石化の魔眼「い・・・や・・・そんなの・・・・」
監督生が見つめたその先で、1人の男が石になろうとしていた。つま先から段々と上半身にかけて身体が硬直していく。男はおやおやと足元を見た のち、監督生を安心させるように微笑んだ。
「大丈夫ですよ。必ずきっとまた、会える」
「いや・・・・だめ・・・ジェイド先輩・・・いやあ・・・」
監督生は恐怖でこわばるからだを必死に動かして、彼へ手を伸ばした。起きて欲しくなかった最悪のことが、まさに今、起ころうとしていた。お願い、彼だけは、彼だけは。失いたくない。元の世界に帰れなくなってもいい、自分の命を投げ出したっていい。だから、お願いだから。彼を凍らせるのだけは。
彼の石化はあっという間に進み、残すところすでに頭のみという状況だった。彼は、涙をとめどなく流す想い人へ柔らかく語りかけた。
「・・・どうやら・・・目は・・・治ったようですね・・・よかった」
監督生を首を振った。何も良くない。彼を犠牲にして助かるくらいならば死んだ方がましだ。涙で視界がぼやけた。彼は最後のあがきとばかりに彼女へ手を伸ばす。監督生は頰を近づけた。泣き腫らして熟れたリンゴのようになった頰を大きな手が包む。
「こ・・・・ちゃ・・・・あいし・・・・てる」
「なに?ジェイド先輩何言ってるか分かんないですよ・・・・!先輩・・・・!!」
男の瞳から光が消えた。最後の手を伸ばした姿勢のまま、彼は石となった。
「せんぱい・・・?いやだ・・・目を覚まして・・・やだぁ・・・ジェイド先輩!!!!!」
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黒の馬車に導かれ、異世界からやってきた女の子。彼女は魔法が使える世界『ツイステッド・ワンダーランド』の魔法士養成学校として名高いナイトレイヴンカレッジに入ることになり、魔力を一切持たないという致命的なハンデを持ちつつも、友人とともに数々の事件を解決してきた。そしてこれは、3度目のオーバーブロット事件が終わり、穏やかな日常に戻りつつあった矢先のお話。
2限目の魔法解析学を終え、ミミズがのたくったような複雑な魔法式の解読に苦労しながらも、監督生を含めた一年生たちは昼食を取るべく大食堂へ向かっていた。朝一番から飛行術だったこともあってか、元より食べ盛りの彼らのお腹はいつもより多くの食料を求めていた。
「オレ、腹が減って仕方がないんだゾ!」
そう言って監督生の頭から勢いよく飛び出して一目散に食堂へ駆けて行ったのは、彼女の相棒である黒猫のグリム。2人一体となって授業を受けている。
「おい、グリム!先に行くならオレらの席も取っとけよな!!」
そう叫んだのは友人であるハーツラビュル寮の一年生、エース・トラッポラである。監督生と最初に友達になったうちの1人であり、ちょっと意地悪だけど、年相応の優しさを持ついい奴である。
「いや、あの勢いだとデラックスメンチカツサンド狙いだろ。期待しないほうがいい」
そう返したのは同じく初めての友人、デュース・スペードである。普段から気さくな心の持ち主だが、煽られた時などに元ヤン精神を発揮することがある。2人とも、監督生にとってかけがえのない大切な友人に変わりない。
「どうせなんも戦果あげられずに帰ってくるだろ」
「てかさ〜〜今日の魔法解析学の課題クッッソむずくない???」
「わかる。後期に入って一気に難易度上がってるよね・・・」
予備知識など当然皆無な監督生には、それはもう地獄のようなハードさであった。無論、勤勉な彼女のことだから、図書館へ通い勉強は怠っていないが、あまりにも知識の開きが大きいので追いつかないのが現状だ。
「あっれ〜〜エースくん、魔法解析学得意って言ってたよな??おととい『オレにかかれば怖いものなし!!』って枕振りかぶって言ってたのはどこの誰だったかな〜〜〜」
「いやいやそれはな??デュースくんに比べればもうなんでもできちゃうというか???お前なんか目じゃねえ、的な??」
「んだとエース!!!」
「やんのかああ!?」
「ちょ、もうやめなよほんとに懲りないな・・・」
隣でやっ噛み合う2人を尻目に、監督生は歩く。それこそ始めは喧嘩を始めれば肝を冷やしたこともあったが、今となればもう慣れたものである。挨拶のようなものなのだろう、と彼女は納得している。
食堂に着くと、中はすでに多くの生徒でごった返している。監督生たちは急いで4人席を探し、腰を落ち着けた。後ろから、毛玉がアタックしてきた。グリムだ。どうやらメンチカツサンド争奪戦には惨敗したらしい。
「ふなあ〜〜〜〜・・・」
「ま、んなこったろーーと思ったけどな」
「まあまあ。なんか買いに行こうよ、グリム」
「オレでっかいメンチカツがいいんだゾ!」
「普通のね」
エースはボロネーゼ、デュースはカレーを頼んだ。監督生はサラダとウインナーとパン、グリムはツナ缶にメンチカツだ。喧騒の中、他愛ない話をしながら昼食を食べる。寮長がどうしたの、マジフトのこのチームが国際大会で優勝しそうだの、この授業がついていけそうにない、クルーウェルが厳しい・・・などなど、話は留まることを知らない。監督生は何の面倒事も起こらない、穏やかな時間がとても好きだった。そして最近、その静穏に陽だまりのような暖かさを加えてくれる人がいる。
監督生は相槌を打ちながら、こっそり、数列奥に座る人影を見やる。1人は輝くような銀髪、2人はインクの水色のような髪色。背がとても高いのでそのぶん目立つ。彼女の視線は、丁寧にリゾットをすくって口に運ぶ人物に吸い寄せられた。彼女は双子の片割れであるジェイド・リーチに片思いしていた。図書室でその長い指を背表紙に慈しむように滑らせ、中身に没頭する綺麗な横顔を見るたびに、心が浮き立つような心地を覚えた。初めて話しかけられた時は全身震えて止まらなかった。アズールのオーバーブロット事件で対立した時は心が引き裂かれるように苦しかった。それも無事終焉し、再び顔を合わせて話せるようになったことは本当に嬉しかったのである。
ああ、今日もかっこいいなあ。監督生の頰はわずかに紅潮する。でも、付き合いたいな、なんて思うけれど、先輩は私のことなんか眼中にもないんだろうな。彼と私の見ている世界はあまりにも違いすぎる。それなのに、同じ視界を共有したい、なんて欲してしまうのはわがままなんだろうか。飽くことなく見つめていると、彼の視線がこちらに向いた。監督生は光速で手元の食事を見た。あぶない。もしかして気づかれてしまったかもしれない。
モストロ・ラウンジに今晩あたり顔を出そうかな。監督生は心に決めた。
ーーーーーーーーーーーー
「なに笑ってんの〜〜?ジェイドぉ」
「お前はきっかけもなく笑い出すと気持ち悪いですね」
アズールの容赦ないツッコミを受けたジェイドは少しも堪えない様子で笑みを浮かべる。
