Evil love 世界でも指折りの高級ホテル、グランドホテルホドモエ。各地のセレブから絶大な信頼を得ている五つ星ホテルだ。そのホテルのホールを丸々貸し切り、盛大なパーティーが開かれていた。
会場に華やかな音色を添えているのはワールドツアーを終えたばかりの人気ジャズグループ。招かれた客人らは誰もが、指や胸元に眩いばかりの宝石を身に纏っている。大物政治家、作家、女優、スポーツ選手、CEOなど、おそらく一度は見聞きしたことがあるような著名な人々が当たり前のように顔を突き合わせている。だが、更に驚くべきは、彼らはたったひとりの男の誕生日を祝うためだけにここにいるということだ。
数多のスターの中にいても彼の存在は一際目立っていた。軽く挨拶を、と彼が現れると拍手が起こり、人々は彼の輝きに魅入ってしまう。スターも彼の前では“星屑”のひとつに過ぎない。
「お誕生日おめでとうございます、ギルバート様。」
まさに絶世の美女を体現したような女性が、赤いチークを柔らかに緩ませながら彼に向けて祝いの言葉を向ける。谷間を露わにし、玉のような白い肌を大胆に見せびらかしているが、彼女が持つ、元来の高貴さによるものなのか、下品さは少しも感じさせない。身体のラインが強調された黒のマーメイドドレスが恐ろしいほどに美しい。普通の男ならば卒倒してしまうような色気だろう。
しかし、そんな彼女に腕を組まれても、彼は顔色一つ変えず、汗すら一滴もかいていないような、余裕に満ちた笑みを浮かべる。
「これは驚いた。」
「え?」
「あなたがあまりにお美しいものですから、女神様が私に囁いてくださったのかと思いましてね。」
組まれた腕をそっと退けて、直ぐ様、彼女の手の甲に口づけをした。蝶が舞うような一連の美しい所作に、周囲の人々も息を呑み、彼の眼差しに釘付けになった。彼女のような高嶺の花ですら、気高さを失い、野に咲くありきたりな草花に成り下がってしまう。
ギルバートという男には、男女関係なく魅了してしまう魔性の輝きがあった。その艶やかさは彼が持つ、金と権力によってより一層強く、引き立てられる。彼の香りに引き寄せられてしまったものに逃げる術など無く、彼に跪き、擦り寄ることしか出来なくなる。誕生日パーティーなど建前に過ぎず、彼らは皆、ギルバートに気に入られようと必死だった。
特段珍しいことでも無く、彼にとっては美女も高価なプレゼントも見飽きた光景だ。
彼に媚びを売る者はいても、逆らう者はいなかった。例え、どんな権力者であろうとも最後に勝つのは決まって彼だったからだ。
誰もが自分の美しさに見惚れ、恐れ慄く。やっとあの方の背が見えたようで、彼は玉座に腰を下ろしている心地でいた。
(…彼女が現れるまではな。)
パフォーマー達がパーティーを盛り上げるために歌やダンス、曲芸を次々に壇上で披露する。会場は拍手と歓声に包まれる。
だがギルバートは全体が見渡せる一等の席に座り、頬杖をつきながらつまらなそうに宙を見ていた。彼の心の渇きはありきたりな芸では鎮められそうにない。
「ツェペシュ。」
彼がその名を呼ぶと、暗闇の中から即座に男性が姿を見せた。ギルバートの傍に立ち、恭しく頭を垂れている。彼らは長い付き合いだ。主が言わんとしていることも察しがついている。そしてギルバートもまたツェペシュが纏っている苦い空気を感じ取っていた。
「申し訳御座いません。…アンヌ様の件ですがやはり……。」
「ふっ…おまえに“やはり”と言わせるとは、さすがアンヌさんだな。」
皮肉っぽくギルバートが言うと、ツェペシュは自身の失言に気が付いたのか、もう一度頭を下げた。
