遺失物取扱所-5「今年も来た……」
「お元気そうで何よりですが」
名取の頭の上までよじ登った猫がぶるぶる震えていて、名取もため息をついた。
元は陶器だと自分で豪語する猫は大きさに見合ってそれなりに重い。その重さと硬さで頭の上で震えられては首を痛めそうだ。下りて欲しいのだが、名取にがっしりと張り付いた猫は簡単には離れそうにない。
震える猫が見つめる先で多軌と田沼が七瀬と談笑している。一年ぶりの再会に話が尽きないのか、楽しそうに七瀬と手を繋ぎ話し込んでいる様子の多軌は猫の存在にまだ気付いていないが、所詮時間の問題だ。すぐ大喜びで駆け寄ってくるだろうと名取にもわかる。
猫の恐怖が近付いているのはよくわかっているが重いものは重い。
「先生、重いんですが……」
「我慢しろ小僧! 私がどうなってもいいのか!」
「どうもならないよ、名取さんしゃがんで」
「はい」
「ああっやめろ!」
猫の悲痛な叫び声を無視して言われた通りにしゃがむと、夏目が無理やり猫を引き剥がしてくれた。
勢いよく夏目に引っ張られた猫は虚しく名取から剥がされて振り回されている。せめてもの抵抗にか爪を出していたのが見えて、引っかかれる前に剥がされて良かったなとほっとした。
ふぎゃあと情けない猫の鳴き声が聞こえたのか、多軌がばっと振り返った。
「せんせー!!」
ぱあっと花が咲くように愛らしく笑った少女が走り出してくる。その姿だけ見ていればとても可愛らしいのだが、部屋にしまわれたままの手紙を思い出してしまうと名取にも少しばかり恐怖心が蘇った。とは言っても多軌が走って目指す先は名取ではないのでまあいいかと安心しているが。
「せんせい! 会いたかった!!」
足元から光を撒き散らして走ってきた多軌が夏目が握っていた猫を素早く奪い取る。怯えた猫の悲鳴が一瞬聞こえたが、すぐに潰されたのか聞こえなくなった。
ぎゅうっと猫を抱き締めた多軌はとても愛らしい。幼さ故の可愛らしさや少女らしい可憐さに加え、人とは違う神秘を纏った美しさを抱えているのだと改めて気付く。
しばらくぶりに再会した神の子供たちは、皆が皆、美しく愛らしい。きっと名取の知る子供たちばかりではなく、神の子供とは誰もがそうなのだろうと改めて思う。
だから、夏目だけが殊更に花のように美しく在るわけではない。夏目だから愛おしく思えるのではなく、神ならば愛らしく思えるものなんだろう。
きっとそう出来ている。
「夏目ー、元気だった?」
「うん、元気」
七瀬の着物の袖をしっかり掴んでゆっくり歩いてくる田沼も相変わらず可愛らしかった。
にこにこ笑いながら嬉しそうに七瀬を見上げている彼は、以前に会ったときの様子とあまり変わりなかった。見ると、急に背が伸びた夏目とは違い、二人は以前より然程大きくなっている様子はない。姿かたちだけではなく口調も気配もまだまだ幼さを残していて子供らしい。
夏目だけが成長している。
「夏目、すごい背伸びたんじゃないか?」
「うん、最近すごい大きくなった」
「成長期? おれまだ全然伸びないよ」
「これからじゃないか?」
「ええ、これから大きくなられますよ」
「いいなー、早く伸びたい」
名取の疑問は田沼も感じていたようだ。
少し不服そうに夏目と背比べをする田沼に比べ、夏目は確かに背が高くなっていた。去年会った時には田沼のほうがずっと大きく見えたが、今は夏目のほうが少しばかり大きいくらいだ。
まだ細いながら背丈が伸びた夏目は少しだけ二人より大人びた雰囲気になっている。
ここ最近成長期かとちょくちょく問われた理由がやっとわかった。いつも一緒にいる名取にはあまり感じ取れないが、確かに二人の幼子と比べると夏目だけが大きくなっている。
「多軌は背伸びた?」
「あんまりー。ほんとだ、夏目くんだけ大きくなったね」
「なんか急に伸びた」
「夏目様は少々お早いのですよ。さて、お二人とも一度大社に参りましょう。斑様をお離しいただけますか」
「うう……離してくれ……」
呻いた猫に七瀬が手を伸ばすが、多軌はへにゃりと眉を下げて猫を抱いたまま七瀬から逃げようとした。その表情も仕草も愛らしいが、猫をより一層強く抱き締めているため猫は既にぐったりしていた。
「七瀬さん、先生も一緒じゃだめ?」
「斑様がよろしければ」
「先生、一緒に行こ!」
