2. Mother なぜ、こんなものを持ち帰ってしまったのだろう。
メァリは崩れた床にごろりと腹ばいになって、目線をそれに合わせた。
ぼろぼろになった、何かのぬいぐるみ。魔物にも人間にも見える。
力なく垂れた首が哀れを誘うが、どうしてやればいいのかよくわからない。
「大事にされてたんだろうな」
と呟いて、小さな頭を指先で撫でてやる。
と、人形がふと顔を上げた。
かたかたと震え、おもむろに立ち上がる。四肢の感触を確かめるように数歩よろめいたかと思うと、メァリの方を振り返り、踊り子みたいに可愛らしくお辞儀をした。
メァリは笑って、肩越しに振り返る。
「また変なことしてる」
音も無く背後に現れた、背の高い影。彼は読みがたい表情のまま、すっと手を引いた。
人形を捉えていた闇の糸が、するするとその指先へを消えていく。踊る人形はぽてんと倒れて、静かになった。
「意外とお茶目だよな、ヒュンケル」
不死身の戦士は微かに唇を持ち上げた。それが彼の微笑だ。
「こうやって遊んでたの? 魔王軍にいた時」
「……ああ」
そしてメァリの隣に座り込み、人形を覗き込んだ。
「そういえば、そうだった」
「へぇ」
瓦礫と化したこの街の、さらに郊外の粗末な小屋。もはや誰も訪ねて来ないこの場所に、メァリは無言で天幕を張った。
気になる本、おかしな色の石、錆びた古い剣。好きなものを持ち込んでは、秘密基地を飾り付けた。
仲間たちと離れ、響き合う絆から離れて、無になる瞬間。
脳を埋め尽くす情報の海にパンクしそうな時、こっそりとここに来て、静かな瞑想の時間を過ごす。
この場所を知っているのはメァリ以外に、ヒュンケルだけだった。
特になんの合意もなく、彼はふらりと現れて、何を話すでもなくメァリのコレクションを眺めて、時にはガラクタを追加して帰って行った。
メァリも、彼の意図を問いただしたりはしなかった。ただ、同類の匂いにほっとした。
時には、ぽつぽつと会話することもある。
「そういうところ、みんなには見せないよね」
「どういうところだ」
「ユーモアっていうか」
ヒュンケルは押し黙って、また人差し指を緩く曲げた。
壊れた窓に欠けられた鈴が、一斉に震えてメロディを奏でた。
「闇の力はもう使わないって誓ったんでしょ」
「ああ」
そう言いつつ、ヒュンケルは無心に鈴を震わせている。
「でも、この世界ではまだ使ってる」
「……」
魔の槍を装備した彼の、圧倒的な光の闘気を想起する。魔剣で戦っている時に時折繰り出す闇の奥義が霞んでしまうほどの。
「ミストバーンの言うとおりだ。俺の、戦士としての真価は、二つの力を同時に宿す事なのだろう。たとえ両極に引き裂かれようとも」
そして、そのまま黙り込んだ。
メァリが口を開く。
「……僕にとっては、闇も光も、武器に過ぎない。強大な間違いを正すための方法の一つだ」
シンプルな言葉に、ヒュンケルはまた微笑した。
「お前が羨ましい。……少し、嫉妬している」
「そっくりそのまま返すよ。ヒュンケルは強いし、大人だし、あらゆる技で敵わない。本当に嫌になる。同じ技を繰り出しても、なぜか威力が劣るんだ」
自分はいったい、何なのだろう。
どこから発生して、どこに行くべきなのだろう。
メァリは古びた人形を手に取り、じっと見つめた。
どこかの子供の宝物。
母親、父親が真剣に吟味し、満面の笑顔の子供に手渡された、思い出の品。
「誰の技もコピーできるのに、自分自身の個性がない。時々、自分が透明な空気みたいな気がするんだ。みんなの絆の脈動を誰よりも感じているのに、その中に自分がいないみたいで」
欠けたガラス玉の瞳が、メァリを見つめている。
「僕の名前も変だし」
と言うと、ヒュンケルがクスクス笑った。
「俺だって同じだ。伝説の剣豪の名だと言われても、人間たちの記録には登場しない、おかしな発音だ。――お前の名は立派だぞ、メァリ。古代の聖母の名だ。人々はメァリとその奇跡の子を崇め、世界の平和を願ったのだ」
メァリは頬を膨らませる。
「僕は……聖母なんかになるよりも、」
続く言葉は、聞き取れないくらい小さかった。
だが、ヒュンケルは正確に理解した。
「……そうだな。俺もだ」
穴だらけの漆喰を通り抜けるそよ風が、沈黙を埋めてくれた。
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