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    shido_yosha

    @shido_yosha
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    shido_yosha

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    100日後に死ぬ鳴瓢

    〜プロローグ〜
    「先日頭のMRI撮ったんですけどね。お医者さんが『あなたは人より扁桃体が大きいですね』って言うんですよ。『普通、危険な状況や不快な物に直面したら、立ちすくむか逃げるのですが。あなたは近づいたり攻撃したり……ようは飛びこんだり飛びかかってしまうようですね』って」
     雲ひとつない青空。病院の屋上。晩秋の木枯らし。ベンチに寝転がる鳴瓢が、歌うように話す。
    「扁桃体というのは大脳辺縁系の一部で、感覚情報に対して、すぐさま快・不快、有益・無益を判断して、感情や行動を起こす場所らしいです」
     隣に座る百貴は、
    「それは褒められてるのか?軽蔑されてるのか?」
     と眉間を曇らせる。鳴瓢は、
    「真面目で看護師さんにも丁寧な先生でしたから『心配』でしょうね。俺、あのひと好きだなぁ」
     百貴は掌で缶コーヒーを転がす。
    「それが俺の、『お前は何故怪我をしてまで無茶するのか』という質問の答えか」
     怒気と呆れを含んだ問いは、「答えになると思っているのか」という揶揄がこめられている。
     実際、鳴瓢は患者着姿の頭と腕に包帯を巻いている。二人は刑事部捜査第二課に所属する警察官であり、百貴は今日、犯人を捕まえる際に負傷した彼の見舞いへ来ていた。
     昨今日本では、大量殺人事件、猟奇殺人事件の件数が増加している。それに伴って捜査官の直面する死傷者数も増え、人員の補充や新たな捜査方法の導入など、警察組織全体の規模が拡大を続けている。とはいえ後輩が捜査中病院へ運ばれるのは三度目で、これはさすがに異常な事例といえた。
     百貴が、
    「馴染みのラーメン屋感覚で病院に通うな」
     と非難すると、
    「通院は本意じゃないんですけど。ここの病院食美味しいんですよ」
     百貴はプルタブを引っ張り、銀色の縁を口に運ぶ。懐炉代わりにしていたらすっかりぬるくなってしまった。
    「お前が被害者を慮って怒りを抱くのはわかる。だが規律を犯してまで暴力を振るうのなら、犯罪者と変わらない」
    「そのことなんですけど」
     鳴瓢が人差し指を立てる。
    「扁桃体って、自分の苦痛でなく他者の苦痛に『共感』した場合でも賦活化されて、情動や身体反応を表象させるらしいです。で、ざっくり『共感』といっても幾つかに分類できて。他人を助ける援助行動へ導くには、相手の立場に立つことで生まれる『同情』という共感が必要みたいです。ただ他者が苦しむのを見て自分が苦しむ『個人的苦悩』という共感では、向社会的行動に至らない」
     百貴は後輩の言説を反芻する。
    「利他行為を行うには、相手の苦痛内容を知ったあと、視点を自分から相手へ移す作業が必要ということか。たしかに、見ていて自分が苦しくなるだけなら、目を閉じればいい」
    「あるいは、相手を排除してしまう」
     二人の間を、そよりと冷たい風が吹く。灰色の雲が西の空から近付いていた。鳴瓢はこめかみをとんとんと叩き、
    「俺が怖いと感じたのは。共感によって相手の脆さを把握できるのなら、助けることも精神的に追い詰めることも可能ということです。よく言うでしょう、『優しいひとは相手の傷付く急所を知っているから優しくできる』」
    「そんなことをしでかす前に俺がお前を止める」
    「いいですよ、無理しなくて」
     アルミ缶の底が鳴瓢の額に振り下ろされる。ゴッという鈍い音とともに、
    「いでっ」
     悶絶する鳴瓢。百貴は、
    「おかしなことはするなよ。綾子さん、臨月だろ」
     綾子とは鳴瓢の妻だ。しかし叱られた側のの鳴瓢が、まるで子供をあやすように、
    「百貴さん。ひとがひとを救うことはできません。せいぜいが自分の為にした延長で、誰かが勝手に救われる」
    「悪を挫いて、挫かれたひとを助けようとしなければいけない。救えなくても、望まれなくても、自己満足と分かっていても」
    「百貴さんって桜の代紋が服を着てるみたいですよね。正しくて完璧」
     嫌味かと、百貴は鳴瓢を一瞥する。が、後輩の表情は見えず薄紅色の髪が柔らかく揺れるだけだった。百貴はトレンチコートの襟に顎を埋めた。
    「……俺は俺が間違っているんじゃないかと疑わずにはいられない」
     今回の事件も、犯人を捕縛するまでに大勢の人間が死んだ。警察官が四名負傷した。待機指示を無視して現場へ飛びこんだ鳴瓢は、始末書を書かされていたが、突入があと二分遅ければ生存者はいなかった。
     鳴瓢が穏やかに、
    「百貴さんは、正しい自分を疑えるから完璧なんです。苦しいこともあるでしょうが、俺はとても好きですよ」
     そして百貴の方へ首を傾げる。
    「百貴さん。百貴さんが、もし俺や、世界中の誰も救えなくても、けっして百貴さんのせいじゃないです。それ以上に百貴さんの正義は、百貴さんの預かり知らないところで誰かを救っています。だから……」
     「だからあなたがそんな傷付かなくていいんですよ」と鳴瓢が困ったように微笑んだ。

