少し話した後に、抱きしめたくなるんだ 狡噛は何も喋らない。彼は俺の部屋にやって来ても、持参した古本を読むか、いつの間にか置かれるようになったレコードを流すかで、積極的に俺に触れようとしなかった。別にそれに不満があるわけじゃない。彼と過ごす穏やかな時間は俺にとってかけがえのないものだったし、狡噛慎也という人間が側にいるだけで安堵した。触れなくても体温が伝わって、彼の規則的な呼吸に泣きたいくらい安心した。子どもが母親の手を離さないように、ゆっくりとした心音に触れるため腹に頭を押し付けるように、俺は彼の横顔を見つめ続けた。そりゃあ触れたいと思う。手を握ったり、彼を抱きしめたりしたい。けれどその先に待っているのはセックスというだけで、そうすれば自分が今抱いている焦燥感が消え去ってしまいそうな気がした。俺は彼を愛している。だったら彼が心地よいようにしたかった。レコードをかけて、ジャズを流して、見知らぬ題名の本を読む彼の側に座って、俺はいつもデバイスを触った。彼の好きな音楽を探り、熱心に集中する本を調べた。でもそれだけだ。それだけで何も出来なかった。だから俺は口を開くのだろう。彼をそっとしてやりたいのに、用事にかこつけて、彼の声を聞き出したいのだ。彼がどんなふうに本に感想を抱くのか、この音楽のどこがいいのか。掠れ声がセクシーな歌手の声に耳を傾けるのは何故なのか。俺はそんな簡単な不思議を知りたくて、狡噛に向かって声をかけた。
「その本は面白いのか?」
「人によるかな。俺は好きだけどギノが気にいるかどうか。朗読してやろうか?」
俺はそれを断って、そろそろ夕食の準備をしようかと席を立とうとした。しかしそれは彼に封じられてしまう。狡噛が俺の腕を引っ張って、ソファに押し返したからだ。狡噛は獰猛な顔をしていた。セックスをする前の顔だった。青い瞳が暗くなって、深くなって、俺だけを見つめる目だ。でもまだ腕が触れただけ、俺はソファに身体を横たわらせて、じっと俺を覗き込んだ。瞳の虹彩が重なるような気がして、俺はとても不思議な気分になる。そういえば今日は狡噛は眼鏡をしている。老眼かとからかったら、閃光弾で視力が落ちたんだと語られた。俺はそれ以上何も言えなかった。彼が海外を放浪していた時に負った傷を見てはいたくなかった。
「朗読はいい。何が食べたい? お前が教えてくれたおかげで簡単な料理なら作れるんだ。炒め物くらいだけど」
「本当に? そうだな、冷蔵庫には肉を入れておいたから、ステーキでも頼もうか? ハイパーオーツ以外の肉は食べられた?」
「もちろん、フードプリンター以外の食事もするようになったんだ。全部お前や花城のおかげだよ」
俺たちは軽口を繰り返して、そうやって食事を作った。と言っても肉を叩いて塩胡椒をしてワインをフランベして焼くだけだ。それから肉を買った時にもらったというソースをかけるだけ。パンは以前買い出しした時のものがあるから、あとはスープとサラダを作るくらい。ごく簡単な夕食だった。窓の外の景色は赤い。西日が入るこの部屋では、そろそろ営業を始める出島のネオン街の光が入って、複雑な色合いの明かりが部屋に入り込んだ。俺はその光が好きだったけれど、狡噛がどうかは知らない。複雑な色合いに彼は仕事の楽しくない何かを思い返すかもしれないし、そんな気もしていた。
食事を終えると、食器洗濯機に皿を入れ、俺は父の残したウィスキーを手にソファに座った。狡噛も待ってましたとばかりに本を置いて俺を見つめる。手のひらが重なる。そしてギノ、と呼ばれて、狡噛はいつの間にか用意した氷をグラスに入れていった。
「お前が馴れ初めを語るなんてさ、何かあったのか?」
先日花城と喋ったそれを狡噛は言っているのだろう。俺が狡噛に抱かれて、自分の人生について語った時にこの純粋な男は泣いて、俺はその時に彼に愛されたいと強く思ったことを、考えてみれば彼は初めて知ったのだった。少し意地悪が過ぎただろうか?
「さぁ、どうだろうな。ほら、氷が溶け切らないうちにゆっくりと舐めて」
俺はグラスを差し出す。そこにはいつの間にか飴色の液体が入っていて、狡噛はそれを持ちながら、俺の太ももをさすった。俺もそれにならって狡噛に触れる。彼の匂いがする。こうやって少し話した後に、俺は彼を抱きしめたくなる。彼がどうかは知らない。抱きしめたらセックスに繋がるからそれはしないのだけれど、それでも触れたくなってしまう。それはきっと、俺が彼を愛しているからなのだろう。
「物欲しそうな顔して、どうしたんだ?」
狡噛が言う。俺はそれに笑ってしまう。狡噛は食事をすると俺を抱きしめようとする。食事とセックスが繋がっているのだ。それは面白くもあった。
「告白すると、お前を抱きしめたくなって」
「それなら歓迎だな。俺もちょうど同じことを考えてた」
狡噛が言う。俺はその言葉に甘えて、彼を抱きしめた。彼からは酒と煙草の匂いがした。それはきつい匂いだったが、誰よりも家族に近い匂いだった。