ギルバートからの命令を確実にこなす、有能な彼でも彼女絡みのことになるとかなりの苦戦を強いられているらしい。確かにアンヌはお淑やかそうに見えて、実は頑固でじゃじゃ馬のようなところがあり、一筋縄ではいかない。弱気になってしまうのも無理はなかった。
「無理強いはするなとのお申し付けでしたので。」
「ああ。それでいい。」
「…代わりと言ってはなんですが、アンヌ様からお手紙を賜って参りました。」
「手紙?」
ツェペシュが差し出してきたのは、彼女に送ったはずの誕生日パーティーの招待状と、その封筒の中に同封されていた見覚えのない一通の便箋。丁寧に三つ折りにされたそれを開くと、お手本のような美しい字が並んでいた。
“ギルバートさんへ
お誕生日のお祝いを申し上げます。
とても喜ばしいことなのですけれど、パーティーへの参加は辞退させて頂きます。
だって私はあなたの[親愛なる妻]ではありませんもの。
それでは、良い一日を。
アンヌ・シャルロワ”
あまりに強気な彼女の態度にギルバートは、クッ、と喉の奥で堪えるような笑い声を漏らした。短文の中に込められた、シンプルで正直な彼女の言葉は痛快だった。ブラックシティの金融王などと呼ばれ、イッシュの経済界を統べている男の誘いを断る女がこれまでにいただろうか。しかも彼が招待状に込めた“愛の囁き”すら、一蹴して。
未だ社会の構造を知らない、若さと無知故の無鉄砲さなのか。けれど自身に媚び付いてくる人々の態度に慣れてしまった彼にはかえってそれが新鮮で、益々彼女を愛おしく、尊い存在に感じた。
恋する乙女には名も権力も、眼中にない他の男からの口説き文句も効果がないようだ。
「本当に手厳しいひとだな、アンヌさんは。」
「芯がお強く、高潔なお嬢様でいらっしゃる。」
「ああ、全くだ。」
ーーそうでなくては面白くない。
彼がそう考えられるのは、彼女を手にすることが出来るという絶対的な力と自信があるからだ。彼女が抵抗すればするほど、ギルバートの征服欲は刺激され、欲望は更に燃え上がる。勝ち目のない相手に必死に抗おうとする彼女の様はいじらしく、憎らしくも愛らしい。
ギルバートは席を立った。ツェペシュに目配せをする。主の視線に彼は静かに一礼した。
「車は裏口に待機させております。後のことは私にお任せを。」
「ご苦労。」
ギルバートが次に取る行動もツェペシュにはお見通しだった。
パーティーの主役が途中で抜け出すなど、常識では考えられないことだ。だが、彼にとっては今自分が思い浮かんだことを迷わず実行することこそが常識なのだ。時は金なり。時間は有限だ。ならば自分の為に使うのは至極当然のことだった。既に飼い慣らされた犬共の遊び相手を悠長にしている暇はない。
裏口に停めてあった黒塗りの車に乗り込むと程なくして、窓の外が白く染まった。無数の白い粒がキラキラと舞い落ちる。雪に彩られていくホドモエシティの街並みを見つめながら、ギルバートは企むような含みのある笑みを浮かべた。
(アンヌさん、あんたは俺のものにしてみせる。ーー必ず、な。)
今頃、彼女もあのマリンブルーの美しい瞳でこの銀世界を見つめているのだろうか。直にその瞳に映るのがこのギルバートだけになるのだと思うと、彼は高ぶる気持ちを抑えられなかった。
驚く彼女の隙を突いて、熱く抱き寄せて。そしてそのまま、奪い去ってしまおうか。白い世界の向こう側にある彼女とふたりきりの理想郷には、甘美な景色が広がっているに違いない。
吹き付ける雪は強さを増して、益々この世界を白く染めていく。彼の黒い思惑も、激しい熱情も、なにもかも、全てを覆い隠して。
さて、今宵の彼女はどんな面白い反応を見せてくれるのだろうか。
〈完〉