    〜回想〜
     百貴船太郎と鳴瓢秋人は警視庁刑事部捜査第一課の警察官である。
     初対面を交わしたのは警視庁警察学校附属の剣道場。団体練習と休憩を終えて地稽古という模擬試合を始める直前、防具の面を付ける最中だった百貴の前へ小走りにやってきた剣士がいた。剣士は正座をし、
    「よろしくお願いします」
     と礼をする。
     面を付けていると視界が悪く、さらに相手の相貌も明瞭でない。相手が誰かわからない場合、腰につけている垂れの名札を見るのだが、そこには「鳴瓢」と記載があった。
     確か同じ課に配属されたばかりの新人だ。百貴は後頭部の面紐を結び、
    「お願いします」
     と返礼したのち立ち上がる。二人は道場の片隅で相対する。
     立礼を交わし、三歩進んだところで立ち止まる。あと一歩踏めばこめば切先が触れるぎりぎりの距離で蹲踞。同時に腰を上げ、両者中段で構えての対峙が始まった。
     対話するような剣先の制しあい。先に攻めこんだのは鳴瓢だ。百貴の剣先をおもてで払い、左足で強く地を蹴る。相手の間合いへ大きく飛び込んで、
    「キェエエエイ!」
     敏捷で気迫の凄まじい面打ち。が、それは百貴の誘いであった。百貴は彼の竹刀を受け止め、即座に膝を曲げる。腰を回転をさせながら、鳴瓢の勢いを利用して、
    「オォウ!」
     胴を打ち抜く。刹那の攻防。審判は不在だが、百貴の一本がきまった。二人は一息吐くと、蹲踞した位置へ戻り、仕切り直してまた構える。
     その後およそ五分間竹刀を交え、結果は百貴の二本勝ちで終わった。軽く感想と改善点を述べあい、会釈をして各々別の剣士へ稽古を乞いにいく。それ以来鳴瓢は、道場で出会うたびに百貴へ稽古を申し込んできた。
     鳴瓢の剣風は好戦的でありつつ鋭く相手の隙をつくものだった。直情型にみえて洞察力の高い人間なのだ。癖のない模範的な剣風と評される百貴は、結局鳴瓢に敗北したことはなかったけれど、ルール無用で交戦すれば分からないと思った。そんな状況は決して起きないだろうが。
     そんなわけで、まともに顔を見て会話をしたのは秋頃。同じ捜査チームとなってからで、すぐさま意気投合した。
     鳴瓢秋人は刑事として優秀だった。しかしいかんせん主張の強い性格で、いきすぎた単独行動をとることが少なくなかった。だから業績においては早いうちから頭角を表したものの、嫌厭する同僚や上司も多かった。そのためツーマンセルを組む際の相棒役は大概百貴へまわってきた。
    「あいつに付き合えるのは百貴くらいだ」
     これは百貴が懇意にする先輩、松岡による評。
    「俺なんかを見捨てないのは百貴さんだけですよ」
     これは鳴瓢自身による評。自覚があるのならはやめてほしい、と百貴は嘆息せずにはいられない。
     したがって二人がプライベートでも交流するようになるまでさほど時間を要しなかった。百貴はよく鳴瓢の住まいへ招待された。
     鳴瓢は捜査一課へ配属されたときすでに既婚者で、彼の妻である鳴瓢綾子は、垂れた目尻そのままの柔和な美人だった。また、鳴瓢よりいくらか歳上らしく、我の強い夫をうまく包容する度量もそなわっていた。
     彼らの借りるアパートを百貴が初めて訪問したとき、百貴は近所で有名なパティシエの店のケーキを持参した。和やかに談笑し、鳴瓢夫人が緑茶を淹れなおそうと台所へ立ったあと、百貴は旦那を小突いて、
    「お前にはもったいないくらいのひとだな」
    とからかう。すると鳴瓢は、臆面もなく、
    「俺もそう思います」
    と綻ぶのだった。
     鳴瓢がマンションを購入した際はささやかなパーティーが催された。洗練されたカジュアルモダンなインテリア。その合間をぬって写真など思い出の品が飾られている。夫婦が初子を授かると宝物はさらに増え、百貴が一家を眺めるたび、光の洪水のようだと目を細めた。
     仕事で張り込みをしていたときのことだ。
    「俺、自分の血縁と仲良くないんです」
     運転席に座る鳴瓢が前を向いたまま語ったことがある。
    「だから、自分の家族をつくるの、すごく憧れだったんです」
     百貴は生来独身である。何度か恋人はいたし、親族から見合いを勧められもする。忙しさを言い訳に躱しつづけて、気付けば四十路。その選択を未だ後悔したことはない。
     しかし。どれほど検挙しても犯罪率は伸びていく。凄惨な死体、うちひしがれる遺族。理不尽に出くわし己れの無力さを痛感することが増えていった。
     だから百貴は、鳴瓢秋人の存在を尊く思っていた。自分の傍らでごく普通のささやかな幸せを築く後輩を少し羨ましいとさえ思った。あのマンションの一角は、同僚のみならず百貴にとっても幸福の象徴だったのだ。

