私が彼らを好きな理由小さい頃に住んでいた、田舎が大好きだった。
あまり大きいとも綺麗とも言えないドラッグストアとスーパーと、あとは団地や戸建てや公園しか無かった。
殆ど高齢者の過疎地域だったけど、みんな学校から帰ると「おかえり」と声をかけてくれた。ベンチに座っている笑顔が朗らかなおじいちゃんも、犬に引っ張られて散歩してる少し若めに見えたおばあちゃんも、みんな全然顔見知りじゃないのに必ず笑いかけてくれた。
私はそれが大好きだった。私がそこにいることの何よりの証明だったから。
彼らは余所者があまり好きでは無いようだった。引っ越してきた家族の噂を、こそこそと話していた。根も葉もないその話に興味はなかったが、私は静かに相槌を打った。
今になって思うのは、あそこに住まっていたのは1人で生きられない人ばかりだったのではないかということ。田舎という小さな国で、皆が纏まり合うことで何とか自分という存在を保っていたのだと。
それはもちろん私も例外ではなかった。
中学進学の際に田舎の数倍はあるであろう街に引っ越した時、私は自分を無くしてしまった。誰にも関わら無いし関われ無い、ただじっと息をひそめてひとりきりで私を消して過ごした。
自由と言えば聞こえはいいが、ため池の鯉を海に放流したようなものだった。その自由という海水は私を殺すに足るものだった。
お屋敷は、なんだかあの田舎に似てる。
閉塞的で、味方はこの小さな国のものだけだという様な過信、自分たちの役割分担による存在の確立。
彼らは私を主様と呼び、「おかえりなさい」と言った。ふらふら揺れる蝋燭の火に、田舎の帰り道の夕焼けを思い出して、なんだか泣きそうになってしまったことをよく覚えてる。また私はここで生きていけるのだと、そう思った。
十数年ぶりに田舎へ帰省した時には、私は余所者になっていた。
たまたまスーツで帰ってきてしまった私を見て、東京からセールスマンが来たのではないかと話題になっていたらしい。
笑顔が朗らかなおじいちゃんの家も、少し若いおばあちゃんの家も、みんな空き家になっていた。全てが変わっていた。
その事実に、私は怯えた。
親近感を感じたあのお屋敷も、私は余所者なのだろうか。それともいつか余所者になるのだろうか。
けれど、毎日少しずつため池に入り込む海水に怯えながら、まだ「おかえりなさい」と笑ってくれる彼らとこれからも一緒に暮らしていくしかない。
それしか田舎という居場所を失った、私が生きていく術がないと思うから。
私はあのお屋敷が大好きだ。
いつか、これが過去形になってしまう日が来るとしても。