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    lelietje_

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    lelietje_

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    ツイステ垢の思い出⑦

    記憶喪失になった監督生の話なんだかお腹の当たりが重くて苦しい。その不快感で目が覚めた。
    「やっと起きたんだゾ」
    ぎしり、歯の奥が鳴った。寝起きの回らない頭で、ユウは懸命に目の前の生き物と似ている動物を探す。
    「た、狸が喋ってる???」
    「ふなっ! 狸じゃないんだゾ!!」
    水晶のような丸い目の、中心の青い瞳孔が大きくなって、耳から揺らめく炎が強くなった。タチの悪い金縛りか、落ち武者の代わりにヘンテコな生き物が仁王立ちしていた。胸元に輝く紫の宝石には寝癖の酷い私が写っている。
    「うっ重い。あ待って跳ねないで蹴らないで」
    「早く起きろ!」
    「いや無理だよ。絶対これ悪夢だもん」
    布団に潜る。目を閉じる。相変わらずお腹の上が重い。でもそんなの気にしないで、早く眠らなきゃ。次目が覚めた時はちゃんと……私のベッドはこんなに固かったかな、と思考が停止する。
    「そんなことよりお前早くしないと学校に遅れるんだゾ」
    ばっ、と布団を勢いよく剥がす。辺りを見回して目眩が襲う。イーゼルにウォールミラー、どう考えてもユウの趣味ではなかった。
    「……狸さん。ここどこ…………?」


    記憶喪失になった監督生の話




    「お前さんが寝坊なんて珍しい」
    ぎしぎしと鳴る造りだけは立派な階段を降りて、これまた無駄に広い談話室のような部屋に辿り着く。大きな窓の外に見える枯れた大木の枝が打ちつける槍に必死に抵抗しているその様子に、今日は雨かと気がついた。
    話しかけてきたのは帽子を被ったオバケ。幽霊ほどのリアリティもなく、愛らしくデフォルメされたその姿にユウは深く考えることを諦めた。さっきからずっとVRゴーグルを付けているみたいに、自分の視覚を疑っては頭も酔ってくる。
    「朝ご飯は食べたかい?」
    「食べてない、です」
    それを言うと彼らはどこかへ消えていった。まさかご飯を作ってくれるのだろうか。果たして食べて大丈夫なのか。遅れて声をかけようとしたその時、替わるように部屋のドアが乱暴に開けられた。その振動に思わずユウはその身を家具の影に隠した。
    「監督生、無事か!?」
    雪崩のように押し寄せてきたのは知らない男性2人と、あの狸だった。

    「ぐ、グリム、学校どうしたのさ……」
    「いやそんなん放ってお前の様子見に来たに決まってんじゃん」
    グリムと名付けられていた狸は、あのまま先に学校とやらへ送り出した。それが見知らぬ人を連れて戻ってきた状況を、ユウはすぐに理解出来なかった。
    「監督生?」
    「そんな所で何してんの」
    「猫みたいなんだゾ」
    2人の男性のうち、青髪の方がこちらに近寄って膝を立ててしゃがむ。目線が揃うと、彼の整った顔が良く見えた。吸い込まれるほど綺麗な青の瞳の横に、象徴的なスペードのマークが描かれている。
    「ユウ、体に異常はないか?」
    「あっはい! まだご飯は口にしてないので無事なはずです」
    「いやそれは食べた方がいい」
    「食べた方がいいの?」
    ユウが首を傾げると、交代だとというように赤髪の男性が彼の肩を押した。そうして同じようにしゃがんだ彼の透き通った紅い目の横には、大きなハートマーク。
    「お前、俺の名前覚えてる?」
    「? 初めまして、ですよね」
    「こいつは?」
    「初めまして……です」
    ゆっくりとお辞儀をすると、青髪の彼もつられたように小さく頭を動かした。
    「お前さ、記憶喪失でしょ」



