周囲の景色が一瞬で後方へと遠ざかる。驚いた人か獣かの悲鳴も置き去りにただただ走った。
呼吸音が耳障りでどれだけ眼を凝らそうとも一向に見たい景色は見えてこない。
気持ちばかりが先行して足が縺れそうになるが、ここで転びでもすればそれだけタイムロスとなる。
無駄にできる時間なんて一秒たりともないのだ。
冷たい汗が背を伝い、ひらすらに何故気付かなかったと繰り返す。
だが結局のところ思うのは一つだ。
(頼む。頼むから。)
何に祈れば良いかもわからずにただそれだけを繰り返す。
大丈夫だと。あいつは強いからきっと大丈夫。
大丈夫、だからどうか。
よくある盗賊団の討伐依頼だった。
違うのはその盗賊団の頭が魔族だということ、活動範囲がギルドメイン大陸全土に及ぶということ。
この手の盗賊団は地の利がある狭い範囲でしか活動しない。それが大陸全土、ギルドメイン大陸に在る四国すべてで活動しているとなれば範囲が広すぎる。
どうやらなかなかにやっかいな魔法具を持っているらしく、神出鬼没で煙のように消えてしまうことから追跡も困難だったのだ。
大戦後、暫くの後に始まったそれはかれこれ二年ほどになる。
それがここにきてミスをしたらしい。長らく尻尾を掴めずにいたのがようやく手掛かりを得たという。
すぐさまベンガーナから警備隊が捕縛に向かったが、腐っても魔族。死者こそ出なかったものの手酷く返り討ちに遭った。
移動式の魔法具に対抗するにはキメラの翼では間に合わないため瞬間移動呪文が必須だ。
ならばとカールに所用で訪れていたポップに白羽の矢が立った。
捕縛するだけでなく複数あるはずのアジトを突き止め、さらには一人も逃がさないように慎重に事を進めなければならない。
そこでポップはラーハルト、というよりダイに声を掛けた。ラーハルトに言ったところで決定権はダイが持つのだから先にダイとレオナに話をした方が早い。ダイは自分が行きたがったが静かに素早く事を成すには少々不向きだ。それは本人も解っているので少し不貞腐れてはいたがラーハルトに助力を命じた。
作戦は至ってシンプル。ポップが魔法具を無効にしている間にラーハルトが一人ずつ仕留めていくだけ。
人数も多いし、他にどんな魔道具があるかもわからない。人質がいるという情報もあり、これには当初ヒュンケルも共に参加するはずだったのだが、未だ万全とは言い難いコンディションで体調を崩しがちになり、今回も微熱が引かずにいたのでラーハルト一人で行くこととなったのだ。
本人は大丈夫だの一点張りだったが、過去それを信じて一週間寝込まれたことを忘れてはいない。
あの地獄の一週間を繰り返してなるものかと必死で説得し、承服したものの不服そうにしていた顔を思い出す。送り出される時も拗ねた顔で玄関口に立っていた。
二人の時にしか見せないその顔に、可能な限り早く帰ろう。ラーハルトはひっそり誓った。帰ればきっとお帰りと笑顔で迎えてくれると信じて。
それが討伐を終え、連中のアジトを検めていた時にポップが鋭い声でラーハルトを呼んだのだ。
『こいつらの狙いはヒュンケルだ』
何枚かの紙きれにはヒュンケルの詳細が記されていた―居場所までもが。
この場所はずいぶんと家に近い。人目を避けるが故、疑問に思わなかった。この場所を選んだのは獲物の動向を探りやすいためだ。
何故、と思うより先に走り出した。名を呼ばれた気がしたが応える余裕はない。心臓の音以外何も聞こえず、ただ走り続けた。
脳裏には別れた時の拗ねた顔。それがみるみると朱く染まる。呼吸が止まりそうになるのを振り払いながらひたすらに走り続け、既に足の感覚がない。
漸く見えた我が家と、微かな血のにおいに背筋が凍る。そのまま一気に屋根を飛び越えると裏手の家庭菜園に赤い染みが広がっていた。
カチ、と奥歯が鳴る。赤く染まる銀髪を幻視した。動揺を押し殺して気配を探る。慣れ親しんだ匂いが鼻腔を掠め、弾かれたように駆け出した。森の木々の向こうに人影が一つ。戦士失格というべき迂闊さで、それでも逸るままにそこに飛び込んだ。
「ああ、ラーハルト、どうしたんだ?」
汗だくだぞ、首を傾げる姿を頭の先から足の先まで確かめて視線を戻すといつもと変わらぬ白皙の相貌。
体調は良くなったようですっきりとした顔をしている。普段なら安堵するそれにも思考は真っ白なままだ。
「お前が、」
「おれが?」
荒い息を整えることも忘れ、言葉が勝手に口からこぼれる。喘鳴にかき消されそうなほどに小さな声だったが、目の前の男は正確に聞き取ったようだ。
「狙われた、と」
あの盗賊団は金品に飽き足らず、ついには人身売買に手を出していた。人質ではなく、彼らは皆商品だったのだ。囚われていたのは見目麗しい女子供と若い男。何処かで美人の管理人の噂を聞いたのだろう。三月ほど前から商人を装って近くの村に出入りしていたらしい。
何度も道を行き来して家の位置を把握し、出入りする人間の行動を予測し、今日実行に移した。
アジトには魔族の頭がいなかったからこちらに来ていたはずだ。
「ああ、こいつらのことか?」
やはり普段なら真っ先に気付くそれにまったく気付けていなかった。少しずつ冷静さを取り戻すラーハルトが眼にしたのは倒れ伏す男たち。まさに死屍累々。一際酷い有様になっている青い肌も見つけた。
こいつらのせいでトマトがダメになったと肩を落とす彼に何と返せばよいのかわからず、ラーハルトはその場で膝から崩れ落ちた。