     「ももぎさ……っやこが、……あやごがぁ!」
     午後七時。一時間前に別れた相棒から錯乱した電話を受けとる。百貴は車をとばして、彼の自宅へと駆けつけた。マンションの管理人に連絡し、オートロックのドアを開けてもらう。
     玄関扉を開いた瞬間、顔をしかめる。腐敗と鉄錆の匂いが鼻をかすめた。同僚の姿を探していると、否が応でも部屋の荒廃した有り様が目についた。ゴミ袋の堆積。切れかけた電球。
     居間を通り抜け浴室へ向かう。すると鳴瓢が、背広の胸を血まみれにして愛妻を抱きしめていた。鳴瓢綾子は、全身をずぶ濡れにして、夫の腕のなかで事切れていた。
    「ゔわぁあああ!あやこ、あやこ!!」
     百貴は走り寄って、
    「鳴瓢。どうした、何があった」
    「ももぎさっ……あやこが!あやこがぁあ!」
     薄暗い室内に相棒の絶叫がこだまする。浴槽を見やると水溜めが朱色に染まっていた。夫人の身体は白く、最後に葬式で会った時と比べはるかに痩せ細っていた。鳴瓢が不在のあいだ、湯船につかり手首を掻っ切って自殺したのだ。
     百貴はすぐさま所轄の警察署へ連絡した。駆けつけた警察官に検視を頼む。第一発見者である鳴瓢は連行された。
     清潔な慈愛で満ちていた家が、一変して血と汚濁の地獄と化していた。薄暗闇のなか、浴室の外の廊下に白い箱がぽつねんと落ちていた。百貴はいたたまれなくなって外へ出る。欄干に手をかけ、雑居ビルを睨んだ。あれは、百貴も手土産にしたことのあるケーキ店の箱だ。

     翌日。入念な検視の結果、鳴瓢綾子の死因は自殺とみて間違いないだろうという連絡を受けた。
     二十二日前、二〇一六年十一月十三日。鳴瓢の一人娘である鳴瓢椋が、殺人鬼「対マン」によって殺害された。鳴瓢と百貴は、この捜査に当たっている最中であったから、鳴鳴瓢綾子の死との関連性を調べなければならなかった。つまり、鳴瓢夫人の自殺は偽装された他殺でないと証明する必要があったのだ。しかし遺書も発見されていることから、警察は娘の死を苦にした自殺という結論を導きだした。
     電話をくれた所轄署員は続けて、また夫の鳴瓢秋人は明日釈放されるが、近しい親族はいないと言うので迎えにきてくれないか、と言った。百貴は了解と感謝を述べ通話を切った。