    「あー、うん。つまり監督生は、こっちの世界に来てからの記憶だけ抜け落ちてるって訳ね」
    赤髪……エースくんと、青髪……デュースくんとモンスターのグリム。
    「多分そう」
    「厄介なことになったな……」
    「なー」
    「面倒くさい奴だゾ」
    背の高い男性2人とグリムの影が伸びる。それが余計にユウの体を縮こませた。
    「とりあえずユウはソファの裏から出てこいよ」
    「猫みたいで可愛いけどな」
    「……私は2人の顔のアザ、おかしいと思う」
    「アザじゃねーよ、化粧!」
    目の横に描かれたハートとスペード。一見すれば彼らもテレビや雑誌を飾るモデルさんのようにイケメンなのに、どうもその独特なお化粧のせいで芸人のコントみたいだ、とぼんやり思う。そういえば今日は何曜日だったっけ。続きの気になっていたあのドラマは、ちゃんと予約してたかな。
    「ユウ〜聞いてる?」
    「あ、ごめんなさい。ぼうっとしてた」
    「ったく。とりあえず先生に相談して、学校は休ませてもらおうぜ」
    「そうだな。きっと配慮してくださると思う」
    「言葉で説明するのは面倒だ。こいつが学校に行った方が早いんだゾ」
    なんだかおかしな時間が流れる。自分のことを、見知らぬ彼らが相談している。
    「それもそっか。よっしゃ監督生、今から学校行くから着替えて」
    「えっ? 学校って、私も通ってるの?」
    「当たり前だろ? ここだって学園の敷地内だ」
    彼らの着ている制服をまじまじと見つめる。どうやら学生というのは本当のようだ。
    「あっ。もしかして着替えらんない? 手伝ってやろうかあ?」
    「そこまで記憶なくしてないって!」
    セクハラ。

    「あー、そう。ここ男子校だから、制服に違和感あると思うけど」
    「え」
    「ん?」
    とぼけた表情で爆弾を落とすエースに、ユウは固まるしか無かった。
    「えっと、エースくん」
    「うわ気持ち悪。呼び捨てでいいって」
    「……エース。私、女、だよね?」
    「性別は変わらないでしょ」
    「そうだよね」
    「ユウ、話し方が崩れてきたな」
    「あっごめんデュースくん」
    「呼び捨てでいい」
    「……デュース。えっと、同い歳っぽいし、良ければこのままでもいいかな」
    「……? もちろんだ。そっちの方がユウらしい」
    彼らから伝わってくるのは、信頼、友情、親愛。記憶をなくして、今さっき出会ったばかりのユウにはどれも返せそうになかった。ぎこちなく、それっぽい振る舞いを心がけることしか出来ない。
    心が、どこか引っかかる。外の雨が、僅かに空いた窓の隙間から漏れてきては歪む床を濡らしていた。


    「ねえ、ひとつ聞かせて」

    窓の下の床はもうダメだ。きっと腐るだろう。インクを零したようなそのシミは、なにかに似ていた。

    「私と、貴方たちの関係はなんだったの?」

    デュースが大きく口を開ける。それを遮るようにエースが早口で淡々と言い切った。
    「ただのクラスメート。それ以上でも以下でもない」
    「そう……なんだ」
    唾を飲み込む。肩が僅かに脱力した。




    ひとまず学園長室に駆け込んでしばらく事情を説明したあと、ちょうど休み時間になったタイミングで他にも数名の先生が集合した。ユウは終始オドオドしていたが、すぐ隣に立つ、歳上にさえ敬語を使わないグリムがどこか心強く感じた。しばらくして、エースとデュースのみが授業に参加するために退室させられる。
    「エース。なぜ嘘をついた」
    授業の合間の休み時間も終わって、次の始業を告げるチャイムが鳴り響く。それをエースとデュースは中庭に続く廊下で雨宿りをしながら聞いていた。しとしとと雨が降り続いている。
    「いつの話?」
    「とぼけるな。ただのクラスメイトだなんて思ってもないくせに」
    「嘘でもないだろ。事実、クラス一緒なんだし」
    「でも僕らは、それ以上にいつもつるんでいる仲じゃないか!」
    「何熱くなってんのデュースくん。寒いんだけど」
    「お前は! ユウに記憶を取り戻して欲しくないのか!?」
    「取り戻して欲しいよ!!!」
    バサバサと近くの木からカラスが飛び立った。
    「取り戻して欲しいさ。けどあいつ自身が、記憶が戻ることを望んでるとも限らねえだろ?!」
    「どういうことだ」
    「……いや、なんでもねえ」
    デュースが静かにエースを見つめる。天を仰ぎ、頭をがしがしと乱暴に掻いて、なにか言おうとした口を引き結んで、エースは結局その視線から逃げた。
    「…………僕は本当のことを話す。そうした方がユウだって思い出しやすいだろうから」
    何も答えられなかった。



