『東のおだやかな一日』「ファウスト、見ろ」
久々の穏やかな時間、誰もいない談話室でソファに座り、本を読でいた僕に突然声がかかる。ドアを開け放って足音高く近づいてくる人物はそちらを見なくても分かる。聞き慣れた自信満々の力強い声。明日の授業までは特に用事がなかったはずだ。その予想を裏付けるように、後ろからバタバタと駆けてくる人物が「シノ!」と呼んだ。
急に騒がしくなった空気に、小さく溜息を吐きながら諦めたように本を閉じた。ここで相手にしなければ後々が面倒になる。
「マッツァー・スディーパス」
僕の目の前で立ち止まったシノは、説明も何もないまま、よどみなく呪文を唱えた。言い終わると同時に光が集まり、そこには黒くツヤのある毛並みの小さめの猫が現れた。光の入り方によって青みがかって見えるその毛はシノの髪色と同じだ。瞳は燃えるような強い赤。どうだとでも言うかのように、すましてこちらを見上げている。
すぐに追いついてきたヒースクリフは慌てたように謝罪する。
「すみません。ファウスト先生!あの、これは……」
「いいよ。事情はなんとなくわかった」
申し訳なさそうなヒースに微笑むと、シノに手を伸ばす。頭の真ん中を撫で、あごの下をくすぐる。気持ち良さそうに瞳を閉じる姿は猫そのもので、とてもかわいい。
猫になるのは、先日の西との合同授業で変身魔法の練習をした際の課題だった。耳やしっぽを生やす程度はすぐに出来るようになったが、物理的に全身の質量の変わるような変身はかなり難しかったのだ。おおかた、シノが、できるようになったから「今すぐ見せにいく」とでも言ってここまで来たのだろう。それにしても……。
「シノ。上手くなっているじゃないか」
撫でられた猫はゴロゴロと喉を鳴らしながら満足そうにしている。
「あの、ファウスト先生。俺も……」
「なんだ? ヒース。君も練習の成果を見せてくれるのか?」
「は、はい! 先生が良ければ見てほしくて」
「ふふ。構わないよ」
「ありがとうございます!」
そう言って微笑めば安心したように笑みが返ってきた。
「では……。レプセヴァイヴルプ・スノス」
小さく深呼吸して静かに唱えられた呪文。シノと同じように光に包まれた後、長めの金色の毛が綺麗な蒼い瞳の猫が現れる。控えめに、少し不安そうな目で僕を見上げるとにゃあと小さく鳴いた。
「うん。ヒース。君も前回より上手くなったよ。発動にかかる時間も短い。しっかりと練習したようだね」
そう言いながら、頭とあごを優しく撫でた。ゆらゆらと揺れるしっぽが喜びを表しているようだった。いつもの事ではあるが、シノも主君が褒められてうれしいのか、誇らしそうだ。猫になっても「そうだろう。ヒースはすごい。努力家だからな」という声が聞こえてくるようで、思わず笑ってしまった。
それぞれ毛の堅さも違う二人が何も言わないのを良いことに、抱き上げてソファまで移動させると、好きになで回した。もちろん、猫とはいつも接しているから、気持ちいいところを重点的に撫でてやった。やはりかわいい生き物に触れているだけで癒やされるものだ。心なしか頬も緩んでいたかもしれないが、見られていないことが救いだ。
「あ、先生。よかった。まだ居たな」
そこへタイミングよくネロがやってくる。手にはカップケーキが数個乗った皿を持っていた。本日のおやつのようだ。今日は授業もないのに集合してしまったなとどうでも良いことを考えてまたおかしくなった。
「さっきここで本読んでるの見かけたから、カップケーキ持って来たんだけど……」
ソファへ座ろうとしたのだろう、回り込んでやっと姿の見えた猫達を見て一瞬目を瞬かせると、事情を察したように笑った。
「はは。機嫌良さそうだと思ったら、子供達のお陰か」
多めに持ってきていて良かったと言いながら、持っていた皿をテーブルに置き、いつの間にかファウスト膝の上にいた二人の頭を軽く撫でた。
皿の上のカップケーキは綺麗にデコレーションされており、猫、羊、ムウムウ、星、箒、シナモンまである。相変わらずネロのセンスはかわいい。子供達のためだとは言っているが、本人もかわいいものが好きでなければここまでは作れないだろう。言わないけれど。
そんな事を考えている間に、隣に座ったネロはシノとヒースに声をかける。
「にして、上手くなったな二人とも。前回は人型が残ってたからな。短時間でたいしたもんだよ」
その言葉にシノはもっと褒めろと身体を伸ばし、ヒースは少し気恥ずかしそうにしっぽを揺らしながら下を向く。それを眺めるネロの目は優しい。そう言えば先日賢者に頼まれて猫に変身していたのを思い出した。猫が好きな賢者は思いきり可愛がっていたのだった。それを思うと、ふとイタズラ心が湧いてくる。
「君は、見せてあげないのかい?」
からかうように言えば、ネロは目に見えて焦りだす。
「いや、俺はいいよ。前にやったろ」
「でも彼らは見てない」
「いや、ほら、カップケーキも冷めちまうし……」
どうすれば切り抜けられるかと彷徨う視線は、こちらと全く合わない。助けを求めるように子供達にも声をかけている。
「ほら、二人も、早く戻って食えって……!」
「ふふ。もちろん食べるけれど、変身魔法にさほど時間はかからないだろう?それに、ほら」
猫になった二人はネロの手に甘噛みしたり、すり寄ったり、引っ張ったりと言葉はないがまるでねだるように見上げてくる。流され易い上に、日頃から若い魔法使いのお願い事に弱い彼に勝ち目はなかった。しばらく無言で耐えていたが、深々と溜息を吐くと観念したのか、渋々と了承を示した。
「あ-、もう。わかったわかった。でも、すぐ戻るからな」
そう言うと小さく呪文を唱えて猫の姿へと変わっていく。
髪色と同じ短めの灰青色の毛を持つ猫だ。スラッとしてしなやかだが、他の二人よりも二回りほど大きい成猫である。
これで満足かとでも言うようにそっぽを向いて、ナァと短く鳴いたネロに、子供達は嬉しそうに身を寄せた。満更でもなさそうだ。満足だと、ネロのあごの下を撫でると、それに合わせて揺れるしっぽに笑みが深くなる。
結局、撫でるのが楽しくなり、気持ち良さそうにする姿に癒やされ、満足するまで存分に三人をなで回した結果、カップケーキは少し冷めてしまった。
ネロには少し文句を言われたが、久々に穏やかに過ごせた時間にたまには談話室で過ごすのも悪くないと、そう思えたのだった。
終