「嫌だ、離せぇ……」
「せんせえ〜」
「だから情けない声を出すな……」
ぐったりした猫の声を離さずに悲しそうにしている多軌に田沼が手を伸ばす。よくそうしているように、ぽんぽんと優しく多軌を撫でた。
「またすぐ戻ってくるし、しばらくこっちで一緒なんだから。いったん夏目に返して」
「はぁい……」
「先生、そんな落ち込むな」
「落ち込んでいない……」
しゅんと俯いた多軌が名残惜しそうに夏目に猫を戻した。ぐったりした猫を雑に肩にたすき掛けしている夏目と、正反対に悲しげな多軌と、にこにこ笑う田沼が並んでいるのがどこか懐かしい。
「七瀬さん。さっき的場さんには会ったけど、でも大社行くの?」
「ええ。お手数ですが現当主がご挨拶を、と」
「おじいさん? 久しぶりだなあ」
「今年には完全に引退する予定でございまして。今までの御礼を申し上げたいと」
「そうなんだ。来年は的場さんが当主なんだねえ」
「はい。これからもどうぞご贔屓に」
「いろいろ変わるねえ」
「ねえー」
幼い子供たちが代わる代わる七瀬に話しかけている。絶え間なく続く取り留めない声にも彼女はひとつひとつ穏やかな返答を返していた。
柔らかい表情で三人を見る彼女はいつもよりずっと優しげな雰囲気を漂わせていて、とても嬉しそうに見えた。
「そういえば夏目くんもそろそろ東国に下るのよね」
「うん、そう」
「そっか、遠くなるけど毎年十月にはまた会えるからな」
「うん」
頷きあう子供たちをひどく愛しそうに眺めていた七瀬が顔を上げる。ふっと表情を変え、子供たちには向けたことのない少しだけ意地悪い笑みで一瞬だけ名取を見てから、衣服ごしにそっと子供たちの肩を叩いた。
見上げて来る子供たちにあっという間に笑顔になった彼女に一瞬息が詰まる。
「さ、参りましょう」
「はあい」
「待ってー、七瀬さん」
「お待ち申し上げておりますから。そんなに両方から掴まれては着物が伸びてしまいますよ」
「つかんじゃだめ?」
「いいえ」
「良かったー」
「夏目、後でなー」
二人にしっかり着物の袖を掴まれて、七瀬はとても幸せそうに見える。振り返って夏目に手を振った田沼も、七瀬を見上げたままの多軌もとても楽しそうだ。それだけで、きっと三人の子供たちを育て上げた日々は忙しくも楽しく幸福だったのだろうとわかる。
けれどその子供たちのうちの二人は神域をとうに離れ、夏目ももうすぐ神域から出て行く。
七瀬もさみしくなるのだろうか。名取のさみしさと変わらずに。
「うう……苦しい……」
「もう大丈夫だろ、先生」
振り向くと、まだぜえぜえ深呼吸している猫を抱っこした夏目の頭の位置が明らかに高くなっていることに気付く。
この前測ったときよりもまた背が伸びているようだ。
「また伸びたね、背」
「そうですか? 田沼と多軌はそんな変わらないけど」
「そうだね。夏目だけ伸びたね」
「やっぱり? また柱に印付けたいな」
そう、名取を見上げて笑う表情も以前とはまた少し変わった気がする。
幼い子供ではなくなり、どこか大人びて見えた。
「今、印つけに行っていいですか? 多軌と田沼が戻る前に」
「うん」
「ありがとうございます、ちょっと先生持っててください」
ぐったりしたままの猫を差し出されて受け取ると、猫は全てのやる気をなくした様子でだらりと伸びた。
もうすっかり呼吸は戻っているはずだが、多軌に絞められ続けて疲れ果てているらしい猫はさっきよりずっと重い。面倒になって夏目と同じように抱っこではなくたすき掛けにして肩に担いだ。
雑な扱いだが猫は抵抗する気力もないらしい。名取の肩で伸びたつるふかの猫を何となしに撫でながら、ぺたぺたと建屋に戻る夏目の後をついていった。
「そうだ。さっきも言ってたんですけど、十五になるちょっと前に神域から出て東国に行くことになりそうです。塔子さんたちが待っててくれてるので」
ふっと夏目が振り返る。
多軌に問われた言葉をまだ報告していなかったと言いたそうに名取に告げ、どこか嬉しそうに笑った。
それだけで心臓が跳ねる。
「うん、そう、だね」
「神域を出るときは名取さんが昇格するように頼んでおきますね」
笑った夏目はひどく幸せそうだ。
柔らかに、嬉しそうに笑う夏目をどうしてか見ていられなくて、思わず肩に乗せた猫を撫でるのに気を取られている振りをしてしまう。