    「どうだった学校?」
    先生たちと話した結果、暫くはそのまま様子見となったユウは、ひとまず校舎内を探索している。
    「なんとなく把握したけど、1人で歩くのは無理かも」
    「あっちこっちに部屋があって難しいよな」
    メモはとったが、なにせ複雑に階段や廊下が入り組んだ迷路のような造りのNRCは、初見のユウにはお城のように感じられた。全体の見取り図が欲しい、そう思ってしまうほど。
    「……これからは“ここ”が私の居場所になるんだね」
    言葉にしても実感は伴わなかった。まだ夢を見ているような心地だった。
    雨音がそんな私を笑っている。汚れた雲がゆっくりと動いた。
    「白兎のニーア……」
    「誰?」
    「あっ、えっと、私の通ってた小学校で飼育されてた兎なの。模様がちょっと不細工で、あの雲に似ているなって思って」
    導かれるように腕を伸ばした。指先が雲に届いた気がした。
    「名前呼ぶとこっちに来るんだよ」
    エースが顔を背ける。デュースが切なそうに笑った。
    2人の正反対で曖昧な態度に、それでもユウは勘づいていた。ただのクラスメイトだなんて嘘だ。あの時エースは私が気負わないように、私の欲しい答えをくれた。本当はもっと親密な関係だなんてこと、はじめに2人があの古い家に押しかけてきた時点で分かっていた。
    「それで? 続けて」
    「……食いしん坊な子でまるまるとしててね。流石にグリムよりは小さいんだけど」
    「オレ様はもっとビッグになるんだゾ」
    「そうなの? 今ぐらいが愛嬌あっていいけどなあ」
    ニーアとの日常は突然終わった。元々高齢だった彼は、麗らかな西日で眠ったまま亡くなっていた。ユウはそこで初めて「永遠の別れ」を経験した。とても昔の話だ。そこまではエースたちには話さなかった。
    授業終了を知らせるチャイムが響く。途端に教室を飛び出す生徒、それを叱る先生、複数人で談笑しながら歩く生徒で外の雨音はかき消された。
    「昼休みだな。僕達も食堂に行こう」
    「うん」
    雲を見て兎を思い出すなんて、能天気だと思われただろうか。それでも確かに、ユウにとっては忘れたくない思い出だった。あの日の帰り道、知らない人に泣き顔を見られるのが恥ずかしくて、私は涙を押し殺して帰宅した。流しそびれた追悼の涙が、今この空に降っているようだった。



    時間が経つにつれ勢いが増した雨はオンボロな建物を容赦なく攻撃する。長い廊下は外と同じくらい冷えていた。
    「ユウ、タオルない?」
    「はい、これ……ってあれ?」
    足は自然と洗面台へ向かった。タオルがどこにあるかなんて今のユウが知るはずもない。それでもユウの手はしっかりと人数分のタオルを握んでいる。
    「思い出したのか?」
    「というより、体が覚えてたってカンジじゃない?」
    「そう……なの?」
    3人で何の変哲もない白いタオルを見つめる。
    「とりあえずサンキュ」
    エースがそのタオルを奪うと、湿った髪や濡れた肩口を適当に拭いていく。
    「デュースも、あげる」
    「あ、ああ」
    私は本当にこのオンボロな寮で過ごしていたらしい、その実感を初めて味わった。

