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    xxx_depend

    @xxx_depend

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    xxx_depend

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    2016年のカニバ合同誌に寄稿した作品です。
    自分の性癖を詰めているので需要は低いだろうなと思いつつ…これが俺の好きなやつ!というものになったので、お気に入りです。どちらも死なないハッピー光忠吸血鬼?人外?ものです。グロ苦手な人は避けてくださいませ。
    組織からのミッションをこなす燭へしの話。雰囲気で読んでください…!
    エロありR18です。

    肉慾と愛情     一

     深夜2時の路地裏は暗い静寂に包まれる。
     壊れかけた廃ビルが連なる狭い隙間道を、生温かい風と長谷部の乾いた革靴のソール音が通り抜けた。
     身を潜めて軽やかに走るのは存外心地が好い。酷くカビ臭い湿度に少々顔をしかめ、紫煙をゆるりと吐くと長谷部は気だるげに月を眺めた。
     今夜はだいぶ明るい。最高の夜まであと少しだ。

    「…っと、そろそろ良い時間か」
     腕時計を確認してみる。
     丁度その時、満月を背負った影が長谷部の手元と文字盤を暗く覆った。
    「やぁ長谷部君。お待たせしたね」
    「遅い、此の儘だと置いていく所だったぞ」
     長谷部は薄く微笑んで、黒い男を見上げてみるなどする。
     満月を背負った彼は満足げに、うっそりと目を細めた。
    「僕を置いてお勤めに行かないでよね」
    「冗談はよせ、お前ならいざ知らず」
     腰のポケットからハンカチーフを流れる様に優雅に取り出して、口元をゆるりと拭う男。真っ赤な布は怪しい影に照らされてゆるりと光り、その質感はベルベットの様だ。
    「……ふ、お前の悪い癖だな。早く拭え。……俺が目立って仕方ない」
    「ああ……、シャツの襟まで染まってしまったよ」
    「三つ揃えなんか着るのが悪いんだ、もっと動きやすい服装をすれば善い。見た目に拘るのは構わないが結局汚れるんだ」
    「そんなこと言って。君、実は羨ましいんだろう」
     男は長谷部の肩程もある塀の上からふわりと降り立つと、此方へと手を差し出した。
    「目立つのなんて好きじゃない」
    「そっちじゃあ無くて。解ってるよ、ふふ。」
     場所は遠い西の国の果て。祖国を捨て去り、こんなにも遠くで、二人は刹那的で危うい日々を過ごしていた。衝動と感情も全てが思う儘に。
     財も地位も望まない二人だからこそ可能な仕事を、誰にも縛られること無く華麗に片付けてゆく。
     長谷部達を縛るものなぞ、この世に何一つ無いと言っても過言ではなかった。


         二

     ひと月前から宿にしている部屋は、元は没落貴族が手放した屋敷だったらしい。夜中に帰るから迎えは結構と伝えてはあるが、軋む重厚な扉の音に長谷部は少しばかりひるんでから、光忠の耳元で「まったく、お前が派手に汚す所為で帰り道も選ばなきゃ成らなかった」と低く非難の声色を滲ませた。
     折角の見事な月夜に、こうも暗くて狭い裏道を散歩する羽目に成るなんて。
    「どうしたって我慢出来ないんだよ、君みたく上品な身のこなしは向いてないって事さ」
    「お前の戦い方はくどい、性格と一緒だな」
     長谷部は眉を寄せながら、借りている部屋の鍵を取り出して入ると、すかさず光忠の背を浴室へと押し込んだ。
    「長谷部くん、一緒に入っちゃう?」
    「要らん、早く入ってくれ。其の儘シャツも洗えよ」
     暫くすると部屋の遠くから水音が聞こえてくる。
     長谷部は適当に買い置いているパンに適当な野菜を挟むと、二人分の珈琲を淹れてやった。
    「あ、食べてたんだ」
     タオルで髪を拭きながら、光忠が部屋へと入ってきた。年代物のテーブルに着く長谷部の背後から肩を抱いて、上から顔を覗き込んでくる。
     しっとりと濡れた髪は光忠の丹精な輪郭を額縁の様に際立たせていて、その首に張り付いた奔放な毛先からは匂い立つ様な色香を漂わせていた。
    「少し待っていてくれたら僕が作ったのに」と光忠が長谷部の耳元でそっと囁いてくる。
    「……お前も食べるか?」
    「……、いや。お腹いっぱいだからね」
     毎度の遣り取りにふ、と息をついて長谷部は笑う。後ろから伸ばされた男の右手は、首筋を崇拝する様に撫で上げると長谷部の頬へと恭しく置かれる。
    「きみの咀嚼する姿が好き……」
     熱い風が耳下に掛かるのも厭わずにパンの欠片を口へと放った。湿った指先が長谷部の唇に触れて、その動きを確かめる様に滑ってゆく。左からも伸ばされた手は、うなじの骨を確かめるように動いてから頭を抱きかかえた。
    「きみの、薄い唇が開いた隙に赤い舌が見えて、滑らかな美しい歯列で砕かれたものが、上品に咀嚼されて……顎骨が上下する、その一連の様が……凄くそそられる……」
     耳に口接け言葉を吹き込んでくる、そんな悦に入った声を聴きながら熱い珈琲と共に嚥下して、悪戯に男の指を噛んでやった。歯を立て、ぺろりと舌で舐めてやると、ゆっくりと光忠の長い指が長谷部の咥内へと挿入る。
    「はせべくん……」
     肩を抱いていた腕に力が込められる。
     やがて耳元の唇が名を呼び、柔らかな耳殻を吸う頃には、長谷部も振り返ってキスを求めていた。
     長いキスの後、互いにゆっくりと唇を離す。至近距離で光忠は思い出した様に「……珈琲の味がする」と唇の端を舐めた。
    「お前に淹れた分、もう冷めたんじゃあないか?」
    「後で淹れ治せば良いよ、きみの舌は熱いし…」
     甘い雰囲気を誤魔化そうと長谷部が何でも無い様な声を出すのを知ってか知らずか、光忠は寝台の上でもひたすらに長谷部の舌を求めた。