「オレなら違和感ないって言いたいの?」
「お前はいつだって笑っているでしょう」
「んなことねーよ」
そう返しつつ、フロイドはジェイドの肩を抱いた。
「わかったあ〜〜。小エビちゃんでしょ」
「おや、フロイドには何でもお見通しですね」
「また監督生さんですか?お前も飽きませんねえ」
「彼女はずっと見ていられますよ」
向こうでハーツラビュルの一年とご飯を食べている監督生を見やる。グリムの食べ方は汚いので、彼女はテーブルを拭いている。細っこい体つき、肩あたりまで伸びた黒い髪。同じ色の瞳。ジェイドもまた、監督生を異性として好ましいと感じていた。錬金術の初級参考書を探していて本棚の前で固まったように突っ立っていた彼女に話しかけたことが、彼女と知り合うきっかけだった。
『何かお探しですか』
ジェイドの声に振り向いた監督生は、ひどく小さく感じられた。
『錬金術の参考書を探していて・・・・』
彼はひとつ頷き、【錬金術初級〜調合式から材料の下処理方法まで全てコンプリート〜 イェーラ・シーヴィース著】と書かれた一冊を取り出した。
『こちらなどはいかがでしょうか?教科書ほど硬くなく、しかし分かりやすく解説してくれてるので初心者向けにはちょうど良いかと。付録もなかなか便利ですよ』
『なるほど・・・!ありがとうございます!』
こちらに向かって微笑んだ顔がまるで海に差し込む陽光のように眩しく、己の目を疑った。この瞬間、彼は恋に落ちていたのだった。
「小エビちゃん最近よくモストロ来てくれるよね〜〜」
「そうですね。ありがたいことです」
彼女に詰め寄ろうと思えばいくらでもできた。しかし自分と彼女の境遇が違いすぎること、また、己の欲の深さが清らかなあの娘を汚してしまうのではないかという懸念があったこと、そして彼女にすでに想い人がいたらどうしようかという彼らしくもない臆病から思うように足を踏み出せずにいたのである。アズールやフロイドにはユニーク魔法を使えば一発だろう、と言われるが、それで自分の名前が出てこなかった場合腸が煮えくりかえってしまう。要は怖かったのだ。繰り返すようであるが、血飛沫を浴びたところで顔色ひとつ変えない彼が、である。手を出してしまいたい衝動と出して嫌われたら生きていけないという苦悶の板ばさみとなって彼は足掻いていた。
「早く告白してしまえばいいのに、お前もなかなか臆病なところがある」
「慎重と言ってくれませんか?」
「先日僕の大事な取引相手を容赦なく殴って沈めたのはどなたでしたかね」
「始めたのはフロイドですよ。僕はただ手助けをしただけです」
「だあってモストロを舐めた目で見てたじゃん。取引は公平に、がモットーでしょお?ねえ、ジェイド」
「ええ、フロイド」
捕食者を思わせる笑みを交わし合ったウツボたちにアズールはため息をついた。
「契約が破綻したせいで取引相手は探し直しなんですからね」
ーーーーーーーーーーー
その夜も、モストロラウンジは盛況だった。ジェイドはバーカウンターに立ち、モクテルを作っていた。カランコロン。入り口の鐘が軽やかに響き、新たな客の来訪を告げた。
奥で給仕を担当していたフロイドが目ざとく駆け寄る。
「小エビちゃん!」
客は監督生だった。グリムすら連れず、たった1人である。
「また来てくれたの?ありがとう〜〜!」
そう言ってフロイドはスムーズにカウンターへと案内する。
「1名様ご案内でーーーーす!!!」
「いらっしゃいませ!!!」
よく訓練された店員たちが揃って客を出迎える。ジェイドはにこりと笑いかけて、「こんばんは」と話しかけた。
小躍りしたいほどの心を必死に押さえつけて。
「こんばんは。お邪魔します」
「モストロ・ラウンジはいつでもあなたを歓迎します。ご注文は?」
「ホットミルクティをお願いできますか。ミルクを少し多めで」
「かしこまりました。お砂糖はいかがなさいます?」
「多めに入れてもらえますか」
ジェイドは頷き、ミルクを鍋で火にかけた。その間に茶葉を入れたボウルに沸いたお湯を少量注ぎ、じっと待つ。沸騰直前になったら火を止め、水気をしっかり含んだ茶葉を鍋へ投入する。スプーンで軽くかき混ぜたのち、蓋をして蒸らす。蒸らし終わったら中身を茶漉しにかけてティーカップに注ぎ、砂糖を加えれば完成だ。
ミルクティを作る流麗な手さばきに、監督生は惚れ惚れとする。ミルクティをサーブされ、一口含むと、アッサムの深いコクがミルクのまろやかさと溶け合い、夢のような味が広がった。
「いかがですか」
「とっても美味しいです!!」
繰り返し頷くと、ジェイドは嬉しそうに目を細めた。
「それはそれは、ご満足いただけたようで何よりです。当店では最高品質のセカンドフラッシュを使用しておりますので、濃い味がお楽しみいただけるかと」
近頃、彼女はよくモストロラウンジに来てくれるようになった。ポイントカードが目的かとも思ったが、その手の話をしないものだから、どうやらそうでもないらしい。もしかしたらーーーと思わないでもないが、それは期待しすぎというものだろう。フロイドが毎回気を効かせてくれるのでカウンター越しの会話にも慣れた。薄暗い照明に照らされた彼女の表情はとても美しい。
その後、軽食を楽しんだ彼女はポイントをつけてもらい退店した。と、奥からアズールが姿を現し、ジェイドの耳元で囁いた。
「僕が代わりますから、監督生さんを寮まで送って差し上げてください」
「いいんですか?」
「構いませんよ。どうせ10分やそこらでしょう」
ちゃんと距離縮めてくるんですよ、そう背中を押したアズールはジェイドの代わりにカウンターに立ち、注文を捌き始めた。
「送りますよ」
「いいんですか?」
「女性1人では危ないですし、僕も不安なので」
ゆっくり目を見つめて告げると、監督生の目が、わずかに伏せられた。どうぞ、と手を差し伸べれば、おずおずと彼女は小さな手のヒラを載せる。そのまま、2人は歩きだした。
オクタヴィネル寮へ通じる鏡をくぐると、外は既に真っ暗で、2人はわずかな月明かりを頼りに歩いた。枯れかかった木々が風を受けてざわめく。ともすればそれは闇へ惑わせる囁きのようにも感じられる。監督生はわずかに身震いした。
「寒いですか?」
彼女は首を振った。
「いいえ、なんだか怖いな、と」
「そうですか?」
「どこかへ連れ去られてしまうような気がします」
「そんなことはありませんよ。僕がいますから、安心してください」
子供をあやすように繋いだ手を上下に振る。ジェイドは続けた。
「アズールに何か願い事でも?」
一瞬何のことだかわからず、首を傾げる。ポイントカードのことですよ、と言われると、あ、と小さく声を上げた。
「い、いえ。特にポイントを貯めるために通い詰めているというわけでは・・・」
「そうなのですか?最近よくいらっしゃるので」
