都合の良い関係って息苦しい、なんて今更気付く。
割り切れないところまで来てしまったことを自覚しながら、明石さんの手が離れていくのをぼんやりと見つめる。彼の目に視線を合わせられない。
「ほら、曲始まった。誰かと踊ってきや、怪しまれてしまうよ?」
「は、はい」
「自分も適当にやっときますから。また後で」
後ろ姿を見つめながら、ダンスホールにごった返す正装の波に飲まれる。誰の手を取っていても、どうしたって視線は彼に向く。あの葡萄酒に青みをひとさじ加えたような色の髪を、どんな人混みの中でもいちばんに見つけてしまう。気もそぞろにしていると相手の足を踏んでしまいかねないので、音楽に合わせて必死に踵の高い靴出足踏む。
(彼は、なんとも思っていないんだろうな)
わたしじゃない女の子の手を取ることも、わたしと一緒に居ることも、どちらも。それが、わたしにとっては、こんなにも。
涼し気な顔で次々と女の子たちと交代していく彼を見る。わたしの前では見せないような爽やかな笑顔すら見せている。楽しそうですね。ああ、こんな風に醜いことなんて考えたくなかったのに。
そんなことを考えているせいで、一瞬体勢を崩してしまった。相手の腕に背中を支えられて、何とか立て直す。
「大丈夫ですか」
「ええ、平気です。すみません、貧血持ちで……」
「それはいけない。向こうで休むといいでしょう」
半分嘘だった。けれど、都合がいい。こんなに気が散っていては人との交流どころではないから。知らない彼に手を引かれて、ホールの人波をすり抜ける。椅子を引かれて、小さくお辞儀してからドレスを持ち上げ、座って息を吐く。しばらくここで大人しくしていよう。連れてきてくれた彼にお礼を言おうと顔を上げた瞬間、
「大丈夫です?」
先程までぼんやりと夢想していたひとに、背後から声をかけられた。声だけで肩が跳ねる。我ながら単純だ。
「ひぇ、あ……はい」
ぎこちない動きで振り向くと、彼は最初からそうするつもりだったとでも言うように隣に腰掛けた。彼の肘と服の袖が触れそうになって、無意識に裾を握った。深呼吸して緩やかになったはずの心拍が早まってしまう。さっきの間に髪型が崩れてないか、とか余計なことまで考える。そんな間にも、明石さんは柔らかに息を吐いてこちらをちらりと見やった。前髪の隙間から、長いまつ毛が瞬きするのが見える。
「体調崩してるなんて気付かんかったわ、言うてくれたら良かったやん」
「えっと、あの……」
その言葉への答えに詰まる。
体調というか不調なのは心の問題なので、そういう問題ではないというか。思ったより彼はわたしのことよく見てたんだ、とか。困って視線を逸らすと、少しだけ距離が詰められた。はしたなく椅子の上から飛び上がりそうになるのを堪える。
「なぁ」
「は、はい」
「自分のこと嫌い?」
「へっ、え……? どうしてですか?」
嫌いというよりむしろ、違う、そうじゃなくて。瞬きしていると、彼は目を逸らした。まだ隣には居てくれるらしい。
「……ほんまになんでって顔してはるなぁ。いや、さっきからあの知らん男の目ぇ見て話してる割に自分と目線合わせてくれへんし。自分なんか機嫌損ねるようなことしたんかなって」
「ち、ちがいます!」
反射で大きな声を出してしまって、思わず口元を抑える。ばつが悪くなって恐る恐る彼を見ると、その表情が幾分か崩れた。いつもの明石さんだ、と思う。
「ああ、ようやく目が合った」
ぽつり、と彼が言った。その声に全部溶かされてしまいそうになるのを必死にこらえて、胸につかえていたものを吐き出す。
「……明石さんこそ」
「ん」
「知らない女の子たちと、楽しそうだったでしょう」
我ながら子どもっぽい口調だった。だけど、彼はそれを咎めるでもなく、薄く笑ったまま言葉を返した。
「そう見えました? ほんなら愛想笑いしとった甲斐がありましたわ」
「へ」
愛想笑い。その言葉に、思わず目を見開く。
考えてみればそうか。彼は波風立つことを好まない性格で、面倒なことは極力笑って流そうとする、そんな癖がある。わたしが彼と知り合ったのも明石さんの性格がきっかけだったし、そもそもわたしは面倒事を避けるために彼の隣にいることになって……。
ではなく。じゃあ、わたしの心配事は。どんな顔をしていいのかさっぱり分からなくなったわたしに、明石さんはくすっと微笑みかける。
「楽しそうに見えました?」
その表情に少しの悪戯っぽさを感じて、ますます子どもっぽい感情が抑えられなくなった。むくれるなんていけない、と思いながらも、拗ねた声音が隠せない。
「だって、わたしの前ではあんな顔してくださらないから」
ぽつりとそう言うと、今度は彼が黙る番だった。
「……あのなぁ」
「はい」
流れたままの音楽と人々の話し声の中でも、彼の柔らかな声が不思議と鮮明に聞こえる。
「よぉ見て。大事なお嬢さんの前では、自分、愛想笑いせぇへんから」
そう言って、彼は手を伸ばしてきた。わたしの輪郭をなぞるように、するりと冷たい手が撫でていく。どくどくと血が巡って、熱が上がる。思わず固まってしまったわたしに、彼が笑いかける。赤と緑の瞳が、とろりと溶けるように。
「……」
「な?」
もう何の音も聞こえない。たおやかに目を細めてこっちを向いた彼から、視線が外せなくなった。今医務室に行ったら高熱だと思われるんじゃないだろうか。押し黙ったわたしを見て、彼は今度こそ、楽しそうに笑った。