         三

     今宵も颯爽と仕事をこなす。塀を越え、植木で隠れた窓から割り入ると、目当ての引き出しまでは質の良い絨毯の毛足の長さが足音を吸い込んでくれる。長谷部が白い手で書物を盗ると同時に、遠くから段々と近付いて来ていた喧騒が止む。こうなると、アイツが俺と合流する迄はもう少し時間が掛かりそうだ。
     長谷部は窓枠に腰を掛けて葉巻に火を点けた。マッチの乾いた摩擦音は耳に好い。上質な絨毯に少し躊躇して、どうせ汚されるのだから一緒だと落とした火種を踵で踏み消す。豪奢な赤と金の刺繍が焦げて点々と無残に虫食い穴みたいだった。
     指で軽く挟んだ葉巻の先の、その灰になった白を落とす為に手首を下へ捻り、親指に持ち替えて人差し指で軽く叩く動作の一連の流れに、長谷部は云い様の無い完成された喜びを感じた。
     月だけが俺達を見ている、捕まえられるのはきっと月明かりだけだ、などと頭をよぎった詩的な考えに空笑いしてしまうのも仕方無い。こうも順調に成功し続けていたら、誰だって愉快になるものだ。
     暫く長谷部が夜空を眺めながら優越感に近い気分に浸っていると、少しの間を空けてガチャリ、と部屋の扉が開く。
    「長谷部君、少し待っていて貰って良い?」
    「随分静かに成ったな、全員寝てしまったのか」
    「やり過ぎって怒ってくれるのかな、ふふ。君には悪いんだけれど、実はあと幾分か時間が欲しいんだ」
    「仕方無いな、お前はどうせ空腹じゃあ帰れないって言うんだろう? 構わないが、俺に見えない所でやってくれよ」
     光忠を待つ間も、長谷部は愉快な気持ちの儘でいた。ゆっくりと葉巻を吸い、その度にチカチカと強く赤さを増す火を眺めていた。灯りを見詰めていると、長谷部は遠い記憶の片隅に残る、幼い頃の暖炉と暖かな幸福のオレンジ色が思い出される様な気に成った。
     勿論、其れは只の願望が魅せた想像であるのだけれど、穏やかな気持ちに成れるのならば、長谷部にとっては何であっても全く構わないのである。

     軽く左脇に抱えられて、夜風に乗る帰り道は月が少しだけ大きく見える。しかし、それは長谷部の気の所為かもしれなかった。上手く行き過ぎた毎日が魅せる錯覚かもしれない。
     眼下に遠ざかっていく街並みの小さな光は星の様だ。
     そして、下半身かゾクリと心もとなく感じるのは、宙ぶらりんな脚が空気に抵抗するからなのか、若しくは恍惚感に酔ったからなのか。ただひたすらに長く感じる暗闇の帰路の間考えていても、長谷部には解らなかった。



         四

    「今夜はスムーズだったね、最近上手く行き過ぎて怖いくらいだ。次のミッションが終わったら旅行でも行こうか」
     上機嫌な光忠は髪を濡らした儘、寝台に寝そべる長谷部に覆いかぶさってくる。漂うフランス製のソープの甘い匂いが彼の温度と広がるから、長谷部は名案だなと微笑んでやる。
    「調子に乗って尻尾を出さない様に気を付けるんだな」
    「ふふ、長谷部君が僕の尻尾を隠してくれるだろ」
     月明かりでも明るい夜だからと、寝室の光は控えめなオイルランプだけなのに、金色の瞳が至近距離で眩しくて、長谷部は眉根を寄せながら両瞼を強く閉じた。
    「…なに、長谷部君はキスをご所望かい?」
     笑いを含ませながら光忠に柔らかく下唇を吸われた。長谷部が咄嗟に目を見開くと、とろけて落ちそうな満月が溢れてくる。まるで熱して溶かした黄金は、液体となって長谷部の眼球を焼き付けたのだろうか。火傷した頭では心臓が早鐘を打つ回数しか数えられなくなってしまう。
     ぼやけた思考の中、両手で覆った目と頬は酷く熱かった。
    「……ッ、お前の目が眩しいから瞼をつむっただけだ。勘違いするな。よほど機嫌が良いんだな、灯りに反射して酷く眩しいからだ。今こっちを見てくれるな」
     早口で悪態を捲し立てて顔を背けてやる。
    それなのに、光忠は楽しそうに笑いながら暖かい灯の燃える芯を摘まんで消すと、繊細さの欠片も無く長谷部の背中へと顔を寄せて横たわってくる。
    「これなら眩しく無いだろう?」
     少し掠れた声は欲情の証だと長谷部は知っていた。そうしてその声が耳奥へと吹き込まれると、長谷部の身体は波が寄せる様にぞくりと全身が快を求めて疼く事も知っていた。
    何度も刷り込まれた肌の記憶が瞬く間にぶわりと蘇るのだ。
    「ねえ、長谷部君……。何か言ってよ」
     後ろから抱きすくめられて、耳朶に何度も吸い付かれる。悪寒と紙一重の悦楽は、ざわめく草原の風の様に背骨を一息に駆け上がった。
    「…ッ」
     長谷部は身を硬くして息を止めると、襲いかかる感覚の波に攫われぬようシーツへとしがみつく。けれども濡れたリップ音が鳴り止まない部屋で、彼から意識を逃そうとしても長谷部は呆気なく何度も捕らわれてしまうのだった。