    「いろいろすみません、百貴さん」
    「構わんよ」
     百貴が差し入れたシャツとスラックに着替えた鳴瓢が、助手席に座る。同僚の隈は濃く、明らかに憔悴していた。百貴はハンドルをきりながら、
    「今日はどこに泊まるつもりだ」
    「しばらくはホテル暮らしですね。とりあえずマンションの前で降ろしてもらえますか。貴重品とか取ってこなくちゃ」
    「分かった」
     百貴は建物の前で停車する。
    「それじゃあ」
     と別れを告げる横顔へ、
    「駐車場で待ってるよ。どれだけかかってもいいから。送っていく」
     後輩は一瞬、迷った様子をみせた。百貴は断られるかと思ったが、鳴瓢は無言で頭を下げてドアを閉めた。

     一時間ほど経過したのち。ボストンバッグをひとつさげ、鳴瓢は帰ってきた。後部座席に積みこみ助手席へ乗りこむ。百貴は内心、部屋へ突撃するか検討しはじめていたところだったから、胸を撫でおろした。そして改めて、隣の後輩へ、
    「お前が良ければなんだが」
     と提案する。
    「俺の家へ来ないか」
     わずかに目を見開く鳴瓢。百貴はあくまで淡々と、
    「郊外に建つ一軒家だ。以前は両親と同居していたが今は俺ひとりで暮らしてる。アクセスは最寄駅からお前のマンションまで電車で一本。必要な物や手続きをとるのに不便さは少ないはず……」
     滔々と語りながら、百貴は、「違うだろう」と考えなおす。聡い彼へ説明すべきは理由だ。
    「お前を放っておけない」
    「……」
     今、鳴瓢を独りにしてはいけない気がした。付き合いは短いが、彼の気性は理解しているつもりだ。頭の回転が速く思い切りのいい性格。突飛な行動を起こさないともかぎらない。であれば彼の霹靂は誰へ落ち、何を穿つというのだろう。今彼の傍を離れるのは危険だと、直感が告げていた。鳴瓢が、ぽつりと、
    「……いいんですか?」
     と掠れた声で呟いた。
    「ああ」
    「じゃあ、お世話になります」

     数寄屋門をくぐり、飛石を渡る。玄関の木戸を引き、式台へ足をかける。廊下を進みながら、鳴瓢がしげしげと家屋を見回した。
    「百貴さん家、すごく広いんですね」
    「そうか?」
    「家事が大変そうです。お手伝いさんを雇ってるんですか?」
    「ああ。スズさんという名前で、俺が生まれた頃より奉公してくれている女性だ。お前が来ることも事前に連絡してある。よくできたひとだから、気兼ねなく頼ってほしい」
    「由緒正しい家柄なんですね」
     まもなくして最奥の土壁に突きあたった。百貴が襖に指をかけ、
    「ここがお前の部屋だ。寝具を敷いておいた。寛いでくれ」
    「ありがとうございま……」
     と言いかけて絶句する鳴瓢。
     眼前に広がっていた光景は面積八畳ほどの和室に敷布団が二組、ぴったりと並べられ、掛け布団の上に浴衣、枕元にはティッシュボックスが置かれていた。
     鳴瓢は思わずスパァンッと襖を閉める。百貴が、
    「どうした」
    「いや、見間違いかと思って。布団が連れ込み宿みたいな感じで並んでませんでした」
    「俺が頼んだんだ」
    「なんで」
    「俺も隣で寝る」
    「何故!?」
    「ええと、……一人寝は慣れないだろう」
    「綾子の代わり!?」
    「気にするな。俺のことは壁だと思え」
    「壁と目合うのいやだなぁ……ああ、もしかして監視のつもりですか?大丈夫ですよ」
    「ともかく休め。湯殿に湯を張ってあるから、疲れを洗い流すといい。俺はいったん本庁へもどる」
    「はぁ。……あの」
    「課長には俺から言伝しておく。諸々の手続きは明日以降にしよう。食事を早めに用意してもらうから、お前は先にとっていてくれ」
    「そうじゃなくて。その子、」
    「うん?」
     鳴瓢が指差す下方を振り返ると、赤い首輪をつけた赤毛の芝犬が尻尾を振っていた。
    「ああ……」
     百貴はしゃがみ、硬い毛の密集した頭を撫でる。犬は気持ちよさそうに、ぴすぴすと鼻を鳴らす。鳴瓢が、
    「お名前は?」
    「ももたろう。五歳のメスだ」
    「ももたろう?主人の百貴さんが桃太郎では」
    「いや、俺の氏名を短くして百太郎だ」
    「なるほど」
     鳴瓢も膝を曲げ、掌を差しだす。犬は鳴瓢の匂いを嗅ぐと、人懐っこく額をすり寄せた。
    「賢いわんちゃんですね」
    「うん。番犬もしてくれるんだ」
    「……百貴さん、椋を見るときと同じ顔してる」
    「そうか?椋ちゃんは芝犬というよりジャック・ラッセル・テリアっぽいよな」
    「そういう意味じゃないんですけど。嬉しそうなのでいいです」

