は山程あるのに、こんな時ばかり何一つ言葉にならないまま、リゼルは目を伏せて唇を噛み締めた。
目の前にいる男は、一体何を言っているのだろう。彼は一度たりとも自分に嘘はつかなかった。いつだって自分の感情に真っ直ぐだった。その彼が、「距離をおきたい」と告げた。
それきり、顔を伏せて黙り込んでしまったリゼルを見下ろして、ジルはそっと目を細める。
「お前が、好きで好きでたまんねぇよ。……でも」
不意に目の前が翳った事にリゼルが顔を上げると、伸びてきたジルの腕がリゼルを抱き締めた。その途端、びくり、と大げさな程躯を震わせたリゼルの顎を掴むと、ジルは強引に唇を重ねた。
思わず身を引こうとしたリゼルの足が、背後のソファにぶつかって、がたん、と静まり返ったリビングにその音がやけに大きく響く。バランスを崩したリゼルをより深く抱きこむと、ジルはそのままリゼルを床へ押し倒した。
「……! じる……っ」
したたかぶつけた背中に思わず抗議の声を上げようと薄く開いた唇は、結局ジルにより深い口付けを誘う事にしかならず、するりと口腔内に入り込んできたジルの舌の感触に、リゼルは見開いていた目を強く閉じた。
「……、ん、ぅ……っ!」
両腕を頭上で一まとめに片手で押さえ付けられて、舌の付け根まで絡め取られて、息もさせてもらえない。ジルの空いた指先にリゼルの額の髪の生え際を辿るように撫でられ、リゼルの背を敏感に震わせた。
角度を変えて、何度も施される口付け。額に、頬に、首筋に触れてくる指先。
……ゆっくりと躯の奥底に火を点すような、その口付け。
ジルの手が、無防備なリゼルのTシャツの裾から入り込み、直接リゼルの素肌に触れた瞬間、ジルに戒められていた手が震えた。
「や……っ!」
何かに怯えるように、ぎくり、と再び大きく目を見開いて、リゼルは思わず重ねられるジルの唇に歯を立てた。
「っ! ツゥ……っ」
鋭い衝撃に腕の拘束が緩んだ瞬間、リゼルはジルを突き飛ばして彼の下から抜け出すと、立ち上がる事も出来ず、そのまま床に座り込む。ジルはぺろりと舌先で唇を舐めて、口内に広がる鉄くさい苦味に苦笑すると、くしゃり、と前髪をかき上げた。
「俺はな」
静かに口を開いたジルに、リゼルはびくり、と肩を震わせる。ジルの唇に残る傷跡に、呆然と目を見開いて見上げてくるリゼルに笑って、ジルはゆっくりと言葉を続けた。
「……俺は多分、お前が望むような綺麗な付き合いは、出来ねぇんだよ。お前が好きで好きでたまんねぇ。だからこそ、お前に無理を強いるような事はしたくねぇんだ」
「ジル……っ」
「だから、」
そこで一度言葉を切って、ジルはちりちりと痛む胸を、唇の所為だと思い込むかのように唇を宥めるように舌先でなぞって敢えて笑顔を見せた。
「だから、何にもなかった事にしよう。少し会わずに距離をおいたら、俺はちゃんと戻れる」
触れようとする度にリゼルが一瞬身構えるのは、きっと心とは裏腹にリゼルの躯がこの関係を「間違っている」と思っているからだろう。
心と躯が添わない関係は、いつかリゼルを壊してしまう。
リゼルは優しい。歪んだ気持ちを押しつけた自分を、それでも許してくれた。
「……向こうに行ってる間に、俺は“友人”に戻る」
その無理が、自分が惹かれたリゼルを変えてしまうかもしれない。
それでは、何の意味もないのだ。
「今日は泊まってって構わねぇけど、明日は帰れよ」
いっそ穏やかな笑顔を見せて、ジルはリゼルに背を向けると、静かにリビングを出て行く。
その背を追いかける事も出来ず、床に座り込んで胸を掴み締めたまま、ジルの背を見つめ続けるリゼルの視線を感じながら、ジルは静かにドアを閉じると、そのまま部屋を出て行った。
リゼルは優しい ―――― 泣きたくなる程に優しい。
けれど、気持ちが伴わない関係は、なお更好きだから辛すぎる。