         五

    「ああっう…ン……もうお前っ……そこはもう、いいから…ッ」
     光忠の勃起を迎え入れた状態で、執拗に乳首を吸われる。舌先が肌を撫ぜる度に腰の奥が蕩けてゆくようで、長谷部は思わず背中を強く叩いて抗議する。挿入った儘こんなキスをされると、訳が解らない位ぐずぐずになってしまうから苦手だ。
     強靭な腰が同じリズムで奥深くへと進んで来る度に、強く掴まれる膝裏の感覚すら鮮やかに拾い始めてじわりと濡れてしまう。足首を掴まれて指をしゃぶられながら、長谷部は此の儘光忠に喰らわれてしまいたいと願った。
    「……噛んでくれ……強く…っ」
     興奮した光忠により深く覆い被さられれば、その綺麗に割れた硬い腹筋に先走りで光る昂ぶりが押し潰されて酷く擦れた。
    「はあっ……!、ああっ……」
    「……長谷部君っ……きつい、……」
     光忠の掠れた声にすら一等感じてしまう。
     ぽたぽたと上から汗が落ちてくれば、長谷部の矛盾した支配欲が満たされていった。長谷部はその意識の遠くで、自らの精が弾けるのを感じた。


         六

     ミッションに失敗した。
     これだからあれ程用心してくれと忠告したのに、と長谷部は脳裏で何度も反芻した。その度に自分自身もが後悔に苛まれる。俺も油断しきっていた。それは事実だった。
     長谷部は一人、暗闇の中を走り続けていた。追手との距離は段々と詰まってくる。息を切らしながらも必死に、あいつは上手く脱出しただろうかとばかり考えていた。
     夜の街は皆寝静まっていて、それでも大きな通りは時折、旅装束の人間や馬車などとすれ違ってしまうから、長谷部は裏道だけを慎重になおかつ音を立てずに走り抜けるしか無かった。

     今回のミッションが知らされた時、随分と呆気ない仕事だと長谷部は思った。だからこそ、いつも通り完遂してみせますよ、とボスへと笑ってやったのだ。
     高名な政治家で領主の男から、悪どい取り決めを締結したという国の機密文書を奪うという仕事。
     標的の男は三日前まで隣国の権力者と秘密裏に接触していた。光忠は男の屋敷へ入り込んで目的の機密文書を盗み、一方の長谷部は帰路の途中である領主を彼の辻馬車ごと襲い、隣国の人間と密通していたと証明出来る何かを手に入れる手筈だった。それは毎度の如く、速やかに片付けられる仕事の予定だった。
     何処かで自分達は大丈夫だとおごって居たのだ。光忠と別れての別行動も慣れたものであったから。
     連なる二台の辻馬車を見付け、静かに近づき、滑るように領主の乗っている筈の車へと乗り込むと、長谷部は突然そこで予想もしなかった罠に捕らえられた。
     領主に扮装した別の男が出迎えたのである。
     咄嗟に向けた刃はいとも軽く跳ねられて、男は素早い身のこなしで反撃してくる。その時長谷部は初めて、対峙した相手が自分の同業者だと理解したのだった。戦闘と夜目に慣れた刃筋は、鍛えられた筋力と共に長谷部を劣勢へと追いやる。腕を突かれ、腹と脚を裂かれてから、やっと敵に背を向けて逃げるという選択を取った自分に、長谷部は走り去りながら、光忠に幾度となく叱られた言葉を思い出して反省した。
     ゆるさない、と言われたのだ。もし仮に僕の目の届かない所で死んだら、僕は君をゆるさない、と。
     約束を守れるかは微妙な所だった。相手もプロだ、恐らく俺はもう一度傷を受けたら動けなくなる、それだけは絶対に避けねばならない。俺の、願う一番の目的は必ず果たされなければならないのだから。
     刺された腹の傷口を押さえて走るのも限界が来ていた。夜が明ければ長谷部の血がグレーテルの白い小石の様にその足取りを点々と示すに違い無い。
     光忠と別行動なのが痛かった。今回の仕事のメインが隠された屋敷には、もっと厳重な罠が仕掛けられているのだろう。おち合う約束の場所へは行けそうに無かった。