彼女は頰を赤く染めた。もう少し頻度を低くするべきだろうか。
「えっと、学園長からのお小遣いが最近増えたので・・・」
咄嗟に言い繕うが、信じてもらえたかは定かでない。不利になると察して彼女は話題を変えた。遠くでぼんやりと浮かんでいる月を指差す。世界が違えど周りに存在する星々は同じらしい。それは学園に入って天文学を学び始めてから判明した事実だった。
「あのっ、月!」
「月がなにか?」
「私の国では、『月が綺麗ですね』って言葉があるんですけど、どういう意味かわかりますか?」
「言葉のままではないのですか」
「いえ、『あなたを愛しています』っていう意味になるんです」
ここまで言い切って、彼女はさしてうまく話題を変えられたわけではないことに気づいた。むしろ悪化してはいまいか。というかこれ、告白みたいに感じられるのでは???思わず彼を窺うと、彼は変わらず、こちらを見つめているばかりだ。おかしく思われてないかな、と不安になると、彼はにこりと笑った。
「それはとても興味深いですね」
「そ、そうですよね!あまり使う人はいないんですけどもっ!」
「そういえば僕も、情熱的な愛の言葉を聞いたことがあります。『I love you』を、『死んでもいい』と訳すものです」
「それは・・・とても素敵ですね」
「でしょう?ぜひ、誰かに言ってみたいものです」
叶うなら貴女に。
ポツリとそう呟いた言の葉は、風にかき消されて彼女の元へは届かなかった。
話しながら歩くうちに、オンボロ寮に着く。
「送っていただいて、ありがとうございました」
監督生はぺこりと頭を下げた。
「いえいえ、とんでもございません。僕もお話しできてとても楽しかったです。またいつでもいらしてください」
ジェイドも恭しく右手を胸に添えて一礼した。あと、と付け加える。
「先ほどの話は他の方になさらない方がよろしいかと。他の方含め、僕もです。・・・期待してしまいますから」
下げた頭を上げながら彼女の目をまっすぐ見つめて、一言ずつゆっくりと紡いでいく。監督生はぱちぱちと長い睫毛を瞬かせた後、心の中で動揺した。どういうこと?期待してしまうって、何を。暗闇で意味深に輝く双眸は私に何を訴えかけているの?暴れだしそうな心臓を必死に押さえつけた。何とか顔に出さなかっただけ及第点だろう。これもいつものいじわるのうちに入るのだろうか?それなら。それならば。
「・・・期待してくれて構わないです」
え、と呟いたジェイドを残し、彼女は一気に走り去った。
彼女が寮の中に入ったことを確認しも、ジェイドは突っ立ったままであった。今起こった出来事を咀嚼できないでいた。急に性能が落ちた自身の頭脳に呆れため息をつく。彼女は自分が送り狼にならないのを感謝するべきだ。あまつさえ、『あなたを愛している』と言われた上、『期待してくれて構わない』とのたまったのである。滅多に動揺しない彼はこの時、激流の真っ只中にいた。全く猛獣使いとはうまく言ったものだ。彼女は充分ヴィランの資質がある。
「勘弁してください・・・」
ーーーーーーーーー
その翌日。
「小エビちゃ〜〜ん」
「ぐえっ」
両肩に重みを感じて、監督生は潰されたカエルのような声を上げる。
「おもしれえ声〜〜〜。小エビちゃんさ、今日モストロで新作の試食会やるんだけど来てよ」
絶対ジェイドもいる。昨日の今日で顔は出しにくい。どんな面で会いに行けばいいというのだろうか。
「いや、ちょっと今日は用事が・・・」
「は??????」
「あ、いや、行かせていただきマス・・・・」
案の定流された。フロイドはじゃあ6時に来てねえ、待ってるから!と言い残して去ってしまった。
相変わらず台風のような人だな、と思う。と同時に気が重くなった。昨晩はいきなり距離を詰めすぎた。自分でもなぜあのような積極的な言葉を返せたのか不思議でならない。月の光にでも当てられたのだろうか。自分のものにしたいなんて、感じたことはあってもそんなことはできないと言い聞かせてきた。もしジェイドに避けられたら終わるな、と死刑宣告を待つ囚人のような気分だった。
放課後を告げる鐘が鳴る。生徒は待ってましたとばかりに部活動へ行ったり教室に残って駄弁ったり思い思いの時間を楽しみ始める。エースもデュースも、今日は部活動があるとのことで、また明日な、と教室をポップコーンの勢いで飛び出して行った。グリムはエースにくっついて行ってしまった。監督生は、図書室で六時十分前まで勉強したのち席を立った。オクタヴィネル寮へ一歩近くたびに心についた錘が重量を増していく気がする。ほんとにむり。だってあれ、告白したようなものでは?言わなきゃよかった。ぶつぶつ呟きながら外を眺める。
突き当たりを曲がる。放課後にしては、やけに人気が少ない。教室にせよ廊下にせよいつもは誰かしらがいるはずなのに。今は別にテスト前のような寮生が何かしらのために寮内に引きこもったりなどする時期ではない。生徒たちの喧騒が普段より遠くから聞こえてくる。不思議だが、まあそういうこともあるかと監督生は深く考えず歩いた。彼女はふと、数メートル先の床に鏡が落ちているのを見つけた。誰かが落としたのだろうか。ゴールドの豪華な装飾が施された比較的大きめの手鏡だった。ポムフィオーレあたりの生徒が所持していそうだ。明日あたりに事務の職員に届けてみよう。そう思い、屈んで拾う。その拍子に自分の顔が鏡に映った。事情が事情なのでかなり情けない顔つきをしている。と、その時。
右目を焼け付くような痛みが襲った。針で無数に刺されたかのような、はたまた熱湯でぶっかけられたかのような激痛だ。あまりの痛さに目を抑えて蹲る。その熱さはどんどん眼球内を侵食し、脳にまで達してしまうのではないかと思われた。痛みそのものは数十秒で収まる。目を抑えていた手を外し、恐る恐る目を開けてみる。
視界には何も異常なかった。一体なんだったのだろう。念のため保健室に行くべきか、と立ち上がった瞬間、それは起こった。にわかに、目の前の淡いクリーム色だった壁が床との付け根から天井にかけて、色が灰色に変わっていったのである。
「えっ?」
わけがわからず、あたりをキョロキョロする。すると見渡したもの全てが、ゆっくりと時間をかけて灰色に変わっていくではないか。壁にかかっていた絵の中たちの人物たちが動きを止める。廊下の先まで、一面灰色の世界になってしまった。監督生は頭がおかしくなったのかと疑った。視界が灰色になってしまう魔法でもかけられたのか。しかし絵の異変を認めた途端、ただ事ではない、と察した。視界はグレーになっただけなら、絵は動く。そうでないということは、自身が何かしらの力で絵に干渉してしまったことになる。しかし、魔力を持たない自分が絵の動きを止めることなんてできるはずがない。落ちた手鏡を拾って顔を覗く。
「きゃあ!」