     こうして二人は、しばらくのあいだ同じ屋根の下で暮らすこととなった。百貴が視認するかぎり鳴瓢は少食で、いつ睡眠をとっているのかも分からない様子であった。
    「大丈夫ですよ。ただ要ると感じないんです」
     事もなげに鳴瓢は言う。素行について家政婦へ質すと、
    「終日お部屋にこもられていると思えば、ずっと外出なさっていることもあります。あまりお見かけしないんです。百太郎ちゃんはよく懐いているようですよ」
    「そうか。そういえば、健康診断の結果はどうだった」
    「問題ありませんでした。でも血圧が高いようで、通院が必要とお医者様にいわれました」
    「分かった。お大事にな」
     鳴瓢が「逆に落ち着きません」と抗したことで、結局二人は別室で眠ることになったのだが、百貴が深夜手洗いへ起きた時、縁側で月を見上げる鳴瓢を見かけた。傍らで犬が丸まっている。百喜はそっとその場を離れた。

     鳴瓢綾子の葬儀式の日は朝から雨が降っていた。しとど降りる天水は営みの音をかき消し、世界を灰色に染めあげる。
     参列した百貴は、号泣する女性が鳴瓢の胸を叩くところへ通りすがった。女性の顔立ちは鳴瓢夫人によく似ており、姉なのだとあとで知った。鳴瓢の唇は謝罪を形づくり、なされるがまま女性を雨から傘で庇う。喪服の肩はぐっしょりと濡れ変色していた。まるで映画館で映画を眺めるように、現実感の欠けた光景だった。

    「食え」
     と、百貴は箸を差し出す。その先端にはほうれん草の白和えがはさまっている。鳴瓢は、
    「無理です、食欲がないんです」
     と視線をそらす。妻が死んでから、食事しても味がしないのだという。砂や粘土を噛む心地だと。
    「それでも食え。……いや、だから、食うんだ」
    「……なんで」
     食卓に透明な雫がしたたる。鳴瓢が壊れそうな瞳で、
    「なんで、百貴さんが泣くんです」
     と言った。「お前が泣かないからだ」と答えるのはおこがましい気がして黙る。鳴瓢が口を開け百貴は生きる糧をそこに注ぐ。

     仕事を終えた百貴が家路をたどったとき、時刻は午後十時をまわっていた。帰宅して鳴瓢の部屋へ寄ると、室内は無人で影布団がめくれていた。
     慌てて彼の姿を探す。やがて縁側で、トレーナーとスウェットズボンを着た男が倒れているのを発見した。百貴の心臓がさっと冷たくなる。
     駆け寄り手首に触れて呼吸を確認する。幸い脈拍に異常はなく、スウェットの胸は規則正しく上下していた。
     傍らで寝そべっていた百太郎が、首をもたげ、じっと主人を見つめた。百貴は犬の首を抱いて、
    「……お前が見守っていてくれたんだな」
     と呟いた。

     翌朝、鳴瓢が食卓で焼き鮭を咀嚼しながら、
    「俺、そろそろ職場復帰しようと思います」
     と言った。百貴がいぶかしげに、
    「……大丈夫なのか?」
     と問うと、
    「はい」
     と朱塗りの汁椀を仰ぐ。たしかに血色が少し良くなったかもしれない。目に生気が宿ったようにみえる。百貴はほっとして、
    「あまり無理はするなよ」
     と一応釘を刺した。
     自分はいつだって、気付いたときはとっくに手遅れなのだ。