         七

     あれから五日が経っていた。
     長谷部は夜中に廃墟やひと気の無い空き家を移動しながら、光忠を探していた。敵がいつ襲って来るかも解らないから、昼間はうたた寝程度しか出来ていない。
     傷口には切り裂いたシーツを宛がった。傷口はまだ塞がらずにジクジクと血を漏らすが、やはりあの敵は腕が立つのだろう、切れ味の良い刃で迷いなくスパリと刺された傷は癒えるのも早いのだ。
     光忠はどうしただろうか。仮に捉えられているとしたら……、俺達の状況はかなり悪い。
    「……………。」

     今夜は豪雨だった。黒い雲と轟く稲妻が街を覆う。長谷部は鼠の様に濡れそぼりながらも、酷く水を吸った革靴と靴下が互いに吸い付き合うのを感じた。
     冷たい感覚の中で、降り注ぐ雨と湿気は傷口と刃の天敵となる。長谷部は急いで今夜の宿にしようと、丘の上の寂れた教会へと向かった。
     無人の講堂に忍び込むと、そこには見事なモザイク画が高い天井一面に描かれていた。中央に描かれた神と、群がる様に雲の上で神へと跪く人間達が神聖な光を浴びている。
     神の加護を持つ天使が柔らかな表情で眺めるのは、端に描かれた悪魔と罪人だ。悪魔に魅入られた人間は、その姿を黒く染めながらも、悪魔の囁きに呼ばれる儘に雲の上から転落していく。そんな姿を、天使はただ微笑みながら眺めているのだ。まるで、一度染まった人間に救いの手は伸ばされないとでも嗤う様に。
     この罪人は自分だと、悪魔に魅入られた自分自身だと長谷部は瞬間的に宣告された気がした。外から絶望の雷鳴が幾度も鳴り響き、雨が屋根や歪な硝子戸を打ち付けてくる。嗚呼、あの男の無事を祈る事すら今の俺には許されぬのですね、と歯根の噛み合わない震える顎と青い唇で呟いた。声は出せなかった。そして、長谷部は数歩、そびえ立つ恐ろしさに後ずさった。
     ドーム型の構造をした講堂は、その濡れた革底と足音をペタペタと大きく反芻させた。音に驚き、さらに長谷部は後ろへと下がる。他に誰も居る筈が無いと解っていても信じがたい。素早く四方の扉を目で確認して、どの扉も硬く閉じている事に安堵した時、長谷部の背後のガ硝子窓が力任せに叩かれた。
     ビクリと勢い良く振り返る。濡れた硝子に、大きな赤黒い手形が張り付いていた。何度も何度も強く叩くその赤い手と、窓に近づく金色の瞳。
     光忠だった。
    「……光忠ッ!」
     打ち付ける雨に血が流される間も無く、赤き染みは斑に張り付いてゆく。長谷部は連なる椅子を蹴倒しながら、避ける余裕も無く扉へと走って外へと崩れ出た。
     濡れた泥の上で、朦朧としながら窓を叩き続ける光忠に駆け寄り背中から抱き締める。痛い喉が叫び続けるこの愛しい男の名前が、最早言葉を成さない悲鳴に成っている事にも長谷部は気が付かなかった。
    「……長谷部くん、遅くなってごめんね……ちょっと僕今ヤバいかもしれない……」
    「何も話すなっ! 体力を持たせてくれ、頼む……!」
    「ハハ……無残な恰好でごめん……」
     顔を伏せて空笑いする光忠に長谷部は何と答えたか自分でも理解出来ない儘、彼の腕下へと手を差し入れる。力を込めて立ち上がり、光忠を引き摺る様に教会へと戻った。記憶よりもずっしりと重い身体に長谷部は怯んでから、早く温かく乾かしてやらねば成らないとだけ思考する様に言い聞かせた。