どうしてか夏目を見られない。何も変わったことなんてないのに。
最初から何も変わらない、前提は覆されない。いつか二人で過ごす日々に終わりが来て離れてしまう。そんなことよくわかっている。
わかっているのに、どうしてか呼吸が浅くなる。
「あともうちょっとですけど、最後までよろしくお願いします」
「……うん、よろしく」
うまく頷けていたかわからないが、どこか浮かれた夏目は名取の様子など気にもしていないようでそれだけはほっとする。
いつか離れることはわかっていた。でも離れたくないと今になって強く思ってしまう。
どうして離れたくないんだろう。
「おはようございます。お誕生日、おめでとうございます」
起き抜けで後ろ髪を跳ねさせたままの夏目が告げた声にひどく驚いた。眼を見開いた名取にしてやったりと思ったのか、夏目が得意げに笑う。
そうだ。夏目に教えた自身の誕生日は今日だ。すっかり忘れていたけれどひとつ歳をとったんだ。
「あ、りがとう」
一瞬言い淀んだ名取の途切れた声に何の疑問も抱いていないかのように、ふわふわと楽しそうに笑いながら夏目が手を伸ばす。名取の着物の裾を掴んで引く仕草はとても嬉しそうで、心臓が跳ねる気がした。
「名取さん、いくつになったんですか」
「二十二、だよ」
「最初に会ったときっていくつでしたか?」
「二十歳。二年も経ったね」
「早いですね、ええと……」
指を折ってひいふう、と数える仕草はまだ子供らしい。数の数え方は幾度も教えたし、そらで頭の中だけで数えることだってできるはずなのだがわざわざ指を折って数えている様子に息をつく。
確かめて、思い出しているのだろう。二年の間の日々を。
「おれと八つ違うんだ。初めて知りました」
「言ってなかったっけ」
「聞いたことないかもしれないです。忘れてるだけかなあ」
離れた歳の違いを知って、それだけで楽しそうにしている夏目がわからなくてきしりとどこかが痛む。でもそれを悟られないように眼を逸らして朝陽が差し込む庭を見遣った。
光に照らされた庭は色とりどりの落ち葉が降り積もっていた。木々の葉が美しく紅葉している。赤や黄に染まった庭を朝陽がより濃い赤に染め上げていて、秋が深まっていることを実感した。
季節はすぐに通り過ぎるだろう。秋はもういなくなり、すぐに冬が来て、春までも、その先の初夏までもすぐだ。
「名取さん、ねえ」
弾んだ声にはっと夏目を振り返る。
名取の着物の裾を引く夏目は名取の沈んだ思考なんて何も気付くこともなく、ただ楽しそうなままだった。
「ごめん、なに?」
「ええと、お祈り、させてもらえますか。来年はもう直接お祝いできないと思うので」
息を呑む。
そうだ。来年はもう夏目からこうやって祝いの言葉をもらうことはない。日々が巡り、年が明ければすぐに離れてしまう。
来年はすぐに来てしまう。
「う、ん」
感情が重苦しい。それでも隠して何とか頷くと、夏目は名取の着物からすっと手を離した。
そうして食事の際の祈りと同じように手を組み、名取には聞こえない小さな声で何かの文言を呟く。
聞き取れないわずかな音と共に夏目の眼の色が薄れて変わる。緑色ではない、色とりどりの宝石の色彩が浮かぶ。
本物の、神の祈りだ。
それを受ける資格なんか名取にはないのに。
「名取さん」
「……はい」
「あなたに、すべての幸せがありますよう」
人にはわからない、神の声は終わる。
ふっと顔を上げて、そう嬉しそうに笑った夏目の眼からは宝石の色が消え失せていた。
緑色の眼差しが、何の他意もないいつもの眼が見上げて来る。
「東国に行っても手紙書きますね。名取さんにすべての幸せがありますように、ずっと、いつもお祈りします」
お為ごかしではない。心からそう願ってくれているのだとわかる言葉に、心臓が、喉が痛んだ。
ただ幸せでいてと、人ではなく神にそう願われるなんてどれほどの幸運なのだろう。身に余る幸運をただありがたく享受すべきだとわかっている。
わかっているのに。
「ありがとう」
礼を告げると夏目こそが嬉しそうに笑ってくれていた。それこそが、そのまだ幼い笑顔こそが名取への贈り物なのだろう。
わかっている。夏目には何の他意もない。ただずっと育ててくれた人への厚意を、ずっと一緒にいた人へ礼として渡された祈りを、それだけをもらって声を飲み込めれば良かった。