    「そうだ、2人はどこに寝泊まりしているの?」
    談話室に集った4人は、ソファにゆったりと腰をおろした。今朝のゴーストたちはどこかに息を潜めているようだ。
    「ハーツラビュルっていう寮。行ってもいいけど、空き部屋ないから窮屈だよ」
    「僕達も4人部屋で毎日キツキツだよな」
    それは……どうもこの寮とは正反対の様子に、ユウは目を丸くした。
    「そうだ、寮長には既に話して、帰りが遅くなることは伝えた」
    「流石に泊まりはしないけど、夕飯くらいまでは一緒にいてやるよ」
    なんてことない友達との時間を彼らは作ろうとしてくれている。
    「ふふ、助かる」
    ただのクラスメイトでここまで尽くしてくれる友人はいないよ、とユウは心の中で笑った。今朝濡らした窓の下の床は焼け跡のように黒ずんでいる。
    例え彼らと親しい仲だったとしても、記憶のない現状では会話も上手く続かない。結局思い浮かぶ話題はユウの元の世界の話だった。
    「そういえば私、雨の日に猫を拾ったことあって」
    「へえ。飼ってたんだ」
    「そうでもないかな。拾った時にお気に入りのリボンを首輪代わりに付けてあげたんだけど、翌日にその子逃げちゃったから」
    「首輪泥棒だな」
    「本当にね。……生きてるかな。また会いたいな」
    答えるように雨の勢いが更に強くなった。床の補強はまた明日にしよう。湿った空気を追い出すように、カーテンを勢いよく閉める。
    「雨の思い出多くね?」
    「えっ?」
    後ろからしたエースの声は、至ってこちらをからかうような口調だった。照明が一瞬チカチカと点滅した。
    「昼間話してた……ニーアだっけ、学校の兎の話といいさ。雨で色々連想しすぎ」
    「確かにだゾ」
    「おまけに動物の話ばかりだな」
    可笑しそうに笑う3人とは反対に、なぜかユウは鳥肌が止まらなかった。雨で冷えた体は更に芯から凍った。血色をなくした顔は青白く、まるでガラスの彫刻のように固まった。
    「ねえ3人とも。ニーア……って、何の話?」