         八

     教会の部屋という部屋を探し回り、かき集めた布を脱がせた衣服の代わりにして光忠を包んだ。簡素なマットレスは埃を被っていたから、仕方無く光忠を講堂の長椅子へ寝かせた。
     この豪雨の中どれ位歩を進めたのだろうか。光忠の身体は大理石の彫刻の様に冷たく、冷え切っていた。暖炉も無いこの部屋で長く横たわらせて置くのは危険だ、何か温かいランプでも見つけ出さなければ、とそばを離れようと立ち上がる時、光忠に袖口を弱く引かれた。
    「光忠……? 気が付いたか」
     長谷部がふわりと安堵して、黒い髪に埋もれたその顔を見ようと膝を抱えて覗き込む。とその瞬間、光忠の腕が長谷部の肩を掴み、長椅子から倒れ込むように長谷部を押し倒した。
    「ッ……おい! 正気を失うな!」
     息荒く長谷部の首元へと顔を埋めてくる、その瞳は空虚を漂う様に何も見て居ない。忙しなく痙攣する様に右往左往する眼球と開ききった瞳孔に光は無かった。
     不味い、此の儘では自我も無く光忠が俺を喰い尽くすであろう事は明白だった。我に返った時の絶望は彼に与えたく無い。長谷部は渾身の力で重い頭を掴み、顔を背けて身を捩った。そうして必死に重い体躯から抜け出ると、光忠の背中に馬乗りになる。革紐を使い手首を硬く後ろ手に縛り付けた。何重にも巻き付けた紐は長椅子の脚へと強く結んでやる。
    「……ッ、光忠……悪い、お前の為だから我慢してくれよ」
     床に顔を伏せた光忠の荒い息と上下する肩に長谷部は優しく触れると、その濡れた頭の前に跪いた。
     己のぴったりと貼り付いた服を捲り、腹に巻いた包帯へと手を掛ける。同様に濡れたそれは既に血を止める役割なぞ果たせる事も無く、滲んだ赤は引き攣れて傷口が開いていた。
     光忠を運ぶ時に開いたのだろう、まだ新鮮に滴っていく赤い液体は筋肉の溝を滑り臍へと流れ込む。
    長谷部は前屈みに腕を床に着くと、腰に差した短剣を抜いて自らの腹の傷を小さく切り開いた。
    「グッ……」
     ボタボタと止めどなく滴る鮮血は、光忠の頬へと降り注いだ。すぐに血が赤い水溜りを作っていく。長谷部はそれを掬うと光忠の白い唇へと擦り付けてやった。
    雫が歯の隙間から咥内へ挿入ると、ようやく光忠の瞼がピクリと動く。虚ろに瞳が開かれると、長谷部は震える息を吐きながら光忠の後頭部を掴んだ。顔を血溜まりへ押し付ければ、意識の無い光忠は唯ひたすら夢中でその赤い水を啜り始める。
    「……ハッ……ざまあ無いぞ、床に伏せて必死になったその恰好、正気に成ったら馬鹿にしてやるのが楽しみだ」
     血を啜る音が講堂中に響いて、クラクラと長谷部を酔わせたのか目頭が熱い。きっともう大丈夫だ、直ぐ元通りになる。
    「光忠。今から出掛けてくる。大人しく床で待っていろよ」
     腹に包帯を巻き直しながら振り返ると、顔を上げた光忠は瞳までも血で濡れている様に鈍く照らす闇を孕んでいた。


         給

     天候の所為か時間が掛かりそうだ。
     月に叢雲(むらくも)、花に風と云うが、今夜も暦通りなら満月の筈なのに、まばたきしても視界は滲んで掴み辛い。

    『この時俺は初めて罪の無い人を        』
     何時の間にかこんなにも墜ちて居た。
     しかし其れは、信じる正義が変わっただけの事。
    長谷部は右手で拾い上げ、一寸先すら見えぬ中歩き続けた。



         十

     長谷部が戻っても尚、光忠は床に倒れた儘荒い呼吸を続けていた。与えてやった血溜りはすっかり綺麗に染みひとつ残っておらず、彼を包んだ布も解けて上半身を露わにしていた。
    「おい……戻ったぞ」
     声を掛けると反応するから、長谷部は右脇に抱えた肉を光忠の口元へと押し付けてみる。弱々しく動く唇では自身で噛み砕くのは難しいのだろう。長谷部は一度躊躇して、代わりにそれに歯を立てた。筋を裂く食感は余り好い物では無かった。
     何度か咀嚼して光忠の濡れた唇へと口接ける。硬く半端に閉じたそこへ、舌を使って肉を押し込めていく。
    「ん……、はぁっ……」
     何度も繰り返し、汲んだ雨水も口に含んで流し込む。
    そうして長谷部の顔が血塗れに成った頃、やっと光忠は自分で歯を動かし始めた。持ってきた肉は全て無くなっていた。
    「もう無理だ、後は自分でやってくれ」
     最後に残しておいた肉塊を取り光忠へ渡して、長谷部は雨に濡れたシャツを肩口から縛ると少し眠る事にした。





         十一

     光忠、と呼ばれる様になったのは何時からだったか良く覚えて居ない。遠すぎる記憶のなかで、気付いた頃には人肉を喰う事でしか生きられない事を知っていた。きっと沢山の後悔と懺悔の日々から始まったであろう僕の食生活は、この世に僕と云う存在が生じた時からだったのか、後付けされた運命だったのかも解らない。
     生まれつきなのか、僕は頑丈な身体と生命力を持っていた。人を食す事で得た能力なのかもしれない。無茶をしても余り死に掛けないし、致命傷も驚く程早く治癒した。
    だから食事は必ず相手を殺した後に摂ると決めた。
    噛み付いた傷口から、僕のおぞましい性質が感染してしまう可能性を恐れたからだった。生きながら肉を喰えば、何かが起こってしまうのではないだろうか。
     今の仕事をする様に成ったのは、手頃に金も肉も手に入るから。其れだけの理由のつもりだったが、心の何処かで罪の無い人を手に掛ける事に罪悪感があったのかもしれない。己の生きる為だけの調達も、世の中を少し善くしていると云う理由が付加価値的に加われば、幾分か僕自身も肯定される気がしたのだ。
     仕事で知り合った長谷部と名乗る男を愛する事に時間は掛からなかった。僕達の関係は、必然であり運命的な物だと出逢った瞬間に知っていたからである。
    僕は長谷部君を愛しいと感じたし、彼に対して食欲は全く湧かなかった。其の感情は僕にとって矛盾だ。此れまで人へ感じた執着は全て、血肉を啜り喉を潤す為だけの物だったから。
     長谷部君と過ごす中で、僕はますます彼を食せず傍に置きたいと願ったけれど、彼は度々僕に喰われたいと零した。
     僕にとって最高の愛は彼を壊さず其の儘の生を慈しむ事だったのに、彼はどうやら完全な愛を受けて居ないと信じ込んでいる様だった。
    僕と口接ける度にすると云う血の味に機嫌が悪くなった。彼が葉巻を呑む様に成ったのも同じ頃だったかもしれない。