だけど、口から声が滑り落ちてしまう。
「でも、おれには勿体無いお祈りだよ」
こぼれてしまった声は少し枯れて聞こえた。
夏目が眼を見開いた。名取の声だけで、それだけでとても嬉しそうに笑っていた笑みがさっと消え失せてしまう。
そんな顔をさせたいじゃない。けれど言葉はそのまま流れてしまう。言いたいことではない言葉が落ちてしまう。
「神様が人間一人に祈りを捧げてくれるなんて畏れ多いよ」
一瞬で失われてしまった表情を、曇ってしまった緑の眼を見ていられなくて眼を逸らした。ずっと名取を見上げていた夏目もまたひどく困惑したように眼を伏せる。
いつも耳をそばだてて夏目の声を聞いていた。できる限りその望みを叶えるようにしていた。夏目の望みはいつもとてもささやかで叶えられないことなどなく、どんな小さな声でも名取は夏目を否定しないようにしていた。
きっと初めて夏目を拒否している。夏目が名取に返礼として与えようとする、ささやかでわずかな幸福を否定していた。
「そう、ですね」
硬い声にはっと顔をあげる。
さっきまでの笑顔ではなく、ぎこちなく作ったどこか辿々しい表情で笑った夏目に心臓が痛んだ。
「ごめん、その」
「いえ、すみません。おれが軽率で……お清めしてきます」
慌てて謝るがもう遅い。そのまま身を翻した夏目はぱたぱたと浴室に駆けて行ってしまう。
その後ろ姿をぼんやりと見送りながらため息をつく。後悔が滲むが、身体は勝手に動いていていつものように倉庫の箪笥から着替えと拭き布を取り出すべく歩いていた。
またため息をつく。
頷いて、ただありがとうだけ言えたら良かった。何の見返りも必要とされず、何も強要されずに幸せを祈られたことなんかないのに。祈ってくれた相手が人であれ神であれそれだけでとても幸福な祈りをもらっていた。それをただ受け取ってしまえばいいだけなのに、うまく返せなくて手放してしまった。
受け取れないと拒否した、喉元に引っかかった感情が自分でもわからない。
夏目が祈る、すべての幸せとはなんだろう。
自分自身が本当に願うこと、望むことはなんだろう。
望むことを見つけてはいけない気がした。
空気がひどく冷えている。
冬の空は灰色だ。吐いた息は白く、すっかり葉を落とした神域の木々は揃ってくすんだ色をしている。枯れ落ちて地面に落ちた葉を箒でかき集めると、がさがさと乾いた音がした。
「小僧、早くしろ! もっとやる気出さんか!」
「はあ」
肩に乗る猫にぺしぺしと突かれながらせっつかれるがあまりに寒いのでやる気が出ない。
猫が重いせいもある。わざと重くて仕方ない、という素振りを見せると前から細い手が伸びた。
すい、と夏目の手がよぎる。触れられそうで触れられないほど近く、体温が滲むほどの距離に一瞬息を呑む。
引っ張られた猫が夏目の腕に収まって、手が名取からすっかり離れてしまうまで動けない。そのほんの少しの時間だけで臓腑が重くなるような気がする。
「先生が重くてやりにくいって。こっち来なよ」
「そうなのか小僧!」
「そうですね……」
「小僧! 最近不敬だぞ!」
「先生が威厳ないからじゃないか?」
「なんだと!」
夏目に抱えられた猫が大声で喚いていて離れてもうるさいが、さすがにそれは口には出していない。黙っていても態度には出てしまっているようだが。
引っ張られた直後はぎゃんぎゃん喚いていたが結局猫はすぐに大人しく夏目に抱えられた。
「まあいい、それより早く火を焚くぞ!」
「本当にしていいんですか、焚火」
「私がいいと言っているからいい! 雨乞い代わりだ! そして芋を焼く!」
猫はそう叫んでいるが、今は雨乞いの必要はないはずだ。
寒く乾燥した冬になってからずいぶん経つ。確かに最近はあまり雨は降らないが、去年の冬のように雨乞いの依頼が山ほど来ることはないと聞いている。
今年の人の世は水不足ではないそうだ。雨の代わりに雪が多く降り、そこかしこが白く染まっているのだと、先日も社の神職たちが話していた。平地に舞った雪はすぐに溶けて川を潤し、山々に積もる雪は春になれば解けて流れて人里の田畑を潤すだろう。水には困らない年になりそうだ。
しかし、その分寒さも厳しい。神域も例外ではなく、いくら土が暖かくても風は冷え切っている。
