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1180年、角弓の節────
「……もうそんな季節になるのか」
不意に鼻に届いた甘い香りに、ジェラルトは足を止める。大修道院にある木々に紛れている小さなオレンジ色の花をたくさんつけるそれを見つけると、最愛の人を嫌でも思い出してしまう。この香りに満たされる頃、彼女はいなくなってしまったが─────
「ジェラルト…? 何をしているんだ?」
背後から名を呼ばれ、振り返るまでもなく誰だかわかる。自分の最愛の人───妻であるシトリーが、自身の命と引き換えに産んだ息子であるベレトだった。彼女の命日が、ベレトの誕生日である。しかしジェラルトは、それを息子であるベレトには教えていない。それはそうだろう、ベレトには出生の事をこの二十年間隠してきたのだから。
ガルグ=マク大修道院のセイロス騎士団の団長として華々しい活躍をしていた頃、幼い子供だったシトリーと出会った。幼い頃から病弱な彼女は、大修道院の外へ出たことが無かった。だから暇さえあれば彼女の元へ赴き、たくさんの話をした。それを数年も続けていけば少女は女性へと変貌を遂げていた。
それに気づいたのは、シトリーから告白をされるまでだったが────
「……おう、ベレトか。なんだ、授業終わりか」
「ああ」
「お前ももう教師が板についてきたな。人生何が起こるかわからねぇな」
今年でベレトは二十一歳になる。しかし彼には、本当の歳を教えていない。しかし何の因果か、赤子のベレトを連れて大修道院を抜け出して来たのにまたこうして戻って来てしまった。命の恩人である大司教のレアは、シトリーが無事に子供を出産できる確率は低いと言った。そしてそれは、現実になってしまった。
『命を賭して、シトリーはこの赤子を産みました。彼女は立派な母です』
今も忘れられない、レアからの言葉。生まれたばかりのベレトは、赤子だとは思えないくらいに、無だった。泣きも笑いもしない。極めつけは心臓の鼓動を感じられないことだった。命の恩人に対する信頼は疑いに代わり、最愛の人の形見と共に大修道院から逃げた。セイロス騎士団が追ってくると思っていたがそれもなく、あっという間に赤子は大人になった。しかし幸せという日常は音も無く崩れ落ちる。
目の前にいるベレトは教本を抱えながら、なんだか疲れた様な顔をしている。傭兵として人とは関わりのない生き方をしていたのに、今は教師として貴族の子供相手に教鞭を執っているのだ。疲れていない方が可笑しいだろう。そして息子を見ていると、本当に自分に似なくて良かったと苦笑してしまう。
母親譲りの柔らかい髪は、暗緑色で瞳の色もそっくり受け継いでいる。忘れ形見とはまさにこの事を言うなと思えるほど、ベレトはジェラルトに似ずにシトリー譲りの綺麗な顔をしていた。男なのにやけに顔が綺麗な為か、幼い頃から男女問わずに色欲の目を向けられていたのだ。そういう輩は全て排除してきたが。
「…この花、いい香りだ」
「ああ、金木犀だな」
「初めて見る」
親子の会話としては口数が少ないがいつもの事だ。ベレトは目の前の木から香る匂いに目を細めている。それを見つめて、また亡き妻が重なる。生前、シトリーもこの金木犀の花が咲く度にこうやって香りを楽しみ、笑っていた。彼女もベレトと同様に感情の起伏が薄かったが、好きな花を見つめるときの視線は違かったものだ。懐かしい───そう思っている時だった。
「先生! ここにいたか」
「ディミトリ? どうかしたか?」
ベレトを呼ぶ声に振り向くとロイヤルブルーの外套を揺らす金糸に目を瞬かせる。本当に王子様はこんなにかっこいいやつなのかとジェラルトが苦笑したくなる人物は、ベレトが受け持つ学級の級長だった。ディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッド───フォドラは北のファーガス神聖王国の王子である。
かつての自分の故郷とはいえ、もう何百年も前の話だがと記憶をかき消すと、ベレトは「じゃあ、また」と言って去って行った。どうやら急ぎの呼び出しでもあるみたいだ。ベレトがいなくなり、ディミトリと二人っきりになってしまったが彼はその場から動こうとしない。仕方がないからジェラルトが立ち去ろうとした時だった。