         十二

     光忠は、よく長谷部を食す夢を見た。

    嫌がる長谷部を腕の中に捕らえ、愛撫する様に丁寧にその美しい肌へと歯を立てるのだ。
    最初だけ鋭く噛み、ぷくりと滲む玉粒を吸い出して、それからは終始優しく真っ赤な肉を食む。最後まで抵抗する愛おしい彼の細く美しい骨張った手首を掴み、青々とした静脈から甘辛いバターの様な芳醇な味を啜った。
     やがて最後に、口接けながら懺悔する僕へ彼は潤んだ瞳で愛を伝えながら、仕方無いから喰われてやる、と微笑んでその最期の吐息をゆっくりと吐くのだった。

     愛する彼の味は此れまで味わったどの肉よりも美味で、幸福の味がした。長谷部と繋いだ儘の手が、段々と脈拍を鎮めていく中で、程良く引き締まった無駄の無い肉は光忠の心を暖めてゆく。段々と力が漲り、蜃気楼が晴れた様に鮮明に成る思考と視界。左目から熱い液体が流れている。
     その感覚に光忠は目を見開いた。



         十三

     どれ位眠っただろうか。
     遠くから何度も呼ばれている気がして、長谷部の意識は覚醒していった。名前を叫ぶ声が確信へと変わる。
     長谷部は疲弊した身体を起こすと、苦悶を浮かべながら声の方向へと引き摺っていった。
     見ると、黒い塊の様に縮こまった男が其処に居た。半裸の肌は赤が散り、黒くこびりついて固まっていた。
    「光忠」
     叫ぶ男へ寄ると何度も何度も名前を呼んでやった。右手で男の頭を抱えて、慰める様に呼び掛ける。男は一瞬息を止めた様に身体を大きく揺らし、力強く長谷部を引き寄せた。
    「……は、はせべくん……、はせべくん……僕は……君を……」
     嗄らした声で何度も、抱き締めた身体を確かめながら繰り返し長谷部を呼ぶ。そんな憐れな姿を見つめてから、長谷部は光忠の濡れた唇へと口接けた。
    「確かに君を食べた筈なのに……、君は……どうして此処に居るんだ……?」
    「……泣くな、顔も洗った方が良い。酷い顔だぞ、お前」
     長谷部が微笑むと、光忠の表情が一気に蒼白へと変わった。
    「きみ、腕が……」
    「否や、お前の為だけに落とした訳じゃ無い。ただ少し下手を打ってな。左腕の神経が逝ったんだ、丁度良かったんだよ」
    「そんな……、」
     光忠はそれ以上何も云わず、長谷部へと何度も震える唇を重ねた。それしか出来ないとも言いたげな表情で光忠は長谷部を
    見つめ、暫く逡巡した後に「有難う、」と小さく洩らした。
    「勿体無いから飲んで良いぞ」
     光忠が落ち着くと長谷部は言った。光忠は長谷部の顔を覗き、躊躇った後で、「うん……じゃあ、戴くよ」と遠慮がちに肩口へと舌を這わせた。
     感覚が無いのは本当の様で、光忠がその縛られた傷口から滲み出る血を丁寧に舐め取っていく動作にも長谷部は表情一つ変えなかった。
     切り口は綺麗に断裁されていて、光忠は其れを見て自分が彼を襲って腕を奪ったのでは無く、彼自身がその巧みな剣捌きと切れ味によって提供してくれた事を改めて知った。
     正気になってから味わう長谷部の血液は、何度も夢に見た素晴らしい想像を遥かに凌駕した味わいだった。張り巡らされた血管からもっともっとと吸い出したい欲求を抑える事に光忠は神経を使った。そして同時に、一度味を占めた僕は此れから長谷部君を食したい気持ちを抑えられるだろうかという不安にも駆られた。
    「どうだ、俺の味は」
    「凄く美味しいよ、甘くてとても濃厚だ」
     恐る恐る口にした質問の、光忠のその答えに長谷部は「それなら良かった」と何ともないかの様な口ぶりで答えると共に、酩酊した様な満足感と酷い興奮を覚えた。
     これでもう嫉妬せずに居られるのだ。
    「有難う、凄く美味しかったよ、長谷部君」
     随分と血色の良くなった光忠へと、長谷部は荒い息を吐きながら圧し掛かった。戸惑う光忠の露わになっている肌と腹筋へと片手で指を滑らせると、黒く茂った草原に隆起する太い幹の熱を確かめた。
    「……ッ、はせべく」
    「お前も興奮したんだろう?凄く硬い……」
     はぁと乱した息を耳元へと吹き掛けて強く握ると、光忠の太腿に力が篭もるのを感じて、長谷部は余計に興奮した。
     左手を失った長谷部は、すぐに光忠の赤黒い雄に唇を寄せると全体を丁寧に舐めた。口には入りきらない。掌で握って数回上下させながら、開けた儘の唇と舌で赤く突出する先端へと吸い付くと、腰を浮かせた光忠に後頭部をしっかりと掴まれて咥内を浅く出し入れされる。お互い長くは保たないだろう。