    「……は? 何言ってんのお前」
    エースが窓の方を指さす。薄汚れた白色のカーテンがただ垂れ下がっているだけのそこを見て、埃っぽいなあと他人事のように思う。
    「空の雲と似た模様の兎がいたって、監督生が言ったんだけど」
    ユウは少し考え込む素振りをして、けれどすぐ困ったように笑った。鳥肌は収まっていた。自分よりも焦った様子のエースを前にして、冷静さが戻ってきたようだった。反対に、やけに落ち着いたユウの行動は、むしろ頭が可笑しくなったのがエースの方だと錯覚させた。発言した側が言っていないというのなら、証拠も持ち合わせていない今、その正解はどちらとも言えなかった。
    「まあ、ど忘れなんてよくある話だ。それよりユウ、トレイ先輩がケーキを差し入れてくれたんだ。食べるか?」
    「は?」
    話を変えたデュースに応えたのはエースの軽蔑した声だった。正気か、と続けようとしたセリフは目を輝かせたユウによって遮られた。
    「すごい本格的なケーキだね」
    「先輩曰く、味覚からこっちの記憶が戻るかもしれないから、と。お前はザッハトルテが特に好きだったんだ」
    デュースは握っていたケースをテーブルに置いて、次々とケーキを並べていく。マロンタルト、チーズケーキ、チェリーパイ、いちごのタルトレット。ザッハトルテはユウの前に置かれた。チョコレートの濃厚な香りが鼻腔を擽る中、エースがデュースの肩を掴んだ。
    「なんだ。エースの好物だってあるだろ」
    紺碧の瞳と深紅の瞳が交わる。
    「そうじゃないよな?」
    「……言ったはずだ。僕は本当のことを話す。そして僕らのことを思い出して貰うんだ」
    窓を弾く雨音が無規則で不安定なリズムを刻む。
    目の前の一触即発の空気と、甘い香りを漂わせるスイーツ。視覚と嗅覚が喧嘩を起こして、ユウはとっさに隣にいるグリムのしっぽを掴む。避けられたそれは反射的に彼女の手の甲を叩いた。
    「なあ監督生」
    突然の火の粉に肩をびくりとさせた。エースの目が、業火のように尖って見えた。
    「お前なんでこっちの記憶失くしたの?」
    「あ……えっと、なんでだろう」
    「やめろエース。怖がってる」
    「デュースは黙れよ。こっちが正直に言うなら、そっちだって隠さず話せよ。お前、記憶戻したいと思ってる?」
    カーテンで隠したはずの重い空気が再び流れ込んできた。味方をしてくれたデュースまでも、今はまじまじとこちらの返答を待っていた。
    「それは……その……」
    なにか答えなきゃ、そう思うほど口の中が乾いて声が出なかった。エースの掴むグラスに反射した私は、酷く情けない表情をしていた。
    「ユウさ、自分じゃわかんねえだろうけど、前のお前より元の世界を恋しがってんだわ」
    「え?」
    「お前の学校の話とか、猫の話とか、初めて聞いたし。前のお前、全然自分のこと話さねえんだもん」
    言われて、心当たりが無いはずなのに、ユウの体は固まったまま動かなかった。脳の奥で何かが崩れる音がした。
    「やめろエース。ただでさえ記憶を無くして混乱してるんだ」
    「じゃあデュースに聞くけど、ユウが兎の話を覚えてないって言った時、どう思った? 明らかにおかしいのに、どうしてそのままスルーしようとした?」
    「忘れたなら仕方ないだろ」
    「矛盾してんじゃん。兎の話は仕方なくて、俺らのことは思い出して欲しいって? お前、あいつの世界の話をユウが忘れて、安心したんじゃねえの? 元の世界の話なんて聞きたくないもんな! ユウが元の世界に帰るなんて、そんなの信じたくねえもんな」
    「いい加減にしろよ!!!」
    空気が震えた。鼓膜がビリビリと痙攣する。一瞬のことだった。デュースは拳を固く握り、エースはそんな彼を睨みながら左頬を抑えている。
    「…………帰る」
    乱暴に扉を開けて、濡れるのも構わずエースは出ていった。残されたデュースとユウは無言のまま、テーブルの上のケーキを見つめていた。
    「ごめん」
    古い扉はさっきの勢いでネジがおかしくなったようで、ぎしぎしと悲鳴をあげながら開閉を繰り返していた。忘れられたエースの赤い傘がそのたびに顔を覗く。短く謝罪の言葉を呟いて、デュースも目を合わせないままオンボロ寮をあとにした。
    「ねえ、グリム」
    「なんだゾ」
    「食べていいよ、全部」
    半ば放心状態のまま、ユウは談話室を出て階段をかけ登った。ザッハトルテの残るような甘い香りが絡みついてきて吐きそうだった。