かしゃん、と音を立てて手鏡が手から滑り落ちる。映ったのは自分の右目の虹彩が血に塗り固められたかのように真っ赤に染まった自身の姿だった。ショックのあまり一気に身体の力が抜け、彼女は床にへたり込んだまま、動けなくなってしまった。
ーーーーーーーーー
「フロイド、本当に監督生さんは来ると言ったのでしょうね?」
ジェイドは新作の候補をテーブルに並べながらフロイドにちらり、と疑惑の目を向けた。
モストロ・ラウンジでは『秋』をテーマに新作料理の講評会を行うため、カラフルに彩られた料理やスイーツが卓に載っている。オレンジや赤を基調としたものが多い。栗のモンブランや南瓜のプリン、アイスクリームなど、寮生がアイデアを出しあい作られている。
「行かせていただきます、って言ってたから絶対来るでしょ」
「しかしもう時間を過ぎているではないですか」
「どっかで足止め食らってんじゃねえの?」
ハプニングに巻き込まれやすい彼女のことだから、それは十分に考えられる。しかし厄介事では長引く可能性もある。料理が冷める前に彼女には味わってもらいたい。携帯に連絡を入れようかとも考えたが、
「・・・迎えに行きます」
「早く回収して来てね〜〜」
おそらく彼女は図書館で勉強してから来るだろう、と当たりをつけてラウンジまでのルートを予測する。西階段を下りて奥を左折。さらにその次の廊下を突き当たって右。そこから外に抜ければ、オクタヴィネル寮に通じる鏡に最も近いはずだ。それにしても彼女が今日来るとは思わなかった。ジェイドですら、顔を合わせづらいと考えていたのだ。大方フロイドに押されたのであろうが、それでも会えるというならば嬉しい。満更でもないというならば、多少攻めても構わないだろう。そろそろ潮時なのかもしれない。心が纏っていた臆病のメッキが剥がれ出したのを彼は感じた。口元に、愉しげな笑みが浮かんだ。今頃どこで油を売っているのやら。
(やけに静かだな)
彼女が図書館にいたという予想を外したか?彼女の生態はあらかた調べつくしたと思っていたが、どうやらまだまだらしい。脳内でルートを再検索していると、しんとした廊下の遠くから、か細い悲鳴が耳に届く。確実に監督生の声だ。ジェイドは脚を早める。突き当たりを曲がってーーーー彼は瞠目した。廊下だがーーーいつもと変わらない廊下だが、何かがおかしい。その廊下は見渡す限り一面の灰色だった。壁も、床も、教室の中身も。その中心に、彼女がいた。両手で顔を覆って、嗚咽を漏らしている。
「監督生さん!」
駆け寄って、片膝をつく。彼女自身に外見上の異変はないようだった。怪我も見えない。ジェイドは胸を撫でおろした。しかしこのままではいけない。ポケットに入れたマジカルペンをいつでも取り出せるよう身構えながら、彼女に話しかける。
「怪我はありませんか」
「近づかないでくださいっ!」
彼女が腕で彼を押しのける。弱々しい力では、彼はビクともしない。
「僕は大丈夫です。何も異変はありません。これはどうしたんですか」
「なんか変なんです、私が見たもの全てが灰色になって・・・っ」
壁に手を触れる。そこで彼は再び驚いた。壁は全て、ざらざらとした石に姿を変えていた。壁にかかった絵が、ピクリとも動かない。石化の魔法?しかし魔力を持たない彼女が広範囲の状態変化魔法を使えるはずがない。マジカルペンを持ったところで、彼女には杖先に明かりを灯すことすらできやしないのに。
「そこの鏡を見たら・・・右目が痛くなって・・・異変が生きたのはその後です。今はどこも痛くありません」
つっかえつっかえになりながらも、彼女は言葉を紡ぐ。右目に何か異常が起きた可能性が高い。ジェイドは頷いて、ふわりと彼女を抱きしめた。泣く子供をあやすように、優しく頭を撫でてやる。
「とりあえずフロイドを呼んで来ます。監督生さんは絶対に目を開けないでくださいね」
彼女を壁に寄りかからせてから、立ち上がる。彼女の足元に転がる鏡を見る。一面灰色の世界でそれだけが例外であるかのように、手鏡は以前の金の輝きを保ったままだった。
ーーーーーーーーーー
フロイドに事情を説明し、学園長を呼ぶようにお願いした。ジェイドは監督生の元へ戻り、廊下の惨状を眺めていた。
「これは一体どういうことです?」
廊下を見た学園長が叫ぶ。
「僕にも詳しくはわかりませんが、監督生さんはこの鏡を見た後におかしくなった、と」
ジェイドは持ってきた毛布を彼女の肩にかけて背中をゆっくりとさすっていた。今も小刻みに震えてはいるが、多少は落ち着いたようだ。フロイドが鏡を拾い上げようとする。それを鋭い声で学園長が制止した。
「およしなさい。まだ呪いが残っている可能性があります。慎重に扱う必要がある」
学園長は教員たちに使い魔を飛ばした。魔法士でさえも、なかなか廊下全体の性質を変化させることを完璧にやってのけることは難しい。ここの学園に在籍している教師陣ならば可能だろうが、一介の生徒、それも魔力を持たない生徒が行えるとするのは夢物語だ。彼女の話から推測すれば、彼女は鏡によって何らかの呪いにかけられたと見るのが正しいだろう。魔力を持たない者は魔力媒介物に触れたところで何も起こらない。古代魔法に則り、木の枝を使って魔法陣を描いても意味がない。つまるところこの鏡は、1を10にしたのではなく、0を1にすることを可能にしたのだ。魔力を持たざる者に魔力を持たせたことになる。それもとてつもなく膨大な。学園長は脳内で過去の記憶を漁るが、どの文献にもこのような記述を見かけたことはない。どれだけ強力な魔法がこの中に込められていたのか。
クルーウェルとトレインが来たので、事情を説明する。2人とも同じくこの状況を見て低い声で唸った。トレインは壁にそっと手を触れる。
「これは恐らく、石化の魔法だ。だが問題はそこではない」
クルーウェルが頷く。
「ここにおける問題は、呪いによりどんな魔法を使えるようになったか、ではなく、呪いにかかったことそのものだな」
彼女以外の全員が、頷いた。学園長はリーチ兄弟へ向けて帰るように伝える。万一にも、生徒に被害を出すわけにはいかないからだ。
「イシダイせんせー」
「なんだ?フロイド・リーチ」
「俺の魔法使えば小エビちゃんも目開けてお話できるんじゃない?」
フロイドのユニーク魔法【巻きつく尾(バインド・ザ・ハート)】はあらゆる魔法を弾くものだ。しかし、クルーウェルは首を振った。
「ならん。あまりにリスクが大きい。お前の魔法がどこまで耐えうるかが分からん。もし石化したらどうする?人を巻き込むことがなかった仔犬は運が良かった。これ以上被害を広めるわけにはいかない。ステイだ」
「でもこのままじゃ小エビちゃん外の世界2度と見れないかもしれないじゃん!目が見えないって陸の人間からすれば致命的だよ。オレ、石になってもいいよ。小エビちゃんのためだもん」
(フロイド・・・?)