         十四

     久々の情交は、二人を欲の海へとひたすらに溺れさせた。
    「君は腕を失っても尚美しいよ」
     と何度も繰り返す言葉は、神への祈りの様に繊細に紡がれる。
     長谷部は光忠の腿へ跨りながら、霧の様に降り注ぐその愛の刺激の甘やかさへ唇を濡らした。
     右腕だけで光忠の首元へとしがみつくと、抱き締める手のひらが長谷部の凍えた背中を撫で擦り粗雑な熱が広がっていく。
    「あ……んん、……光忠…あぁ」
     仰け反らした乳首を光忠に吸い付かれる。むず痒く熱を孕んでゆく下腹部が、ジワジワと燻らせたもどかしさを溜めこんでしまう。羞恥に染まる肩を火照らせて、「触ってくれ……、」と口に出すと、耳元で光忠が喉を鳴らすのがやけに生々しく感じた。
    「はあ……、んっ早く……」
     光忠に強く扱かれ、我慢できずに光忠の雄を後孔へと宛がう。
    光忠の両手が背中を優しく擦る感覚にすら肌は快感を拾ってくる。
     滑る切っ先さえ上手く挿れると、光忠のペニスは長谷部自身の体重でゆっくりと飲み込まれていった。
     バランスの取れない身体では、腰を揺らすだけで精一杯だった。長谷部が浅く息をつくと、光忠は優しく口接けてくれる。
    「ふ……あ、」
    「僕が動いても平気かい?」
     光忠も苦しい筈なのに気遣ってそう尋ねてくるから、長谷部はもう一度強く光忠の肩を掴むと「頼む」と何度も頷いた。途端に強烈な快感が脳髄を蕩けさせる。
     片腕で重心が保てないまま緩く小刻みに突き上げられると、予測不可能な動きで光忠の硬いモノは長谷部の未開拓の部分をかき回して行った。接合部の境目すら霞む快感に眩暈がして視界が白くぼやけてゆく。
    「みつただ……達く……もう……あっ」
    「僕ももう……良すぎて保たない…っ」
     光忠の支える手に力が篭もり、長谷部の尻へ強く指が食い込む。其の儘引き寄せられて引き攣れた後孔は、物欲しげにヒクヒクと痙攣した。
     光忠が耳元で息を呑み、長谷部の首筋へ鋭く歯を立てる。前を弄られながら噛み付かれれば、痛覚すら快感へとすり替わってしまう。
    巧みに舌を遣われて、滲んだ血を強く吸い出された瞬間、
    「はああっ……うんっ……あああっ……!」
     長谷部は身体を大きく反らせて吐精した。
    収縮する直腸を抉じ進む光忠の雄に断続的に喘ぎ、震える括約筋で舐め絞る。長谷部のなかでじわりと光忠の熱棒が弾けた。
     興奮の波と息が落ち着くまで、光忠はじっとりと汗に濡れた長谷部の背中を抱き締めていた。身体からは雨の匂いと混ざった香りが匂い立っていて、鼻腔の奥深くまでそれを感じたかったからである。
     光忠は気怠くもゆるやかな幸福を感じながら、長谷部の息がいっこうに鎮まらない事を訝しんで彼を離すと、俯いた彼のやけに白ばむ額が其処にあった。


         十五

     何かがおかしいと本能が警告していた。
    「長谷部くん……?」と光忠は両肩へ手を掛けて控えめに揺すってみた。俯いた彼のその表情を確かめる為に。そうしてやっと、光忠は不規則に上下する彼の肩が冷え切っている事に気付いたのである。
    「……う、なんだ……」
     そう答える彼の掠れた声が疑惑に拍車を掛け、それと共に、じわじわと光忠の腹に生温かい何かが広がった。まさか、
     慌てて長谷部を自らの太腿から下ろすと、光忠はその怪しげな違和感の正体に絶句した。
    「きみ…………腹も……」
    「ああ、傷が開いたみたいだな……」
     いたく他人事の様に長谷部はそう言った。
    「何故! ……、こんなことしている余裕なんて無……!」
     動揺する光忠に、長谷部は「いや、」と否定の言葉を被せる。
    「お前に最後に愛されて、喰われてしまいたいと……ずっと前からそう願っていたんだ」
    「そんな……」
    「お前の瞳に、俺だけが映るんだろう。生き永らえる間も、ずうっと後悔をしながら。俺にその執着を……くれないか」
    「嫌だ! 失いたく無いって、きみ、解ってるだろう?」
     必死で長谷部の腹へ手を当てて、光忠はその傷口を塞き止め
    ようと試みる。然しかしなお、長谷部の心臓は圧し出す動きの儘に血液を体外へと溢れさせ続けた。
    「深手だったんだ、随分血を失った……どうせ朝までは保た無い……頼む。食わずに埋めるなぞ言ってくれるなよ……」
     長谷部の言葉に、光忠は衝撃と共に全てを悟った。きっと彼は、その為に僕を待っていたのだ。そうして無言の儘、光忠は暫く逡巡してから、苦しげに「解った」と小さく頷いた。
    「君がそう望むなら……僕はそれを叶えるよ」
     そう言ってから、長谷部が酷く嬉しそうに微笑むのを確かめて彼をもう一度抱き締めた。今度はそっと、壊れそうな飴細工を扱う様に繊細に。
     冷えてゆく身体を横抱きにして、湧き続ける泉へと唇を浸ける。なめらかな舌触りの肉と鮮血の味わいに喉を鳴らしてゆっくりと啜った。その味は熱くて、酷く塩辛かった。
    「……泣くな」
     長谷部のあやす様な声に顔を上げると泣きそうな笑顔で彼は微笑んでいて、光忠は頬が涙で濡れている事を知る。
     おもわず愛しい彼の名を呼ぼうとして、その瞬間、長谷部の頭はガクリ、と後ろへ力無く落ちた。
    「長谷部君!」
     訳が解らずに叫んで、長谷部の後頭部を手で引き寄せる。視界が悪い、容体を診たいのに、長谷部君の事が霞んで見えない。
    「嗚呼、そうだ僕の……僕の血はきみの傷も治せるかもしれない……僕の血で治せるかもしれない……いま、いま治してあげるから!……待っててくれ……あは、僕きみを待たせてばかりだよね……もう少しだけ待って…ほら、もう治るから……」
     手首を掻き切り、ほとばしる赤黒い血を長谷部の腹へ浴びせ掛ける。
    はやく、はやく治ってくれと手首を腹の中までも押し付ける。ザックリと裂いた自分の傷口に歯を立てて、どろりとした血を吸い出すと強く口接けた。長谷部へ血を与えようと流し込むのに、動かない彼の喉は飲み込めずに口端から流れ出てしまう。何故? ……嗚呼、どれもこれも僕の所為なのだ。
     ようやく真実を理解した後も、光忠は長谷部へ自分の血を与え続けた。


