嘘つきの行く末 すぅと息を吸い込む。吐き出したタイミングでドアをノック。乾いた音の後に「はい」という声がして、しばらくするとドアが開き、端正な顔の持ち主が姿をあらわした。ホテル独特の匂いが広がるその部屋はエグゼクティブルームだ。一度スイートルームを取ったこともあるが、「落ち着かない」と眉を顰められたためランクを落とした。それでもスタンダードな部屋やラブホテルを選ばないのは彼に対する敬いの気持ちとお互いに名の知れたディビジョンラップバトルの代表者であるがゆえだ。
「遅くなってすまないね。幻太郎くん」
「構いませんよ。お仕事ですもの。どうぞ、早く中へ」
そう促され、廊下を一瞬だけ確認すると早急に部屋へと足を踏み入れた。シティホテルのエグゼクティブクラスとはいえ何処に週刊誌の記者が潜んでいるか分からない。いざとなれば取材のためホテルに行っただけ、と言えば良いのだが〝火のないところに煙は立たない〟理論で面白おかしく騒ぎ立てられるのも不愉快だ。記者というものはそういう奴らなのだ。
彼はこちらを振り向くことなく窓際の椅子へと腰を下ろした。テーブルの上には一本の瓶とシャンパングラス。俺の視線に気が付いたのか「すみません。飲ませていただいています」と彼は告げた。思ってもいないくせにそんな台詞を吐き出すのが笑える。部屋の支払いはいつも一二三がしているため形だけでも申し訳なさを演出したのだろう。
「言っているじゃないか。好きな物を頼んでもらって構わない、と。他にも何か頼むかい?」
「いえ、いりません。それより貴方、早くジャケットを脱いで下さいな」
一度だけため息をこぼすとジャケットに手をかける。彼はいわゆる〝ホストモード〟の俺が苦手らしい。どちらも〝俺〟ということに変わりはないのに……一度そう言ってみたこともあるが「ふぅん」と興味なさげな反応をされたためそれ以降は何も言わないようにしている。
「あ、てかてか〜!夢野センセ!今日雰囲気違うねー!いつもの服どしたん?」
脱いだら脱いだで喧しいですね、と彼が呟くと続けて口を開いた。
「この服は頂いた物なんですよ。少し〝用事〟がありましたので、良い機会だし着て行こうと思いまして」
彼は普段の書生服ではなくグリーンのシャツに黒いスキニーを合わせて着ていた。
「似合わないですか?」という問いに「全然。似合ってるし、いつもと雰囲気違うからドキドキする」と答える。それに呼応して彼がくすりと妖艶に微笑んだ。
〝用事〟って何なの?誰から貰った物なの?と聞きたいが、言葉にしたところでどうせはぐらかされるのは目に見えているので黙っておいた。
「それに瞳の色とお揃いで良いじゃん」
シャツを贈った人物はきっと彼の瞳とリンクさせグリーンを選んだのだろう。品物のセンスは褒めたいが下心が透けて見えて気分が悪い。
まあどうせそのシャツも今から脱がしてしまうんだけど、と見知らぬシャツの贈り主に妙な優越感を抱いた。
「瞳……なるほど。だから緑なんですね。今、気が付きました」なんていう返事に、どうやら彼はその人物に対して特別な感情はないらしい、と推測し安堵した。
だからと言って彼の一番が俺だという訳ではないことは百も承知だけれども。
「貴方の瞳はこのシャンパンと同じ色ですねぇ」
そう言って彼はグラスを掲げてシャンパン越しに俺を見つめた。翡翠の瞳が揺れる。
グラスの中のシャンパンは細かい気泡を弾けさせていて宝石を連想させるほどに綺麗だ。
この泡がもっともっと弾けてグラスから溢れかえって、彼も彼の瞳も俺の色に染まってしまえば良いのに。
彼がくいっとグラスをあおると俺に手招きをする。何も言わずとも彼のしたいことは予測できている。
傍に寄って跪き見上げると彼は俺の顎に優しく手を添え、唇を重ね合わせてくる。それと同時に流れ込むシャンパン。
彼の唾液と混ざり合ったそれは甘い悦楽を含んでいた。こくりこくりと飲み干せばぐらりと体が揺れる心地がした。舌を捕らえよう、と更に奥に自身のそれも割り入れるが優しく突き離されそれは叶わなかった。
短いキス。六秒。それ以上は交わらない。
「貴方、可愛いですね」
彼は目を細めてそう言った。可愛いだなんて言われ慣れていないが、彼から捧げられる言葉ならどんな言葉でも一二三にとってはご褒美だ。一二三の頭を撫でながら彼は「大きなワンちゃんみたいです」と言った。
「……大きなワンちゃんを飼う気はないの?」