    次の日、エースとデュースは一言も口を聞かなかった。分かりやすいその態度は、クラスの雰囲気を最悪にして、一緒にいる私とグリムも居心地が悪かった。
    チャイムが鳴ってトレイン先生がルチウスを抱えて教壇を下りた。次の教室に移動しようとユウもグリムを肘でつついて起こす。鼻ちょうちんが破れて、しっぽの先がゆらゆら動いた。
    「ねえこっち来て」
    無愛想な声とともに反対側の腕をエースに掴まれると、彼はそのまま何も持たずに教室を飛び出した。
    「ちょっと、エース、速いって」
    遠慮のない足取りは歩幅の違いを明確にして、彼はこれまで私の速さに合わせてくれていたんだと気がついた。もつれる足をどうにか動かして、辿り着いたのは学園の外にあるメインストリートだった。
    「俺、ここで初めてユウに話しかけたの、覚えてる?」
    見慣れない像が並ぶこの通りは、何だか気味が悪くて、今朝も早歩きで抜けた場所だ。
    「ごめん、分かんないや」
    「これはハートの女王。規律の乱れを一切許さない、厳格な女王。国民の誰もが彼女には絶対服従した」
    「待って、何の話?」
    「かつての偉人。この世界で知らない人は居ないね。なあユウ、有名なナゾナゾを教えてやるよ」
    「ナゾナゾ?」
    「ああ。カラスと書き物机はなぜ似ている?」
    「カラス……?」
    「そう。狂ったお茶会は狂ってると思うか? 帽子屋はなぜ迷い込んだ少女を引き止められなかった? 少女はなぜ夢から覚めた?」
    「な、なんの話」
    掴んだ手にぎゅっと力が入った。角張った大きな手は骨が薄く浮きだっていた。
    「俺さ、ユウに帰って欲しくないの。でも、ユウが帰りたいなら止めねえよ。だから教えて、こっちの記憶失くす程、お前そんなにこの世界が嫌?」
    風が吹いて草木が揺れる。生命溢れる緑の香りは、ユウの知らない匂いだった。
    「……ごめん、分からない。でも今の私は帰りたいかな。エースの話してくれたこっちの世界の偉人とか伝説とか知らないし、喋る狸や魔法も空想の物語だし、こっちのこと、何も知らないから」
    「じゃあ多分、それがお前の本心なんだわ」
    記憶を失くしたお前から聞くとか変な感じ、そう言ってエースが私の腕を放した。元の私はそんなに彼らを頼りにしていなかったのだろうか。記憶喪失の私をここまで甲斐甲斐しく面倒見てくれる彼らに、私は心を閉ざしていたのだろうか。自分に問いかけても、その返答は帰ってこない。もやもやとする気持ちは、久しぶりの晴天には似合わなかった。




    「エース、ユウ! ここにいたのか」
    不揃いの足音と向こうから走ってくる人影が見えて、その声と、特徴的なフォルムに、デュースとグリムだと分かる。
    「昼メシの時間なんだゾ。何も食べずにお前らを探したオレ様に感謝しろ!」
    「授業サボって何をしてたんだ」
    「別に。デュースには関係ねえじゃん」
    「ああ僕には関係ないな。僕もエースの言い訳は聞きたくない。だけどユウ、お前には謝りたいんだ。昨日はその、すまなかった」
    「えっ?!」
    まさかこっちに頭を下げられると思っていなかったユウは大きな声をあげる。
    「ずっとあれから考えてたんだ。僕は確かに、お前が元の世界の話をするたびに、ちょっと焦ってた。そのまま僕らのことを忘れて消えてしまうんじゃないかって怖かったんだ」
    太陽は相変わらずこの世界に光をもたらしているのに、誰かの涙のような雨がぽつぽつと降り始めた。アスファルトの地面と立ち尽くす7つの像を色濃く染めて、それでも光を反射してはダイヤモンドのように輝いた。
    「間違っていたんだ。僕はユウの世界も受け入れた上で、こっちの世界を選んで欲しい。そう気づいて、だから考えた」
    雨が髪と肌と服を濡らしても、誰も気にしなかった。自信満々にデュースが胸を叩く。
    「白兎のニーアはいないが、馬や牛ならこの学園にもいる。拾った猫だってきっとどこかで元気にしているさ。僕らにはグリムがいるだろ!」
    捲し立てる勢いに圧倒されて、誰も何も口をはさめなかった。温かい雨が、軽快なリズムを刻んでいる。
    「何言ってんの……お前」
    天気雨はすぐに止むんだって誰かが教えてくれた。そんなこと、今となっては誰でも構わない。
    「ふふっ、兎の代わりに馬? 猫の代わりにグリム?」
    デュースの真剣な表情が余計に笑いを誘った。抑えることをやめたユウは、何かがふっ切れたように大きく口を開けて吹き出した。
    「あっはは、おかしい。とっても狂った提案だね」
    エースも仕方なさそうに溜息をついた。猫代わりされたグリムは地団駄を踏んでいるし、デュースは笑われる意味が分からないと目を見開いている。
    「それでも案外悪くない提案かも」
    空を見上げる。この雨が、全ての不安を溶かしてくれるようだった。