「ジェラルト殿も、花が好きなのですか?」
唐突にディミトリに声を掛けられ、思わず驚く。しかし目の前の王太子殿下は特に顔色をうかがうとかそういう様子ではなく、気になったから聞いたという感じだ。ジェラルトは彼に「そうだな」と前置きをする。
「俺より死んだ妻がな」
「…それは、失礼しました」
「良いんだよ。もう二十年以上も前の話だ」
王族という割には、この王子はどこかそれとは違う。自分が偉い立場の人間なのにそれを主張せずただ民衆の為に生きているような人間だ。これは将来苦労するなとジェラルトは思うと、ディミトリは金木犀の木を見つめながら「この花は、金木犀ですか?」と問い掛けるのに彼は頷いた。
「この花が咲く頃になると、どうしても彼奴を思い出しちまうんだよ」
「…そうなのですね」
「この香りを、生まれたばかりのベレトにもって言っていたからな」
「え………?」
つい、余計な事を話してしまった。ディミトリの言葉に、ジェラルトはしまったと思うが時既に遅し。ベレトには生まれた日が女神と同じ日だと嘘をついていたのだ。だから今節───角弓の節ではないのだ。
「先生は…、本当は今節が誕生日なのですか?」
「………それはお前には言えねぇよ。人は誰しも、墓場まで持っていかなきゃならねぇ秘密があるんだからな」
真っ直ぐに此方を見つめる空色の瞳に逃げる様にそう言えば、賢い息子の教え子はそれ以上は踏み込んで来ない。大修道院に来てしまったが運の月とはまさにこの事だろう。時期にベレトにもばれてしまうかもしれない。らしくもなく溜め息をつくと、まだ背後にはディミトリがいた。未だに此方を射抜く様な視線に、ジェラルトは「(まさかな…)」と心がざわめき立つのを見ぬふりをする。
「ジェラルト殿。先程の話は聞かなかった事にしておきます」
「そうしてくれると助かるね」
どこまでも肝の据わった物言いをする王子に、年甲斐もなく口が荒れそうになる。平常心と念仏のように唱えながら金糸の王子を見やると、彼は口元に笑みを携えていた。ベレトの個人的な話が聞けたから嬉しいのだろうか?───そう思いながらも、この級長は先程のやり取り同様、ベレトをやけに気に入ってる風だった。
「そういや、ベレトはどうだ? 初めて会った時から無表情でおっかなかっただろう?」
「え…、そうですね。確かに、先生は表情がわかりにくいですから」
好奇心が頭を擡げる。何の気無しに目の前の級長に問い掛けてみれば、彼は驚きながらも様々な事を教えてくれた。最近は笑顔を見せてくれるようになったとか、実は大食いなのには驚いた、剣術だけではなく他の武器も使いこなせるし、最近は信仰や理学も取得していてとにかくすごいのだとべた褒めである。自分の息子の事ながらこんなに褒めてくれるとは思わなかったが、それを雄弁に語る彼の眼差しにもまた遠い日の記憶が重なる。
「そうか。なんとかなってるならまぁ安心だな」
「ジェラルト殿は、最近は騎士団でお忙しいと伺っております。来節の鷲獅子戦にも参加出来無いのだとか…」
「まぁな。折角のグロンダーズでの模擬戦だから見ておきたかったんだがな。やたら仕事を押し付けられるからたまったもんじゃねぇ」
おっと、今のも秘密な───そうディミトリに言い聞かせれば彼は苦笑しながらも頷いた。そしてそろそろ戻らないといけない刻限になっているのではないかと漸く気づく。金糸の王子を見ると確かに自分が若かった頃の国王の面影がいくつか見えるかもしれないと気づく。
「まぁ、ベレトが無茶してたら教えてくれ。彼奴も顔色変えねぇで仕事してるからな」
「…承知しました。私からも、よく見ておきます」
「頼もしいねぇ」
亡き妻も身体が弱い癖に、顔には出さないから外に連れ出して熱を出すなんてしょっちゅうだった────懐かしい思い出に口元に笑みが溢れてしまう。目の前の王子は「良ければ私とも手合わせをお願いします」と言って去って行った。
自分とは違い、きらきらと輝いて見えるも彼には血の匂いも感じる。先程の「人には秘密がある」と言っておきながら、彼もそうなのだろう。しかし芯の通った人間なのは間違いがない。あれが未来の王と聞くと、彼は優し過ぎるなとジェラルトは苦笑した。
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