         十六

     講堂へ朝陽が差し込んできていた。
     何時の間にか太陽が地平線の向こうから現れて、辺り一面の森と草原を暖めてゆく。雨雲はもう消えていたのだ。
     腕に長谷部を抱えた儘その身体に頬を寄せていた光忠は、その明るさに頭をゆるりと持ち上げた。
     目は溶け落ちてしまった気がする。それ程までに眼孔が熱く痛むのだ。茫然としながらも光忠の手首はすっかり癒えていて、血塗れの姿にそぐわない其れはヒトでは無いという事実を改めて嘲っている様だった。
     もう一度眠ろう。出来れば目覚めたくなんて無いから、寝込んでいる間に誰か僕を殺してくれれば良いのだと光忠は思った。
     誰かが長谷部の亡骸を貶めるなんて決して赦さないから、いっそ彼をすべて綺麗に食してから死ぬつもりだった。けれど、酷く疲れた光忠は深く眠る事にした。まだ現実など受け入れられなかった。それに、長谷部を抱きながら殺されるならば本望だと薄く笑みを浮かべながら思ったのだった。

     ふわ、と何かが通り過ぎた気がして光忠は急激に覚醒した。眼を見開くと、外は夕暮れだった。窓から床へと斜めに映し出されたオレンジ色と枠の黒い影が交わり、その時に光忠は、この建物が古びた教会であることと、壁面から天井に絵画が描かれていることを知った。そして、光忠の抱いていた筈の亡骸は霧の様にどこかへ消えていた。
     深い衝撃と悲しみの中で光忠は、恐らく眠っている間に自分自身が彼を食してしまったのだと考えた。そこまで僕は化け物に成ったのだと嘆いた。それしか考えられないのだ。忍び込んできた何者かが、冷たくなった亡骸だけを奪うなんてあるだろうか?
     涙はとうに枯れた。此の儘死を待ったとして、殺されるのが先かそれとも飢えて力尽きるのが先だろうか。光忠はぼんやりと想った。どちらでも構わなかった。
     だから早く、と執行の時を願う。
     暫くして再びまどろみかけると、規則正しい足音がコツコツと近付いてくるのを感じた。
     嗚呼、願いが叶ったのだと光忠は悟った。奇しくも此処の場所故に、神様が聴き入れてくれたのかもしれない。鬼の様な存在の僕に、慈悲を与えてくださるとは思えないけれど。
     薄く目を開いても、泣きすぎた瞼は引き攣れて痛む。それでも救ってくれる最期を確認しようと光忠は眼を凝らした。ぼやけた視界で見えるのは汚れた服装をした若い男で、これなら潔くザクリと致命傷を与えてくれそうだと安堵した。長く苦しむのは流石に好きじゃない、早く殺してくれて良いよと声を掛けてやると、目の前でふわりと煤色が揺れた。


         十七


     空が高くなり季節は移ろいで、もう肌寒さを感じる季節が訪れかけていた。渡り鳥が森へ帰るのか、海の向こうへと旅立つのか大きな群れが一斉に羽ばたいた。
     折目には糊付けを効かせてしっかりとプレスした上質なスーツで身を包む。喪服と見紛う様な黒の三つ揃え。胸には赤いベルベットのハンカチーフを、甘いムスクの香りは後ろ暗い血の匂いを隠して。
     着飾った黒髪の男は、先を歩く背中へと急いだ。男と同様の装いをした、相変わらず足の速い男が急かす。
    「早く来い、光忠」
    「ああ」
     陽が落ちれば暗闇に紛れて、息を潜めながら今宵も夜の街を飛び抜けていく。今度は一緒に風を切るのだ。
     二人を運ぶ夜風の行先は、渡り鳥だけが知っていた。
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