「……悩ましいですねぇ。そのワンちゃんの正体が実はオオカミさんだと知っていますので」
途端に噛み付くようなキスを彼に贈る。
だけど六秒。それ以上は許されない。
******************
ぜえぜえという呼吸音二つ。うつ伏せの背中が大きく上下に動いている。じっとりと汗が浮かんでいるのは今しがた終えた〝行為〟によるものだろう。そこまで彼を甘美へと落とし込めたことに心が満たされた。
自身を纏っていたものを外すと精液を簡単に拭う。欲を放ったことによる脱力感に襲われるがぐっと我慢して彼の体も綺麗に拭いてやる。「シャワー浴びる?」と問うも「んー」とどっちともつかない返事をされたため、一二三もベッドへと寝転んだ。
布団に身を包んだ彼は一二三と目が合うとくすりと悪戯っぽく笑いながら「今日も気持ち良かったですね」と言った。
「それは光栄」
「貴方は?」
驚いた。一二三の感想を聞いてくるなんて珍しい。一瞬だけ目を丸くしたもののすぐに笑みを作って「最高に気持ち良かった」と返した。恋人同士のようなやり取りにじんわりと胸が温まるのを感じる。その内心を知ってか知らずか彼がくすりと笑ったので羞恥心を誤魔化すためにこめかみにキスを落とす。
「夢野センセはさ、そういう姿、ポッセの子たちには見せないよね」
「……そういう、とはどういう姿ですか?」
「エロい姿」
あははと陽気な笑い声が部屋に響いた。この笑い声だって普段、表に出ている彼とは容易に結びつかない。
「生憎、乱数や帝統には抱かれていないのでそういう姿は見せたことないですねぇ」
「エッチのときだけじゃなくてさ、言葉と動作で俺を唆すじゃん」
それがすっげぇエロい、と付け加えると「うーん」と思案した後に「気のせいじゃないですか、少なくとも意識してやっていませんよ」と返された。
「嘘ばっかり」
「おや、野暮なことをおっしゃる。小生は嘘つきですよ、知りませんでした?」
「……それ俺っちの前だけ?」
彼はにこりと笑った後に「さあ、どうでしょうね」と囁いた。それが美しくもあり憎らしく思う自分はだいぶ彼に魅了されているのかもしれない。
いや、だいぶなんかじゃない。計り知れないほど深く彼に陶酔している。
「貴方こそどうなんですか。小生の前だけにそんな姿見せているんですか?」
「……そんなって?」
「物寂しそうな姿」
「さあね」
抑え切れない独占欲が漏れてしまっているか、と頭の片隅で考える。
寂しい、寂しい。欠けた心を埋めて欲しい。彼に埋めて欲しい。手に入らないから追いたくなる。欲望に目をギラつかせる様子は犬かオオカミか。
話を逸らすために、そんなことよりも、と付け加えて言葉を続ける。
「今日は俺っちの気持ち、結構聞いてくるじゃん。期待しても良いわけ?」
「貴方が言ってくれないからですよ」
彼が俺の首元に手を添えて優しくなぞった。柔な力なのにぴたりと動けなくなるほどの威圧感。ぞぞぞ、と背中からわき立つものは恐怖ゆえか恋慕ゆえか。一二三自身にも分からなかった。
「……言ってもいつも返してくれないくせに」
「でも聞きたいんですもの。貴方の口から」
何度目か分からないため息を吐くと彼の額にキスをした。
「夢野センセ、好きだよ。お願い。もう俺のものになってよ」
彼は満足そうに微笑むが、やはり返事はなかった。その代わりに俺の首に添えた手に少しだけ力が入った。思わず「くっ」と声を漏らせば彼は尚嬉しそうに笑みを深くする。苦痛ではないが、快楽でもない。膠着状態。俺らの関係と同じ。受け入れてくれないのならいっそのことひと思いにやってくれ。この関係をお前の手で終わらせてくれ。
「やっぱ何も言ってくれねぇじゃん」
「……言って良いのですか?」
「……良いよ」
彼は艶やかに微笑むと「 」と口にする。
「……全然、聞こえない」
「じゃあ聞こえるように近付いて下さいよ」
俺の喉を撫でていた手がそのまま首の後ろへと回る。彼が俺を引き寄せると翡翠と目が合った。まつ毛の影に隠れるはアメジスト。
あるはずがないのに、探し求めた幸福と真実の愛。それが彼の瞳に静かにそれでいて情慾的に宿っていた。俺の中の炎がじりじりと精神を灼き尽くす。
ああ、だから彼が欲しいのだ。
「もう一度言いましょう」
彼はそう告げるが、その言葉を聞くことはついぞなかった。二人の口内に消えていった言葉が何なのかとっくに理解していたが、聞こえないふりをしたのは自身が怯者ゆえか。
関係の終焉を願ったくせに。
嘘つきはお前ではないか、伊弉冉一二三。