遺失物取扱所-6 がたん、と耳障りに大きく響いた音がした。
急な濁流のように音が脳に流れ込み、無理やり眼をこじ開ける。そのままばたばたとどこかに走り出す音がして慌てて跳ね起きたが、頭がふらついて一瞬眼の前が見えなくなった。暗くなった視界に頭を押さえて名取は何度か瞬きを繰り返した。
意識を無理やり覚醒に持って行かれて追い付かない。開かない眼を開けると霞んだ視界の先で部屋の引き戸が大きく開け放されているのが見えた。
いつの間にか眠っていたらしくずいぶん時間が経っている。室内は真っ暗な夜だ。
だが、外からは明るい光が差し込んでいる。一瞬昼かと見紛うばかりの明るさだ。星の灯だけでこれほどに明るくはならないだろう。月明かりが強い。
まだぐらつく頭を振って暗い部屋を振り返ると、名取の隣には解かれて開かれた敷布がぐちゃぐちゃになり、すっかり見捨てられたかのように転がっていた。その中にいたはずの夏目の影はどこにもない。
はっと頭を上げた。途端、がらりとまた大きな音がした。
「夏目!」
呼んでも返事はない。立ち上がるとまだ少しふらついたが、急いて部屋を飛び出した。
縁側から見える庭に光が差し込んでいる。月明かりはやはりひどく強く、昼日中の如く夜を照らし出していた。白い小さな卯の花がわずかな風に舞っては光に曝されて輝いている。
その庭にも人影はなく、そのまま廊下へ抜けたところにも気配はない。
玄関先まで走り出すと、今日の廊下は長くはなかった。短い距離をすぐに駆け抜けるとやはり玄関の引き戸は開け放たれていた。
その先に人の影が見える。夏目がそこにいるとわかって一瞬だけ惑った。
今、踏み込んでいいのかわからない。名取には決して踏み入れられぬ人の外の出来事が巡っていて、夏目はその渦中にあっても名取は遥か外側にしかいない。何ができるわけもなく、今、夏目に手を伸ばしていいなんて到底思えない。
でも、そのまま駆け抜けてしまった。
「名取さん」
足音で名取が来るとわかっていたのだろう。夏目は驚くこともなくぼんやりと名取を見た。だけど、その眼はやはり名取を通り過ぎてどこか遠くを掠めている。見えていても見ていない。
ざわりと冷たい風が流れて冴え冴えとした光がより強くなった気がした。
どうしてかひどく距離が空いている気がした。
隔絶している。違う生き物なのだと、思い知らされる。
何も出来はしないんだ。
「夏目、戻った方が。寒いよ」
名取を見越したままで一度だけ首を横に振った夏目の、薄い単の袖が吹き抜けた風に煽られる。何を言っていいかもわからずに口をついた言葉はやはり無駄で、強い風に流されるだけだった。
卯の花が舞っている。真夜中のはずの庭で月明かりが真昼のように飛ぶ花たちを照らしていた。
花が、舞い上がる光が夏目に纏わり付く。
「だめです。だって」
短く息をついだ夏目は、名取から眼を逸らして自分の足元に眼を落としていた。
じっと見つめる目線の先を見遣る。その足元にはわずかばかりの光が滲むだけではっと息を呑んだ。
自分の足元を見下ろすと、裸足で土を踏んだ名取の足元も同じ弱い光を放っていた。夏目の足元は名取と同じようにわずかな光を発するばかりになっていて、夜の月明かりよりずっと弱い頼りない光は人と同じ光量しかない。
確かに神である証がない。
「おれ、もう、だめなんです。だから塔子さん、おれはいらないって」
「なんで、なにが……夏目」
「もう神の力はありません」
少し震えた声で夏目はそう告げた。
ただそうだと、もうなくなってしまったのだと、それだけが今置かれた事実なのだと告げられている。
名取の問いに答えはない。ただ、何かが失われてしまった。
夏目がそれを失うのなら、名取だって同じように。
「ごめんなさい」
呆然としていると今にも泣き出しそうな夏目が名取の脇を走り抜けた。
一瞬だけ着物の袖の端がわずかに腕を掠めたが、それだけだ。今引き離されるだろうとわかってしまったのに、最後の最後まで触れることはない。
「夏目、待ちなさい!」
建屋に走り込んだ夏目を呆然と見送ってしまい、振り返ったてももう遅い。
がらりと一気に引き戸が閉まる。手を伸ばすが、 ぱしんと瞬きほどの光が走り一瞬眼が眩んだ
「え?!」
眼を開けて、ひどく驚いて声が落ちた。
指の前にあったはずの引き戸はなく、神の建屋さえも影も形もなくなっている。代わりに眼の前には人の世と神域を隔てる社の襖があった。
慌ててそこを開けても赤い橋はない。