    おそらく記憶を失くす前の私が元の世界の話をしなかったのは、彼らを頼りにしていなかったからではない。何も語らなかったのは、私自身がその世界と決別しようとしていたのではないだろうか。
    「うん、そうだよね。知らないことを怖がる必要はないんだ。新しい環境になれば、知らないことだらけなんだもん。そんなの、どの世界でも一緒だ」
    声に出せば、自分の中で導き出すべき答えがクリアになった気がした。
    「エース、さっきの答え訂正してもいい? 私、この世界のこと何も知らないけど、だからこそこの世界が好きだよ」
    「ああ、俺も訂正する。監督生が帰りたいって言っても、帰さねえよ」
    雨で湿った髪が顔に張り付く。それでもユウは自然に笑えていた。
    「ねえエース、私たちってどんな関係なんだっけ」
    意地悪にかつての質問を投げかければ、隣のデュースがはっきりと宣言した。
    「僕たちはマブだ!」
    「マブ……そっか、親友なんだね。今の私はその自覚も無いけど、それでも友達でいてくれる?」
    「今更じゃん」
    エースの無骨な手で頭をもみくちゃにされる。抑えられるように下を向けば、グリムが偉そうに白い歯を見せていた。
    人は人間関係が大切だって、それも誰かが言っていた。こんなにも親しくしてくれる彼らがいるなら、ユウの居場所がこの世界に出来た証拠となる。
    今なら自信を持って言える気がした。きっとこの記憶喪失は、元の世界を恋しがってのものじゃない。むしろ、元の世界への未練を断ち切るための機会だったのではないかと。全てを忘れて、あの世界とお別れをしよう。

    雨なんて、湿気で髪の毛が言う事を聞かなければ、傘をさして出かけなくてはいけないし、憂鬱な気分の象徴だと思っていた。元の世界では雨の日に特別な思い出なんて無かったけれど、きっとこっちの世界では素敵な記憶が紡がれるのだろう、心のどこかでユウはそう期待した。顔を上げる。雨粒が大きくなってきた。それでも太陽は輝き続けている。もう少ししたら虹がかかるかもしれない。7色のそれは幸運の象徴で、1色増えたらイレギュラーと呼ばれるだろう。それでもきっと綺麗なはずだと、ユウはオンボロ寮のある方角を振り返った。
    「解決したなら早く食堂に行くんだゾ!」
    グリムが先に駆け出していく。
    「ほら監督生、ちゃんと監督しないと」
    「それとも手伝って欲しい? ランチがお前の奢りになるけど」
    エースとデュースが、ユウの背中を優しく叩いた。どんどん遠ざかっていくグリムの背中は、ストライプのリボンだけが存在感を放っていて、その黒と白に何故か意識が囚われた。追いかけようとして、からりと何かが落ちたそれを拾おうと下を向いて、ユウはそのまま雨に押されるように地面に倒れ込んだ。予告通り、空には虹がかかっていた。