その言葉に最も驚いたのはジェイドだった。フロイドは普段から監督生のことを構ってはいたが、そこまで愛着が強まっているとは思わなかった。どうでもいい奴のことはゴミ屑よりもあっさり見捨てる男だ。それがなかなか引き下がるのを見ることは稀である。
「駄目だ!」
「やる!」
「学園長も帰れと言っている。帰れ!!」
「やだ!こんなに震えてる小エビちゃん残して帰れない!」
どうせ小エビちゃん囲んで怖い思いさせるんでしょ、と言うフロイドに、バカなことを言うな口を閉じろと叩き返すクルーウェル。2人の舌戦がどんどん加熱していく。
「先生。僕からもお願いします。フロイドのユニーク魔法を試させてもらえませんか?」
ジェイドは付け加えた。クルーウェルは呆れて鞭を手に叩きつけた。ぱしん、と乾いた音が鳴る。
「ジェイド・リーチ。俺はもう少しお前のことを判断力のある生徒と思っていたが?」
「試す価値はあると思います」
トレインが優しく宥めた。
「しかし万一お前に何かあった場合、彼女はどう思うかな?」
「・・・・・」
さすがのフロイドも監督生を盾に取られると弱い。監督生は項垂れたまま首を振った。フロイドが石化した場合、彼女は一生自分を責め続けるだろう。そんなことは絶対にさせられなかった。
「・・・小エビちゃん」
フロイドが監督生の隣でしゃがみこんだ。
「オレを信じて?」
「・・・・・」
「大丈夫だよ。オレがどんだけ強いかよく分かってるでしょ?」
「・・・・・」
「ね、だからオレを信じて。絶対にいなくなったりしないよ。もし石になっても絶対アズールとジェイドが何とかしてくれるもん」
そう言って、頭をふわりと撫でた。
「・・・・・はい」
震える声で、彼女は呟いた。
「やってみますか?」
ふむ、と唸り助け舟を出したのは学園長だった。
「学園長!」
クルーウェルが頑なな声で止めるが、学園長はフロイドを見据えると、
「一生動けないかもしれませんよ」
と釘を刺した。
「言ったじゃん。アズールたちが何とかしてくれるって。それに学園長たちだって黙ってないでしょお?」
全く。フロイド自身この呪いが対処し辛いものであることは分かっているはずなのに、そこまで周囲に絶対の信頼を預けられるその精神。ここまで来ると怒りを通り越して呆れるな。クルーウェルはそう思った。がしかし、愛すべき生徒に頼られて日和るようでは教師の名が廃る。彼は尊大に笑った。
「そこまで言うならお前の能力を試してみろ」
トレインは何も言わなかった。もう既に諦めていたようだ。数瞬の沈黙の後、学園長は頷く。
「分かりました。それなら、やってみなさい」
ーーーーーーーーーー
それから一行は周囲に何もない草地に転移魔法により移動した。学園長が作り出した現実に存在しない架空空間である。ここならば、周囲に危険が及ぶこともない。フロイド以外の人間は監督生の視界に入らないよう。背後に回る。彼だけが、監督生の目の前に立った。
「準備はいいですか?」
学園長がフロイドに問う。彼は腕で大きく丸マークを作って寄越した。
「もし何かあれば私が全責任を追いますので安心してください」
フロイドは頷く。透明な石がついたマジックペンを取り出し、目を閉じる。
「・・・【巻きつく尾(バインド・ザ・ハート)】」
彼はユニーク魔法を使った。
「小エビちゃん、目を開けて」
春の陽光のように、優しく、語りかける。監督生は、ぎゅっ、っと閉じていた両目を、開けた・・・。
そこは遥か彼方まで草原が続いている平地だった。学園内と同じような気候で、突き抜けるような青空が広がっている。涼しい風が吹き寄せて草たちがざわざわと身体を揺らす。その心地よさに彼女はうっとりとした。と、その地面がみるみるうちに灰色と化していく。彼女の魔眼が発動したのだ。風に大きく揺れていたはずの草は、一斉に動きを止め、土壌すら石と化した。反して空は青いまま、雲は流れを止めない。さすがに天候を止めるほどの威力ではないようだ。しかし、彼女の視界に入りきる限界までほぼ全てが石化された。監督生は「ひっ」と慄いて両手で口を覆った。これが今自分が行っているとは、全く信じられない。彼女の背後で見守っていた者は、やはりとんでもない魔力だ、と認めざるを得なかった。しかしその中で、唯一フロイドだけが、なんの影響も受けずに平然と突っ立っていた。石化されることなく。彼のユニーク魔法は、魔眼を退けたのだ。彼は彼女に笑いかけた。
「ね?言ったでしょお、信じてって」
「はい・・・はい・・・!」
彼女は驚きと感動に目を輝かせて何度も頷いた。やっぱり、フロイド先輩はすごいのだ。
ジェイドは大丈夫だと言う自信があったようで何も言わない。トレインはどことなく安心したように頷き、ウェルダン、とクルーウェルは呟いた。
「なるほど、彼のユニーク魔法は有効である、と」
「しかし呪いの元凶であるあの鏡を徹底的に調査しなければ彼女はずっとこのままだ」
「確かにそうです。鏡の分析は、どなたかお願いできますか?」
「私がやろう」
「では分析はトレイン先生に。クルーウェル先生、何か策はありますか?」
「とりあえずは彼女が問題なく日常生活を送れるだけの支援が必要でしょう。魔眼を相殺する眼帯を作れば、当面の凌ぎにはなるかと」
「眼帯を作れますか?」
「やってみます」
「眼帯ができるまでは、僕たちが彼女をサポートします。彼女の友人にノートを取ってもらい、それを僕たちが教える形にします。アズールのユニーク魔法があれば、可能でしょう」
「というと?」
「アズールのユニーク魔法によって契約を結び、フロイドのユニーク魔法を他人でも使えるようにします。フロイド、依存はないですね?」
「いいけどお、貸してやれんのはジェイドとアズールの2人だけね。他は信用できないしい」
「まあ、それは仕方ないでしょう。あなたたちであれば教えるのに不足はないでしょうし」
ユニーク魔法を他人に貸す、ということ自体がまず常軌を逸しているのだが、当の本人たちは明日の天気の話でもするかのように自然である。それもアズールのユニーク魔法と3人の強い信頼関係があってこそだろうと学園長は推測した。彼らは基本的に成績に問題はないようだし(フロイドは気分により上下が激しいが)、うまく彼女を支えるだろう。