襖を開いた先に広がるのはただの人の庭と森だ。見渡しても同じような襖と廊下が続く社は人の世界の常識的な長さで、広くはあるがどこまでも遠く続くことはなく、眼の届く範囲で角を曲がるごく普通の作りだ。慌てて廊下に出て身を乗り出しても、庭にぽつりと穴を開けている池もほんの数歩で回り切れるほどの小ささだ。決して遥か彼方まで海のように続くことはない。
ぱしゃ、と水音がする。見ると、人の世界で良く見る鯉が跳ねた。神域で見る魚ではない、黒い鯉の影だけが水中を過ぎる。
呆然として、けれど理解する。
ここは境目ですらない。人の世に戻された。
神域から弾かれている。夏目によって。
ここがどこかわかった途端、すぐに駆け出した。身を翻して社に駆け込むが、深夜の社に人はいなかった。何枚かの襖を開けて客間の方に下がっても、毎日菓子を貰いに下がっている厨に人影はない。深夜でも数人の勤務者がいると聞かされている宿直室まで走り込む。
「七瀬さん! いますか!」
「はあ? 名取、なんでいるんだお前」
扉を開けたところで目当ての七瀬を見付けてやっと大きく息をついた。
走り回って息が切れている。ぜえぜえと息を整えていると七瀬は仕方なさそうに立ち上がった。
「こんな夜中にどうした」
「いや、その……神域から出されて」
「はあ?」
「とにかく入れなくなって」
「入れない? そんなわけあるか、神の加護を」
呆れ顔でそこまで言ってから、七瀬は急にはっと何かを思い出したかのように名取を見上げてきた。そうしてすぐ側まで近寄ると、上から下まで名取を検分するかのようにじろじろ見回してからふうっと嫌そうにため息をついた。
「橋を渡れなくなったのか?」
「渡れない以前に橋が見えないですね……」
「ちっ仕方ない、的場を叩き起こしてきてやる。名取、多分だがお前から神の加護がなくなっている。もう神域には入れん」
「なんでわかるんですか!」
「私と同じ光がない、それくらいわかれ」
「わかりませんけど!」
「うるさいですねえ、何時だと思ってるんですか」
「おや、的場」
叫んだとき、からりと軽い音を立てて七瀬の奥の襖が開く。
いつもの神職の衣服とは違う簡易な着物の的場が出てきた。眠そうに頭をかき混ぜている彼からは何も緊迫した様子はなく、何の知らせも受けていないのかと察しがつく。
名取だけがひどく焦っていた。
「起きてたんですか。早く寝なさいと言ったでしょう」
「寝ようとしてましたけどね、騒いでるじゃないですか。で、名取はこんな時間に社に下りて何してるんですか」
「その、神域から、弾かれた……のか、入れなくて」
「入れない? 神域に? ふむ」
半分眠ったような顔をしたままだった的場がそのまま近寄ってきた。そうして七瀬と同じように上から下まで検分している様子でじろじろ見られる。無遠慮な視線に居心地が悪いが、そんな場合でもなく息を詰めて的場の答えを待つ。
しばらく眺めてから的場はようやくはっきりと眼を開けた。
「確かに、加護がないですね」
「だからなんでわかるんですか……」
「神域に入れる神職は髪に他とは違う光があるじゃないですか。ねえ、七瀬」
「その通りです。名取、お前神域に入れる他の神職のことなんざろくに見とらんだろう。もう少しよそのお付きがどうしているかも見ておけ」
「それはまあ……すみません……いや、それより今は」
「おう、全員揃っとるな。ちょうどいい」
「おや、斑様」
ぽん、と軽い音がしてはっと振り向くと猫が宙に浮いていた。
くるりと空で一回転した猫がたっと文机に降り立って、その間にさっと七瀬と的場が膝をつく。慌てて名取も膝をついた。
「斑様。このような夜更けにどうなさいましたか」
「火急の件だ。的場」
「は、何なりと」
いつもとは違う表情のない猫の声に思わず顔を上げる。
猫は名取を見ない。冷たい光を湛えて的場を捉えていた。
「今し方、失せ物探しの神は力を失った。すぐに末社を閉じろ。それから」
次いで、猫の神は的場ではなく名取を見下ろした。陶器の招き猫の神に相応しい表情のない眼差しが名取を捉える。
「夏目から、名取の付人の任を解くと伝言だ」
いつもと違う、感情のない猫の声に息を呑んだ。
「先生!」
「ぎゃっやめろお!」
猫の指示にすぐに駆け出した的場と七瀬を見送ってから、猫もすぐにりん、と首元の鈴を鳴らして身を翻そうとした。逃さずに捕まえてつるふかの猫を強く掴むと情けない声を上げたが、今は構っていられない。
「不敬だぞお!」