はあ、とため息をつくと空気が白く染まった。
「急かしてもすぐにできませんよ」
「いや急かすぞ! 夏目、小僧、早く芋を焼くぞ!」
そう喚く猫の短い手が指した先にはさつまいもが山と積まれていた。
数日前から落ち葉を掃くたびに猫に焼き芋をするよう喚かれている。あまりにうるさいため仕方なく社に芋を手配してもらったものの、想定していた分より遥かに大量の芋が届いてしまい名取はややうんざりしている。
こんなに誰が食べると言うのか。さすがに猫だって一度に数十本も芋を食べられるはずはないだろう。たぶんこの芋は春先まで残るだろうし、そのころには始末に困ることになる予感がしている。
うんざりしている名取とは違い、先の掃除を考えていないだろう夏目と猫は嬉しそうに芋をつついていた。
「美味しそうだけどこんなに一度に焼けないよ、先生」
「全部焼くな。半分はまた次回だ」
「半分でも多すぎるよ。ねえ名取さん」
そう見上げてくる夏目が吐き出した息も白い。枯れ葉を集め終えたのがわかったのか、夏目の腕からするりと猫が抜け出す。そのままたっと名取の足元を伝った猫がふわりと宙に浮いた。
とん、と猫がまた肩に乗る。
「半分は焼くぞ!」
「そんなに食べられませんが」
「小僧には一本しかやらんぞ!」
「なんでだよ、焼いてもらうのに。名取さんにももっとあげますよ」
そう苦笑いした夏目も立ち上がって名取の肩にいる猫を撫でた。
指先の温度を感じるほど近い。
最近、猫がよく肩に乗る。触っていいどころではなく自ら名取の元にいる。
同じように、夏目も名取に触れそうなほど近くにいる。
触れる直前まで手が伸びている。ひどく近くなった距離に目が眩みそうになって、触れてしまいそうになるのを慌てて押し留めている。あまりに近くにいることにわからなくなっていく。
それなのに、もうすぐ共に過ごす日々は終わってばらばらになってしまう。ほんの一瞬の幼い日々を共に過ごしただけで、元々それぞれの在るべきところに戻るだけだってわかっていて、だけど身体が重くなるようだ。
離れたくない。
明確に、そう思ってしまって。
「夏目、は」
「はい?」
口から声が出てしまったとき、猫が名取にすり寄ってきてはっと口をつぐむ。それ以上は、と警告されたかのような気がした。
それでもその警告を無視し、すぐ側で名取を見上げる夏目の緑色の眼があまりにも近い。目眩がしそうだ。
わからないように少しだけ遠ざかった。
「いや、背、伸びたねえ」
「でしょう?」
そうごまかすと夏目は得意げにぱっと笑った。
それだけで、何にもわかっていない顔の夏目にほっとして思わず息をつくと、猫が耳元でふんっと鼻を鳴らした。
「先生?」
「本当にお前らは変なところで鈍いな」
「あの、それは」
「教えてやらんと言っている」
けっと名取にだけ聞こえる声で悪態をついた猫が呆れたようにするりと名取の肩から降りた。
たっと駆け出してまた芋の方に走り寄る猫を夏目が追い掛けて行くのを眺める。距離が離れてほっとした。
「先生、なんだよー」
「芋選ぶぞ! 半分だからな!」
「何でもいいんじゃないか? 良いのばっかりだよ」
「違うわこれが! まずは美味そうなやつからだ!」
「結局全部食べるのに?」
名取から離れ、騒ぎ出した一人と一匹に息をつく。白い息が空を舞った。
寒空の下で、それでも春は近くなる。春が過ぎ夏が近くなればもう離れてしまう。その日はすぐそこまで来ている。
どれだけ惜しんだって無駄だ。
穏やかな日々はもう終わる。
「こんにちは、貴志くん。急にごめんなさいね」
「塔子さん?!」
ほんの数秒前。
先触れもなく玄関先からかかった声が部屋中に響いて、焦って夏目が立ち上がった。そのまま急いて廊下を駆け抜けた夏目に名取も慌てて後を追う。
がらりと音を立てて夏目が勢いよく引き戸を開けると、そこに立つ塔子はとても困ったような顔をしていた。急な訪問にひどく驚いている夏目も同じで、困った声は上擦っていて見開いた眼は瞬きもできていない。
予定にない塔子の急な訪問に名取も驚いている。
次に彼女が夏目の元を訪れるときは夏目を東国に連れ帰るときだと聞かされていたし、その時期は夏目の誕生日近く、紫陽花が咲くころのはずだったからだ。全く今の時期ではない。