    誰かの話し声が意識を覚醒させた。次いで薬品の匂いと身体を包む柔らかい布団の感触が蘇る。瞼の裏が赤い。ゆっくりと目を開けば、話し声は更に大きくなった。
    「ユウ、目が覚めたか!」
    「は〜心配かけさせんなよな」
    「この指何本か分かるんだゾ?」
    状況は飲み込めなかったけれど、それでも見慣れた友達の姿に笑みがこぼれた。
    「グリムの指の本数なんて、難問だなあ」
    辺りを見回す。学園の保健室だとすぐに分かった。
    「ユウ、記憶戻った?」
    エースがこちらをじっと見つめた。
    「えっ、そうなのか? 僕のこと分かるか?」
    デュースがベッドに身を乗り出した。
    「記憶……っていうのは分からないけど、デュースのことは知ってるに決まってるでしょ。保健室で目を覚ますなんて、マジフト大会以来だね。今回はどういう状況?」
    おでこがひりりと痛んで、痛覚も戻ってきたようだ。ユウは崩れた髪を指で梳いて、まるで自身に降りかかるトラブルには慣れたかのように笑った。
    「なるほど」
    エースは一人理解したように立ち上がった。
    「記憶は戻って、反対に記憶喪失の間の出来事を忘れてるって訳ね」
    「どういうことだ?」
    「昨日と今日の今までの記憶はユウには無いってこと」
    手袋をしていない方の手が微かに震えているように見えた。隣ではデュースが混乱したように頭を搔く。
    「つまりどういうことだ? ユウ、昨日は雨だったよな? 僕たちのことを忘れて、顔のスートのことをアザだと言ったよな? お前はニーアって兎を学校で飼ってて、捨て猫に首輪を盗まれたよな? グリムを追いかけて、お前は転んだよな?」
    並べられた言葉が一つも理解できなくて、ユウはおかしそうに笑った。まるでデュースが夢でも見ていたかのような反応に、彼は余計にあたふたする。残念ながら証拠がない以上、その正解はどちらとも言えなかった。
    「エース、どこ行くの」
    挙動不審のデュースから視線を外して、保健室の扉に手をかけたエースを追う。
    「職員室。一応先生呼んでくるよ」
    振り返ることのないその背中は、まるで何かの緊張から解放されたように肩の力が抜けていた。



    きっとこの世界で私は明日も目を覚ます。雑用係としてグリムとペアを組まされた時、シャンデリアを壊した時、他の寮をお邪魔して、沢山の人の悩みを覗いた時、ユウは自分の生を感じた。異世界で、自分は今を確かに生きている。ここは夢の世界では無いのだと、自分の作りだした妄想でも、不確かな蜃気楼でも無いのだと実感できた。いつかは元の世界に帰らなければいけない。それでも例えば、選択できるのなら、こちらの世界を選びたい。そう昔より断言できるようになっていた。
    廊下を4人並んで歩く。
    「結局、ユウの記憶喪失の原因って何だったんだろうな」
    「私、記憶失くしてたんだ?」
    「そうだよ! まったく、人がすげえ世話してやったのに呑気に全部忘れやがって!」
    「心配してくれてありがとう」
    エースの顔を覗き込むと、彼は気まずそうにその目を逸らした。
    「保健の先生は、一時的な記憶喪失は精神的な理由のものが多いと言っていたな。なにかストレスでもあるのか?」
    ユウの歩幅に合わせられた彼らの足並みは、その股下の長さに似合わず一歩が小さかった。ユウが小さく唸る。トラブルは多いけれど、ここでの生活を苦痛だと感じたことはない。なにより、何かあってもこうしてエースとデュースとグリムが一緒にいてくれた。毎日が忙しくて、トラブルメーカーの私たちは学生としての日常を謳歌しているのではないだろうか。それはもう、元の世界なんて思い出す暇もないくらいに。
    「そうだユウ、有名なナゾナゾを教えてやるよ」
    「ナゾナゾ?」
    「そ。カラスと書き物机はなぜ似ていると思う?」
    顔を合わせたエースの目が細められた。目の横のハートマークが綺麗な形を見せた。
    「似てるかなあ」
    ユウが首を捻る。長い前髪がはらりと大きな瞳にかかった。
    「ああ、それなら僕も知っている。どちらも……」
    「まあまあ、ユウの答えを聞こうぜ。グリムは分かる?」
    明るい声をあげたデュースは胸を張って、スペードのスートは照明のせいか普段より色が薄く見えた。
    「聞いたことも無いんだゾ」
    つまらなそうに答えたグリムの首に巻かれたリボンがなびく。歩くたびに揺れるしっぽが振り子のようだった。
    ここから再び始まる、なんてことない異世界での日常を刻んでいるようだった。
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