     銃声を聴きつけ正面玄関へ走る百貴。玄関口で仁王立つ鳴瓢と、大の字で倒れた勝山伝心を視界で捉えた瞬間、百貴は鳴瓢を殴りつけた。よろめき、尻餅をつく鳴瓢。
    「お前っ……何てことしやがった!」
     普段であれば決して吐かない悪態をぶちまける。すると鳴瓢がかっと目を見開き、
    「うるせぇ!」
     と百貴へ掴みかかった。倒れた二人は重なって芝生を転がり、鳴瓢が百貴に馬乗る姿勢となる。そして歯を剥き出しにして、百貴を殴打する。
     一瞬意識がとぶ百貴。けれど中指の第二関節を突き出した形で拳をにぎり、
    「おらぁっ!」
    鳴瓢の両脇を思い切り突き上げる。
    「ひっ、が……!」
     中高一本拳という空手の一技で、暴漢に組み敷かれた際か弱い女性や子供でも高威力の護身術である。
     鳴瓢が怯んだ隙に、百貴は鳴瓢を突き飛ばして股下から這い出る。鳴瓢はすかさずその脚を押さえつけ、両手を組んで百貴の胴に振りおろす。
    「うぐっ!!」
     百貴は身体を反転させ、二度目の叩打をくりだす腕を防いで、再び肋骨を狙う。
     土ぼこりと血と体液にまみれながら百貴と鳴瓢と揉みあう。百貴は、頭の冷えた片隅で本当は勝山とこうしたかったのだろうとよぎった。だが急襲部隊と競争した結果、性急に拳銃で射殺せざるをえなかった。それは正当防衛などでは誤魔化せない。
     ましてや正義とはかけ離れた動機である、まぎれもない殺意だ。鳴瓢はもう一生、警察官であることはできない。慟哭のような咆哮が百貴の喉からあふれる。
    「うっ……ああああ!!」
     避けられた拳が虚しく空を切る。百貴のみぞおちに鳴瓢の膝頭が食いこみ、百貴は崩れ落ちた。
     鳴瓢はすぐさまその場で機動隊に取り押さえられる。
    「大丈夫ですか」
     と駆けつけた後輩に支えられて、
    「……ああ」
     と百貴は立ち上がる。肉体より精神の方がずっと深傷を負っていた。肩を担がれ、搬送されようとしたとき、
    「生存者だ!地下室に女の子がいたぞ!」
     のちに彼女の名前は飛鳥井木記と判明した。

     鳴瓢が独房内で自殺を図った、という噂を耳にした晩、百貴は、帰宅するなり焼酎の一升瓶を出して浴びるほど飲んだ。疲弊した体はすぐさま血中アルコール濃度をあげ、百貴はトイレで嘔吐する。
     胃内容物を吐ききってもまたかっ食らい、中毒症状があらわれる手前で眠気がきた。外着も脱がすそのまま畳のうえに仰臥する。
    食道から鉄臭い液体がこみあげてきて、面倒だったので床に吐き捨てた。粘膜上皮が嘔気で傷付いたらしく赤黒い血だった。生まれて初めて「死にたい」という欲求がつのった。
     遺族も、救えなかった後輩も、こんな絶望の淵に立っていたのか。自分が今まで、いかに安く「それでも生きてください」とのたまっていたのか知った。泥沼のごとき自責の渦中、抗うように百貴は、
    「……見捨ててやらねぇぞ」
     とひとりごちる。
    「お前も、世界中の誰も救えなくても、俺は絶対付きあって、つきまとってやる」
     疎まれようと、感謝されなかろうと、自己満足と理解していても、それが自分の贖罪であり正義だと確信した。かつて鳴瓢が自分を救ってくれた言葉に百貴はすがった。

     四日後、飛鳥井木記が病院を失踪したとの知らせが届く。さらにその四ヶ月後、
    「百貴くん、蔵の室長を務めませんか。君のような人材が必要なのです」
     当時公安部のトップを担っていた早瀬浦に声をかけられた。
    「全く新しい捜査方法を用います。現場で働くのは警察官ではなく、殺人事件の受刑者を登用するのです」
     渡された受刑者リストには「鳴瓢秋人」の文字が含まれていた。百貴は承諾し、その後一年間、刑事業務のほかにスタッフ集めへ奔走することとなる。
     また、忙殺されるさなか愛犬である百太郎が死んだ。日中庭で放し飼いにしていた隙に悪戯をされたのだと、家政婦が泣いていた。百貴は深い悲しみと憤りを感じたものの、やがては激務によって流されていった。
     番犬が殺されたことに百貴はもっと注視すべきだったのかもしれない。自分はいつだって、気付いたときはとっくに手遅れなのだ。
     何故なら二年以上後、二〇一九年十一月二日。百貴邸の庭の土中から白骨死体が発見されたのだ。
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