五月の終わりの庭は卯の花が咲きこぼれている。その下で初雪葛の白と赤と緑が混ざっていた。初夏を越したばかりの庭は淡い緑色で、紫陽花の木は花の蕾の影もなくて、迎えるべき季節はまだ遠い。
慌てて飛び出した夏目の後ろで、同じく慌てて膝をついた名取の足元で卯の花の真っ白い小さな花びらが舞い上がった。
「急に来てごめんなさい、驚かせちゃったわね」
「い、いえ、大丈夫……ですけど、どうして」
呆然として声を絞り出す夏目に彼女がとても悲しそうにため息をつく。
夏目は反対に呼吸ができないかのように息を呑み込んでいた。
「貴志くん、また大きくなって」
夏目の問いに答えない彼女はどうしてかひどくさみしそうだ。少しばかり顔を上げて盗み見ると、塔子は悲しげな表情で手を伸ばして夏目の髪を撫でている。
その姿は以前よりずっと小さく見える。ただ夏目が大きくなったから、だけではない気がした。
「あのね、貴志くん。今日はお話があるの。今からお社に行ってくれるかしら」
「は、い」
こくりと頷いた夏目の声が緊張している。嫌な予感がして背に汗が流れた。
「ごめんなさいね、名取さん。時間がかかりそうだから待ってらして」
「承りました」
下を向いたまま応えるとザッと砂を蹴る音がする。名取には見えないまま、数名の足音が踵を返す音がした。
音が遠くなるのを待って恐る恐る顔を上げる。
既に神と人の姿はどこにもない。霧の向こうにあるはずの社のかたちすら見えず、まるで最初から誰もいなかったかのように人の足跡さえきれいになくなっていた。
神域に人の気配はない。
立ち上がり見渡しても、見知った気配はどこにもなかった。猫の神の気配はなく、もちろん子供たちもいない。馴染みの神職もいるはずがない。
代わりにどこか遠くから刺すような視線が在った。
ぞわりと鳥肌が立つ。
神域でたったひとりになったのは初めてかと思い至り寒気が走る。契約が在り、いつも夏目と一緒にいたから護られていたのだと急に思い出した。
ここには人を喰う者もいるのだと。
ぞっとして震える。すぐに踵を返し、建屋に戻ると引き戸を閉めた。
ざくりと土を踏む音がして、慌てて立ち上がると引き戸に手を伸ばした。
けれど開ける前に引き戸が開く。
はっとする。引き戸にまだ細い指先がかかっていた。社から戻り、戸を開ける夏目の指先を掠めそうになっている。
慌てて手を引くと、力無い指がゆっくりと戸を開けて行く。
「おかえり……夏目!」
一歩を引いて開く戸を待つと、項垂れた夏目がひどく辛そうに見上げてきた。
その顔色は真っ青で今にも倒れそうに見えて慌てるが、かと言って支えるわけにもいかない。思わず伸ばそうとしてしまい、行き先のなくなった手が虚しく空を切った。
「夏目、」
「大丈夫……ちょっと、だけ、待って、ください」
ふらつく夏目の足元は覚束なくて、とても言葉通りに大丈夫だなんて思えない。けれど夏目がそう言うなら名取は従うしかなく、よろけながらも廊下を歩く夏目に付き従うくらいしかできない。
よろけて進む夏目を案じるかのように、今日の廊下は短かった。ほんの数歩を歩くだけで庭が見えるいつもの縁側に着いてしまう。
白い花に埋まる庭が眼の端に映る。塔子が訪れたときからさほど時間は経っていないのに、さっきよりずっとたくさんの卯の花が落ちて庭を白く彩っていた。
でも、どれほど花が散ろうとも夏の花はどこにもない。まだ、夏ではないのだから。
がたりと音がした。
はっと振り返ると夏目は自室の引き戸になんとか手をかけていたが、そこから崩れるように畳の上に座り込んだ。
「夏目、ほんとに」
「塔子さんの話……藤原家に行くのは、なかったことに、なりました」
ぺたりと力なく座り込んでしまった夏目は、何も聞こえていないかのように名取の言葉を遮った。そうして枯れた葉のような声でそれだけ呟くと、ぎゅっと手を握りしめていた。
項垂れた様子にぱしんと脳裏に記憶がよぎる。
引っかかった声と言葉をまだ憶えている。去年の夏目の誕生日のときに塔子が残していったどこか不穏な言葉は、それはやはり夏目の誕生日を二度と共に祝えないと言うことだったのだろうか。
あのときに既に夏目と藤原家の縁が破棄されていたのだとしたら。そうならば大社は、的場は何故夏目にそれを知らせなかったのか。
ざわりと背に鳥肌が立つ。
