紅い唇『噛みたい』
と、思ったのは、生まれて初めてだった。
すぐに『駄目だ』と打ち消した、傷つけてしまうから。
一番傷つけたくない人を、傷つけたくなくて。
それなのに件の感情はいつまで経っても消えなくて、寧ろ募る一方で、このままではいつか本当に──と、怖くなって。
「どうしたんですか⁉︎」
と、相手に聞かれるまで、気付かなかった。
自分が泣いていることにも、それほどまでにその願望が、自分の中に深く根付いてしまっている、こと、にも。
嗚咽の中で上手く話せていた自信は全くない。
それでも相手は──恋人は、何度も頷きながら、一度も目を逸らすことなく、俺の辿々しく拙い、言の葉を、ひとつ残らず拾って、くれた。
「ねぇ、先輩」
恋人の声はどこまでも優しくて、ますます涙が溢れた。
「先輩は、本当に、僕のことが好きですねぇ」
面映そうに、それでいて嬉しそうに、笑った口元の犬歯が、俺の喉元に、刺さった。
「僕もね、噛みたくなる──好きで、好き過ぎて、欲しくて、全部、自分のものにしたくて」
痛みは、無い。
あるのは、優越感。
「だからね、それは、悪いことじゃ無い──いいよ、どこでも、噛んで」
開け広げられた身体。
俺が迷わず歯を、立てた、のは──
「……ストレート過ぎて、逆に意外かも」
と、恋人に言わしめた、場所だった。