いつからなんて覚えてやしない ギノを好きになった時のことは覚えてはいない。彼はずっと初めて出来た親しい友人で、俺を担当した気難しい哲学教師にも狡噛くんにもついに親友ができましたか、と言われたので、そうかようやく親友が出来たのか、と思っていた。あの哲学しかやって来なかった先生がどうして俺たちの関係を親友と表したのかは知らないが、あの先生は俺に親友が出来ないことを心配していたらしく、そこにギノが収まったことでホッとしたようだった。何でもできる狡噛慎也。友人は広く浅く。けれど自分が悩んだ時に頼れる誰かはいない。秘密を話せる誰かはいない。先生はそれを知っていて、ギノを親友と評したのかもしれない。それくらい俺は友人がいなかった。語り合うクラスメイトがいなかったわけではないが、気がつけば俺は人混みの中でいつも一人だった。
「あなたたちっていつからなの? ちなみに私が最後の男と別れたのは三ヶ月前よ。雨の日でイヤリングを落としちゃったの。その男は新しいのを買ってあげるって言って泥水で汚れたのを拾わなかった。だから別れたの。で、あなたたちはどういう理由で何年も付き合ってるの?」
花城はパスタを綺麗に口に運びながらそう言った。と言われても、いつからなんて覚えてやしない。最初は親友になって、そこから段々と深く愛し合うようになった気がするが、具体的な時期や理由は覚えていなかった。それよりこの複雑な状況を説明すると、休みを取った須郷の穴埋めで使いっ走りをした俺たちに花城がランチを奢ってくれているのだが、出島はいつも通りうるさく、彼女の声もなかなかに聞き取りにくかった。
「いつからって、いつからだ?」
「嘘嫌だ最低じゃない。二十年近く一緒にいてそれ? 宜野座、別れを考えた方がいいわよ」
「いいんだ、俺も似たようなものだし。一緒にいるのは事故みたいなものだ」
ギノがオニオングラタンスープを飲む。俺はコーヒーを一旦飲み干して、空いたグラスをウエイターに渡した。
ギノが好きだと気づいたのは、やっぱりはっきり覚えていない。でも出会って数ヶ月するとキスをしていたし、手も繋いでいたし、寝てもいた。セックスをするために同意は取ったが、花城が求めるような、ロマンチックコメディのような恋愛の台詞は口にしたことがなかった。
花城は顔を顰めて俺を見ている。俺は頭をぐるぐると脳みそ自体をひっかき回しながら、やっぱり思い出せないなぁとぼんやりと思った。ギノを好きだと思ったのはいつ? あの哲学教師はまだ在籍しているか? 彼にカウンセリングを頼みたい。雑賀先生は直接的すぎるから。
「俺が好きになった時を覚えてたらそれでいいんだ、課長」
「へぇ、あなたは覚えてるのね。それってどんなの? 聞いてもいいもの?」
「初めてのセックスが終わって、シーツ越しに抱きしめられて、泣かれた時に愛してるって気づいた。昼からする話じゃないかな」
俺はギノの言葉に驚いた。そういえばそんなことがあった気がする。狡噛大丈夫だ、痛くないから、お前と繋がれて嬉しかったから、そうギノは言って、でも俺はギノが辛くて仕方なかった。ギノの身体が痛いのより、心が痛いのが辛かった。父親のこととか、母親のこととかを、かさぶたが剥がれ落ちるように知って、俺はその新しくなった皮膚に触れて、あぁ、俺はこの男を愛していると思ったのだ。秘密を知って愛していたと気づくなんて馬鹿らしいだろうか? でも同じ時に、秘密を話したあの時にギノも俺を愛していたと気づいてくれたなんてとても嬉しかった。
「別に。私たちは大人だもの。私も初めてを告白してあげる。それこそ昼間には相応しくないもの。それにはワインが必要ね。ごめんなさい、メニューを頂戴」
花城が笑ってウエイターを呼ぶ。俺はコーヒーを受け取って、それにまた口をつけた。ギノは何もかもわかってるって顔で、とても落ち着いていた。ここから離れたら、話をつけないといけない。そして心から愛していると告げなければ。
愛してる、愛してる、愛してる。秘密を聞かねば気づけなかった俺を笑ってくれ。けれどお前の献身が俺に愛を気づかせたのだ。それは分かってくれてもいいだろう?
出島のカフェは今日も暑く汗が滴る。ワインが運ばれてくる。花城の話が始まる。そうね、何から話しましょうか? あなたたち、年齢が離れた男女の恋愛ってどう思う? 昔あったじゃない、そんな映画。
花城は楽しそうにワインを啄む。啄木鳥がグラスを叩くように、ピンクの口紅がグラスを彩る。俺は例にあげる映画を探しながら、ギノと目くばせをして、足だけを絡めたのだった。