だけどその理由など一端の神職に過ぎない名取にわかるはずもなく、問い質すことなんてできるはずもない。
ただ夏目と名取だけが何も知らずに平穏に見せかけた日々を過ごしていて、今知ったって何もできないだけだ。
「なんで? 何か、怒らせたのかな、おれの力が足りないんですか?」
「いや、そんな……ことは」
ひどく沈んだ夏目の声を否定しようとして、だけど出来ずに声が濁る。
人の名取に神の判断の理由などわかるはずがない。夏目の言葉の通りであったとしても、そうでなかったとしても、その可否を知り得る権利すら名取は持っていない。
眼の前の子供の運命が大きく変わって行く。
予期せぬ方向に転がり出した夏目の未来がどこに行くかわからないのに、手も出せず、何を助言することも出来ず、眼を逸らすことも出来ない。怯えた子供を慰めるために触れることさえも儘ならない。
何もできない。
「おれ、どうしよう」
「これからどうするか、的場からは」
「わかんないです、まだ、何も……このまま神域にいていいかもわかんない……出されるかもしれないけど……そしたら、どうしよう」
ひどく怯えて惑った眼が部屋中をさまよい巡っている。ぐるりと部屋を巡った眼がぼんやりと名取を捉えた。
泣くこともなく、呆然として、けれどひどく怯えているのだとわかる眼に心臓が跳ねた。
「どうしたら、いいのかな、名取さん」
切実な問いに答えようがない。
夏目だって、人の名取にできることなんかひとつもないってわかりきっているだろう。それでもこぼれてしまった声が決定打になったかのように、ぱたりと夏目の手から力が抜けた。
夏目の眼はまだ名取を見ていた。でも、きっともう何も見ていない。ひどい困惑だけを湛えた眼からはいつもの淡い緑色が薄れ、見たことのない暗い色を映していた。
身体中に混乱が満ちている。何度か唇を噛んで、所在なく床を辿った手が何かに当たる。振り返ると、いつも夏目に触れるときにかぶせている敷布が在った。
そうしろ、と言うかのように。
「なつめ」
呼んだ声は震えていたかもしれない。だけど名取にももうわからない。
虚ろに見上げてきた夏目の眼を見られないまま、ぱさりと布をかぶせる。何も言わず、ただされるがままの夏目の髪を隠して布が揺れた。白い指先がいつものように布の端を掴んで、すっかり包まってしまう。
布に隠れて夏目の銀糸の髪はひと筋たりとも見えない。
身体中をざわついた感覚が走り抜けて行く。
手が震えている。どうしようもなく込み上げる何かに動かされている。
抗えない。
するりと布の上から髪を撫でた。当たり前に何の抵抗もない。
まぎれて、わからないように、決して直に触れないようにそうっと布越しに髪に口付ける。
わからないはずなのに、布から髪の感触が滲んだ気がしてはっと顔を上げた。
息を呑み込む。
何をしてしまったんだろう。
心音がひどく早い。身体に無理やり送り出される血液が熱くて心臓が痛んで苦しい。
こんなつもりじゃなかった。こんなことになるくらいなら、穏やかな日々も分け与えられた幸運も幸福もひとつもいらなかった。人の世で誰からも疎まれながら良いように使われて、塵芥の如く短い命を終えてしまった方が良かったとさえ思う。
ここに、夏目の元に、来なければ良かった。
ひどい後悔が渦を巻いている。望んだことが望んだままに回ることなど決してない世界なのに、知りたくもない望みを知ってしまう。
絶対に触れられない。生きる場所も世界も、理すらも何もかも全て違う生き物同士だ。たった一瞬の短い日々を共に過ごしただけで、離れてしまえば二度と巡り会うことはなく、人の名取は死に行くだけだ。一緒にいることなんてできない。
何も伝えられないのに。
愚かだ。
なんで好きになってしまったんだろう。
なんで、夏目を望んでしまったんだろう。
「……な、んで……」
どこか遠くからひどく苦しげな声が聞こえた。音は果てしなく遠くから響いている気がしているのに、どうしてかひどく近くから聞こえた。
全部の距離が曖昧になっている。
わかっている。本当は人をこんなに近くに寄せていいわけがないんだ。彼は、名取は夏目を拒否なんかできないのをいいことに少しずつ進んではいけないところに踏み込んでいる。詰めてはいけない距離を詰め、触れられるほど近くを望んでいる。