「監督生さん、大丈夫ですよ、僕たちがいますから」
「そうだよ〜オレたちがちゃあんと守ってあげるからねえ?」
アズールはこの場にいないが、事情を知れば駆けつけて来るだろう。監督生は思いの外様々な生徒に慕われている。
「あり・・ありがとうございます・・・」
監督生は目を再び閉じたまま、教師らと双子に頭を下げた。元はと言えば私が迂闊にも鏡を拾ったのが原因なのだし、本当に申し訳ない。ここまでしてもらえる自分はとても恵まれている、と感じた。
「あ〜あ〜また小エビちゃん泣いてる〜〜」
「今回のことはお前のせいではない。だから自分を責めることはするな」
クルーウェルとトレインが転移する間際、監督生の頭を撫でた。
「そうなれば早速分析に取り掛からなければ。魔法解析学のマイキー先生にもご教授頂いた方がいいだろうな」
「フロイド・リーチ。落ち着いたら早急に俺の研究室へ来い。お前のユニーク魔法を解析して眼帯に織り込む」
そして2人の教師は転移して消えた。
「監督生さん、オンボロ寮にこの魔法空間を繋いで眼帯が完成するまではここにいてもらうことになります。いいですか?」
オンボロ寮に帰れば、目を開けた途端全て石化してしまう。無理もない。彼女は頷いた。
「とりあえずここを草原ではなく住みやすいように室内に作り変えます。家具も用意させますが、魔眼が発動すれば全て石になってしまうでしょう。なるべくあなたへのストレスを減らすために、全て灰色に作りますが、材質の点については維持できる保証はありません。大変心苦しいですが」
あらかじめ家具の色を全て灰色にしておくことで、魔眼に当てられても色は変わらない。材質は全て石を化すが。
「いえ、そこまでしていただけるなんて本当にありがとうございます。嬉しいです」
「ベッドが固くなっては寝る際かなり辛いでしょう。何か対策を考えておきます。部屋の雰囲気の要望などは?」
「今の自分の部屋と同じ感じにしていただけたらと思います。あと空が見たいです」
学園長は頷く。できる限りの配慮をこの子にしてあげなければと、そう思った。
ーーーーーーーーーーーー
翌日、教師の方から生徒の方へオンボロ寮にはなるべく近づかぬように、との触れを出した。しかし事が事だけに真実を明かすことはせず、寮付近に呪いがかけられたため魔法磁場が狂っているので、容易に近づくと何が起きるか分からない、と説明したのである。監督生と仲がいい友人に対しては、住人である監督生やゴーストなどは避難できたが、監督生は一部磁場に触れたので身体に変調をきたしたため、治るまでは授業を欠席する、と伝えた。オクタヴィネルの3人だけは真相を知っていたが、教師たちからも箝口令を敷かれていた。もとより、彼らも外に漏らすことなどは決して考えていなかったが。
「トラッポラ・スペード・グリム、カムだ」
魔法薬学の授業が終わったのち、クルーウェルは3人を呼び出してオクタヴィネル以外のことを説明した。
「なっ、監督生は大丈夫なんですか!?」
「面会には行けるんですか!?」
「オレ様どうしたらいいんだぞ!」
口うるさく重ねられる質問にイライラとしてクルーウェルは鞭を振るった。
「Be quiet質問は1人ずつ行うように。まず監督生については命の別条はないから安心しろ。ただ面会は一切謝絶だ。周りにもそう伝えろ。グリム、お前は今日からハーツラビュルに世話になれ」
「なっ、なんで面会謝絶なんですか!特に重症でもないのなら・・・」
「事情がある。それと、これから取った授業ノートは全てオクタヴィネルの寮長かリーチ兄弟のいずれかに渡すように」
3人はぽかんと顔を見合わせた。なぜここでオクタヴィネルの奴らの名前が出てくるのだ?と。
「今回のことについてオクタヴィネルの奴らから多少の協力を得ている。彼らは仔犬に会うことが許されている。わかったか?」
「いや・・・はあ・・・」
「最も、お前たちの方があいつらより上手く習った内容を教えられる、というのであれば話は別だがな?」
全員首を振る。アズール・アーシェングロットがいる時点で自分たちの出る幕はない。萎れた彼らを見て、満足げにクルーウェルは頷いた。
「話は以上だ。特に質問がないのであれば次の教室へ向かえ。解散!」
そう言われてすごすごと引き下がった3人であったが。
「なんでオクタヴィネルの奴らはいいんだ?」
「俺たちだって監督生に会いたいのに」
「ハーツラビュルの奴ら、子分よりもツナ缶くれないからイヤだゾ・・・」
「「それはお前が食い過ぎなだけだ」」
しょぼくれるグリムに容赦ないツッコミを叩き込む2人。
「そうだ!ノート渡すときにメッセージ書いて渡そうぜ!そしたら監督生から返事が返ってくるかもしれない」
デュースが嬉々として提案する。エースはその背中を叩いた。
「お前にしてはいい案なんじゃね?」
「一言余計だ!」
「そうと決まれば早速書くんだゾ!」
「ジェイド、フロイド。エースさんたちから今日の分のノートを頂いてきましたよ」
モストロ・ラウンジのその奥、VIPルームに入ると、双子は寮長を受け入れた。
双子はあの後、アズールにすぐ事情を話した。監督生の異変を聞くとアズールは重い溜息を吐き出した。
『魔眼ですか』
『ええ。聞いたことがありますか?アズール』
眉間に手を当てて考え込む。この学園に入学する前は、アトランティカにある海洋随一の図書館に足繁く通いジャンルを問わず書物を読み進めてきた。無論今も学園の図書室に入り蔵書棚のさらに奥にある限られた生徒しか入れないと言われる禁書棚にも踏み入り、あらゆる書を読んでいる。これまで培ってきた膨大な書物のデータを脳内で漁るが、今回の現象に当てはまるものが浮かばない。あの学園長ですらお手上げだったというのだから、自分が分からないのは決して恥ではないだろう。
『いいえ。ありませんね』
『となるとやはり先生方にお任せするしか・・・』
『いえ、こちらでも探しましょう。先生方は魔法という観点から解決策を模索している。対して我々は違う角度でメスを入れます』
『というと?』
『魔法ではなく【呪術】という視点です。あの鏡によって監督生さんが呪いにかけられたとしたのならば、考えられる解呪方法は2つ。1つ目は魔術。呪いを解析して、呪いの効果を相殺させるような魔術を監督生にかける。これは今先生方が取り組んでいることですね』
