炊きたてのご飯と調理する音。
リビングに灯ったオレンジ色の明かりと程よく保たれた温度の室内。
私を機嫌次第でぶったりしない親と、暴言を吐かない恋人。
手に入れられ無かった私の全ては、ある日金色の指輪ひとつで突然与えられた。
夢にまで見た理想。虚像。1番難しい、普通。
(……ぁ)
少しだけ、自分の体が揺れていることに気づく。眠ってしまっていたのだろう。なにか考えようとすると、思考が泥々として溶け落ちる。
なんとか薄らと意識を浮上させれば誰かに横抱きにされていることが分かった。表皮の下にある生ぬるい温度が、布を通して私をゆるく温めてくれている。
「…ふふ、良く眠っているね」
心地好く響く低い声と、意外と筋肉質な身体に思い当たるのは1人だけ。目を開けずとも優しく微笑む顔が脳裏に浮かんだ。きっとソファーで寝ていたからどこかに移動させてくれているんだろう。
怖い夢を見ていた訳でも無いのに、急な安心感が波のように胸へと押し寄せる。それは、泣きたくなるくらい穏やかで甘い。
(これが私の幸せ、なの…かな)
ふと嗚咽がこぼれそうになってしまって、気付かれないように奥歯を噛み締めて耐える。
もういっそ舌を噛み切ってでも、息を止めてでも、このまま死んでしまいたい。これ以上の温かさを知るのが怖い。あんなに憧れていた普遍的な幸せが、今となっては後ろをついてまわる大きな影のようだった。幸せにさえなってしまったら、私はもうどこにも戻れない。
この家も生活も、全部が嘘で本当に良かった。明日覚める夢ならば、私はまだ生きていられる。
……そう思ってるはずなのに、微かにこの人と生きる未来を想像してしまう。
静かな日常。何も誰も責めることの無い、凪いだ海みたいな。
揺れが一瞬収まって、体がひんやりと冷えたシーツに触れた。体温と鼓動が離れていく。寝かされた私へと、おそらく布団であろうものがかけられる。
「いい夢を見られますように、おやすみなさい。」
優しいおまじないが鼓膜に届いた。遅れて、パタンと扉の閉まる音がする。
たまらなくなって、私は布団を握りしめて涙を零した。
もう滅茶苦茶だった。明日になって欲しくないのに、このままでいるのは苦しい。一度与えられた幸福という幻想はもう二度と消えてくれはしない。
次第に泣き疲れて夢へと落ちていく意識に響いたのはあの日の楽器の音だった。