わかっているんだ。本物の神様へと望まれているくせに、自分だけの望みを持ってしまった。だからだめだって棄てられた。行き先はもうどこにもない。全部夏目自身の咎だってわかっている。
でも、今更取り戻せない。清められない咎を持ったままでどこに行けばいいのかわからない。
掴めない空を掴もうと手を伸ばそうとした。
「え?」
確かに自分の喉から声がもれた。
はっと眼を見開く。見慣れた自身の建屋の天井が映って、夏目は短く息を吐き出した。
浅い眠りの中で何かを聞いた気がしたがよく思い出せない。ただ、胸に重しを置かれたかのように重い感情がある以上、良い夢ではなかったのだろうと察しが付く。
浅い呼吸を繰り返していると腕が動きにくいことに気が付いた。何でだろうと頭を巡らせようとして、身体に暖かいものが触れていることに気付いた。
息を呑み込んだ。恐る恐る首だけを動かして隣を伺う。
「名取さん?」
ひどくちいさな声で呼んだつもりだった。でも思ったより大きく響いた気がしてはっと息を呑んだ。
すぐ隣りで眼を閉じた名取が眠っている。
しっかり布地に包まれているせいか触られてはいない。でも、ひどく近い。
片手は布の上から夏目の身体に乗せられたままで、もう片方の手は頭を撫でたままの姿勢のままでゆるく抱き締められている。抱き締められた記憶はないし、いつ眠ってしまったかは憶えていないが確かにすぐ近くにいる。
何度かこうやってゆるく抱き締められて眠りに落ちたことはあるが、眼が醒めた時いつも名取は起きていて夏目から距離を取っていた。決して触れることのないようにしてくれていた。
一緒に、こんなに近い距離で眠ったのは多分初めてだと思う。
「……なとり、さん」
繰り返し、ちいさく呼んでも返事は返ってこない。
少しだけ腕を動かして包まれた布をそうっとほどく。腕だけを布から抜き取った。
暗い部屋の中で、はちみつの色の髪が床に散って少しだけ光っている。いつも眺めてはきれいだなって思っていた。触りたいなって、ずっと思っていた。
夏目を知らない名取を遠くから見つけた冬の日からずっと片隅で望んでいたことを眼の前に差し出されている。
何も考えられない。
望んだことが望んだままに回ることなどないと知っている。神域に来たことも、神域から出て遠くに行くことも、今になって拒否されて棄てられたことだって全部自分が望んだことじゃない。そう望まれたから、力があるから、ただ定められた先に手を引かれるまま歩いただけ。
そこに夏目の意志なんてなくて当たり前だ。神に意志なんていらない。ただ自然現象を、有象無象を動かすだけの者に自分だけの望みなどあってはならない。
そもそも望みなんてひとつも持っていなかった。何かを望むなんてことも知らなかった。
この人を見付けるまで、何も望んだことなんてなかったんだ。
身を切るような感情が心臓を跳ねさせる。
触れたい。今、触らなかったらもうずっとずっと触れない。触れられないまま離れて二度と会えなくなるだろう。その永い別れは眼の前にある。夏目がどこに行こうともすぐに分たれることに変わりはない。
彼は、名取はそれを知っているのだろうか。
何も知らなくても、全てわかっていても、人の名取が手を伸ばして神の夏目に触れることはないんだ。
息を呑み込む。喉が鳴る音がひどく大きく聞こえて息を止めた。
手を伸ばしてしまう。そうっと髪に触れた。
わずかな音もしないように、声を殺して息もしない。震える指先でひとすじの髪を掬い取る。ゆっくりとはちみつの色の髪を辿って、流れ落ちて恐る恐る頬に触れる。ほんのわずかに触れた指先に柔らかい皮膚の感触と体温が移った。
一度だけ短く浅く呼吸をした。
心音がひどく早い。身体に無理やり送り出される血液が熱くて心臓が痛んで苦しい。
それでも耐え難い欲に動かされてしまう。
すこしだけ身を起こす。覗き込んでも起きない名取の、口の端に指先でそっと触れる。
頬よりもずっと柔らかい感触に鼓動が大きく跳ねている。そのままずるりと身体を引きずって近付く。
わずかに、ほんのすこしだけ口付けた。
「え?」
ほんの一瞬だけ、だ。すぐに離した。
だけど離れた途端にざあっと身体の中で何かが巡ってはっと眼を見開いた。
なくなる。何かが抜けて行く。
血の気が引いた。