『イシダイ先生はオレのユニーク魔法で眼帯作るつもりらしいよ〜〜』
フロイドの言葉に、頷きを返すアズール。
『なるほど。フロイドのユニーク魔法をね。それは悪くない案です』
『そして、もう1つは?』
『もう1つは、先ほども言ったように呪術です。呪術といったものはあらかじめこうすれば呪いが解ける、といった解呪方法があると前提になっているものが多い。それは神話であったり伝承の中から引用されることがほとんどです』
『なるほど。茨の塔で毒に触れ千年の眠りについた姫は、王子のキスで目が覚めたとか。そのようなお話ですか?』
『その通りです。今のジェイドの例えを使うなら、針が関係する呪いであればキスによってそれを解除できる可能性があることを示唆しています』
『なるほど。つまり、これから僕達は監督生さんにかかった呪いに似た伝承を探せばいいと?』
そういうことです、とアズールは頷き、マジカルペンで手元の羊皮紙をトントンと軽く叩いた。すると黒いインクの文字が表面に浮かび上がる。
『キーワードは【石化】・【魔眼】・【鏡】などでしょうかね。大掛かりになりそうですよ、これは』
アズールが吐き出した息は先程よりも軽くなっていた。ある程度の目処がついた安堵と、未知の問題に遭遇したことによる高揚感がさせたことである。
『オレのユニーク魔法貸すのはどうすんの?』
『基本的にはこの中でモストロのシフトが入ってない者が監督生さんに会いに行く、という形がベストかと思います。ですので日毎に契約を結び直す必要があります。シフトが分かっている分をまとめてしまってもいいと思いますが』
双子は頷いた。彼の意見に異存はない。
『呪いのヒントについては各自で探して、常に情報を共有することにしましょう』
『・・・アズールが監督生さんにそこまでするとは思いませんでした』
ジェイドの瞳には新鮮な驚きがある。アズールは無論、彼女との関わりが全くないわけではないが、無償で助けを提供するほどの仲があるわけでもない。あくまで顧客の1人であるだけだ。それなのになぜ、というジェイドの質問に彼は笑って答えた。
『彼女のポイントカード、そろそろ埋まりそうだったので。特典の付与を多少早めただけですよ。監督生さんにはまだ、うちの顧客でいて頂かなくては』
そんなわけで日替わりで契約内容を変更した結果、今日はジェイドがフロイドのユニーク魔法を借り受けているというわけである。アズールからノートを受けとったジェイドはその内容をざっと確認し、教え方の算段をつける。1年前に習った内容なのでそう簡単に忘れはしないが、好きな人に対してはいつでも格好よく、真摯にありたいものだ。監督生の理解が進むよう、手元からいくつかの参考書をピックアップした。ノートを傍らから覗き込んでいたフロイドは最後のページを見て笑った。
「手書きメッセージて。古風かよ」
「今の監督生さんは電子機器もまともに扱えませんからね。このようなアナログな方法に頼らざるを得ないのでしょう」
見るもの全てを石に変えてしまう魔眼を持った彼女は、生活に多くの支障をきたしていた。食事をするにも自分で調理はできないし、食べる瞬間も目を閉じていなければならない。味覚だけで食事を楽しむなんてことは当然できず、食欲は落ちる一方だった。仲の良い友人には会うこともできず、ストレスは溜まる。オクタヴィネルの3人は友人という関係には多少遠いので、監督生も多少身構えてしまうところはあるのだろう。お風呂に浸かって疲れを癒したいところではあるが、それもままならない。毎日学園長が魔法で彼女の身体を身綺麗にしてくれるので問題はないが、なんだか味気ない。
彼女とのバイパスは唯一、オクタヴィネルの3人と友人たちがとる授業のノートである。彼女ととりわけ仲の良いエースとデュース、そしてグリムはノートにメッセージを書くことで、彼女との連絡を取ることに成功した。ネットワークが年々利便性を増す世の中に際して筆談とはなんとも皮肉な話だが、監督生は大いに励まされた。エースの癖のある文字やデュースの角張った文字、グリムが必死に書いたであろう苦労を思わせるへにゃへにゃとした文字は彼らの心情をこれでもかと伝える。彼女は大丈夫だよ、ありがとうと返して彼らを安心させた。そんなわけで、日常のやりとりなどがこのノートを通じて行われているというわけである。
「学園の中でオレたちだけが小エビちゃんと話せるの、ユーエツ感じゃね?」
「それは分かりますよフロイド。しかし、監督生さんには早く元気になって頂きたいものです」
ジェイドはため息をついた。実際、会う毎に彼女からは生気が失われていくようで、心配でならない。彼の好きな水面に差し込む一条の光が、どんどん薄れていくように感じられるのである。それはジェイドの本意ではなかった。彼女には、もっと笑っていて欲しいのだ。
「このままだと、乾燥エビになっちゃうね」
「・・・眼帯の完成はまだなんですか?」
「そろそろ第一弾ができあがるってイシダイせんせー、言ってた。今日が最終調整だって」
まじだりー、と軟体動物のようにソファーで伸びるフロイドを見て、ジェイドは笑った。
「連日のように呼び出されてましたね」
「意味わかんねー呪文かけられるわ、身体を隅々まで調べられるわでほんっとに疲れたぁ。男同士ですることじゃないよアレ」
「フロイドのユニーク魔法の性質を調べないことには眼帯にすることなど以ての外でしょうからね」
昨日の売上の伝票を整理しながらアズールは言った。クルーウェルを初めとした教師たちの苦労も、また計り知れない。
「外部機関への協力要請は出していませんからね。学園長は騒ぎを大きくしたくないようです」
「それが吉と出るか凶と出るか・・・」
マジカルペンを一振りすると、ふわ、と大量の伝票が舞い上がって箱に収まる。日付が書かれたラベルがぺたりと貼られて場は静寂を取り戻した。
「とりあえず、今できることをきちんとやりましょう。さて、ラウンジを開けますよ」
無駄のない仕草で立ち上がったアズールがVIPルームを出ていく。今日は『お話』をしなければならない生徒が複数いる。普段は口を割らせるのに多少手間取ることもあるが、ジェイドから譲り受けた【かじりとる歯】を以てすればそれは容易なことに思われた。
翌日の放課後。クルーウェルとフロイドはオンボロ寮の監督生のもとを訪れていた。出来上がった眼帯の試作を試すためであった。
オンボロ寮の2階へ踏み込むと、リビングの奥側に空間を齧りとるようにまた別の広い空間が広がっている。そこが現在の彼女の居住地だ。学園長が彼女のために作り上げた灰色の世界だった。彼女の自室と寸分違わぬように作られたそれはしかしほとんどが石によって作られている。ベッドだけは周りに囲いが作られており、そのままを維持している。目をつぶって囲いの中のベッドに入れば、ベッドを石化せずに済む。初めのうちは何度か起きた直後にベッドを石化してしまったが、その度に学園長は新しいものを与えた。最近では慣れてしまったのかそのようなミスを起こすことはなかった。窓枠からは紛い物の空が見える。外の世界と同じく、太陽が昇り、月や星々は輝くけれども、一面グレーの世界ではその美しさも半減してしまっていた。
「小エビちゃん」
人形のように椅子に座っている監督生にフロイドは声をかけた。首がぎぎぎ、と回って彼を見つめる。瞳の緋色が、それだけが意志を持ったようにきらりと光った。
「眼帯作ってみたの。イシダイせんせーが試してみたいって」
数回瞬きをした後、ありがとうございます、と彼女は答えた。零れる笑顔もどこか痛々しい。フロイドは胸がきゅっとなるのを感じながら、クルーウェルを呼んだ。彼には魔眼が当然発動してしまうので監督生は背を向けたままだ。
「仔犬、久しぶりだな」
「・・・お久しぶりです・・・」
「元気がないな。・・・まあ、当然だな。こんな場所にいれば誰でも気が滅入る」
背後から近づいた彼は監督生の頭をわしわしと撫でた。
「せっ、せんせ・・・!触ったら・・・」
「慌てるな。触ることにはなんの問題もない。魔眼は視界を頼りにしているようだからな。大人しく撫でられていろ」
監督生はそれきり無言になった。クルーウェルは気の済むまで彼女を撫でた後、眼帯をつけてやる。フロイドのユニーク魔法の分析から始まり、素材の選定、組み込むための術式などをクルーウェルは他の教師の助力を得ながら昼夜取り組んできた。NRCの教師たちは皆非常に優秀だ。多量の魔力や知識を持ち合わせているひと握りの中で、それを教育に全振りした魔法使いが彼らである。彼らはまた学者としてもとても有名で、論文を上げれば学会からの視線を一身に集めることの出来る存在だ。その中の1人であるクルーウェルは錬金術が専門ではあるが、他の科目に関しても常人よりは遥かに優れた成績を残すことが出来ている。本来であれば眼帯制作においては魔法工学の知識が必須であるためそのプロに任せるべきであったが、生憎魔法工学は大学以上のレベルに属する科目であった。つまりこの学園にはプロがいない。しかしクルーウェルはこの問題にあたり協力な助っ人を用意していた。
そう、実はこの場に来たのは2人だけではない。正しくは『2人と1台』である。ふよふよと宙に浮いたタブレットからは気だるげな低音が流れてくる。
『クルーウェル氏、サイズ感は問題なさそうでござるか?』
「仔犬、過度な締め付け感はないか」
監督生は頷いた。クルーウェルはタブレットに向かって問題ない、と話しかける。
「まさかホタルイカ先輩を引っ張り出すとは思わなかったわ〜〜意外」
フロイドは驚きをもってタブレットを眺めた。
そう、クルーウェルは助っ人としてイグニハイド寮のトップであるイデア・シュラウドを召喚することに成功した。彼が求めに応じたのは、報酬が魅力的であったこと、また魔法工学により眼帯を作るという計画に多少なりとも興味を持ったからである。魔法工学は必ずしも金属製の強靭なボディを伴うとは限らない。その範囲は多岐に渡り、あらゆる場面で人々の生活に馴染んでいるものである。イデアは持てる知識を大いに活用し、魔眼を相殺する眼帯をクルーウェルと共同で制作した。
眼帯は滑らかな黒革で作られており、特殊な素材なのか、装着する者のサイズに合わせて伸び縮みするという利便性がある。普段着けることを考慮してどんな服装にも合わせられるシンプルなデザインが採用された。
『拙者としては!?もっとThe・眼帯というのを作りたかったのでござるが・・・』
「却下だ。コスプレとは訳が違う」
「」
そんなやり取りをしていても、お互いの視線(片やタブレットだが)は監督生から離れない。この眼帯が果たして効くのかどうか。眼帯を付けた彼女はゆっくりと目を開いた。
「・・・目を、開けました」
「よし、仔犬、これを持ってみろ」
背後から渡されたのは木製のスプーンだった。それを手に持った監督生はじっ、と視線を注ぐ。久しぶりに色のある物だった。木の触感がなぜか懐かしい。
「「「・・・・・・」」」
スプーンは色を変えない。この眼帯には超級の魔法でも閉じ込めることの出来る魔石を薄型にして組み込んである。フロイドの魔法を術式化したものを入れて、魔力による干渉を受けることで魔法が作動する仕組みになっていた。マイクロチップを一緒に入れることで、魔石の負荷状況などを参照することができるのだ。
「・・・成功か?」
クルーウェルが低く呟いた。この時もスプーンの色は温もりのあるライトブラウンのままだ。すると突然、タブレットからイデアの切迫した声が流れ込んできた。
『待って。魔石の負荷レベルがどんどん上がってる。30%・・・50%・・・65%・・・まずいな、このままだと限界値を突破しちゃう』
「対策は?」
『一時的に魔石に圧をかけて術式を強化することが考えられるけど、このレベルの上がり具合だと逆効果』
クルーウェルは舌打ちをかました。頑強な素材を取り揃えたというのに数十秒も経たないうちにこれである。初めから上手くいくとか考えていなかったが、先行きはあまりにも怪しい。
『・・・だめだ、もう100%になる。せめて限界を突破した時、眼帯がどうなるかを見ておきたい』
無言でフロイドとクルーウェルは頷いた。
「仔犬、眼帯が取れても目の前にはフロイド・リーチしかいない。目を開けても閉じても構わん。焦ることだけはするな」
監督生は微かに震える声で分かりました、と答えた。