「夏目はどうしてるんですか!」
急に掴まれて暴れる猫を無理やり持ち上げて問いかけると、猫は一瞬眼を閉じてからふーっとため息をついた。そうして嫌そうに短い手で名取の手をぺしぺしと叩いて来る。
「どうもせんわ、家に閉じこもっとるだけだ。力が弱まった神に神域は危険だ」
「え?」
「弱った幼い神など格好の獲物だ。神喰らうものに見つかればひとたまりもないわ」
とんでもない不穏な台詞に一気に血の気が引く。
猫は名取を見ない。嫌そうにしたままぷいっと横を向いて何とか逃げようとしている。
だがなりふり構っていられない。強く掴むと猫がぐえってひしゃげた声を上げた。
「先生」
「斑様だ」
「斑様、お願いが」
猫を目線の高さまで持ち上げて無理やり眼を合わせる。渋い顔をしたまま眼を逸らそうとする猫をまっすぐに見た。
「夏目に、会わせてくれませんか」
「ふん。神に招かれねば神域には入れん。知っているだろう」
「お願いできませんか」
じっと猫を見つめると、猫はまた深々とため息をついた。そうして、本当に仕方ないと言いたそうにぺしんと名取の腕を叩いた。
猫の肉球の跡が付く。
「まあ良かろう。手紙の礼だ」
「手紙?」
「預けている多軌の手紙だ。あれをお前が神域から引き出すことを私からの命とする。神域に招く、橋まで行け」
頷いて、猫を掴んだまま身を翻す。
先ほど走ってきた神域の森側の襖を開けると、そこにはいつもと同じように大広間が広がっていた。次の襖まではそう遠くない。早足で歩いてすぐに抜けると、開けた先からざっと強く風が吹き抜けて思わず眼を閉じた。
風はすぐに通り過ぎる。眼を開けた。
「橋……」
さっきまで人の世の小さな庭だったはずの場所に赤い橋が架かっていた。
見えなかったものが見える。弾かれた神の庭に戻れる。
すっと足を踏み出すと猫が見上げてきた。
「小僧、この先はいつもとは違うからな。お前は神の匂いが濃く付いているくせに加護もない。すぐに神喰らいに見つかる」
「はい」
「私から離れるなよ」
頷いて、猫をしっかり抱いて一歩を踏み出す。橋を進むとその真ん中でいつものように膜を抜ける感覚がしたが、その膜はどうしてかいつもよりひどく冷たく感じた。
来るな、と言われているかのようだ。
それでも抜けきると橋を渡り切る。いつもより短く感じる距離を歩ききって神域の土を踏むと、いつも外気に関係なく暖かいはずの土も冷たく感じた。
冷たさと共に、何かの視線を感じざらりと鳥肌が立った。
いつもは感じられない何かに見られているのがわかる。下を向くと、裸足の足元に纏わりつく光は普段より更に弱く頼りなくて、何からも護られていないと理解した。
ずっと足元を照らしていたあの光さえも名取を守る加護のひとつだったのかと、今更ながらに思い知る。慣れ切って忘れていたが、ここは本当は人がいるべきところではないのだ。長い間夏目に護られながら暮らしていて、それさえもわかっていなかった。
ぞっとして背すじが粟立つ。力のない夏目がいていい場所ではないのだと察しが付いた。
「むう、夏目め。面倒臭いことになっとるな」
「え、先生、何が」
「名取の小僧、夏目を探せ。このままでは辿り着かん」
「探せって、どうして」
「末社を閉じたからな、人の世から繋がれた道がなくなった。夏目を呼べ、念じろ、探せ」
見上げて来る猫の声は淡々として感情がない。ただ事象を、今ここで名取と夏目に起きていることを教えてくれただけに過ぎないのだと理解する。
有相無相を、今起きていることを猫は全てわかっていても関わることはない。ただ教えてくれるだけで全ては名取の決断なのだと。
わかっている。けれど心臓が痛んで猫を撫でた。
「……夏目は、返事をしてくれないと思いますが」
「返事がなくともだ。名取、道を探せ。お前しか探せない」
そう淡々と告げる猫の声がいやに大きく響いた。
猫は、神は何も変えられない。夏目だって同じだ。きっと人ならば意志で変えられることを変えられない。有相無相を動かしても、自然現象を動かしても、そこに意志を出すことはない。
では、人ならば動かせるのだろうか。
「夏目」
息を呑み、一度呼んで、探る。
重い視線やざわめきの中にわずかに混ざった聞き慣れた声を手繰る。
判別できないほどのわずかな音が聞こえる方向に踏み出した。
呼ばれている。
声が聞こえるわけでもないのにそう感じて、夏目は一度だけ深く息をついた。
だけど、たぶん応えてはいけない。
ひどく眠くて仕方ない。絶えず何かが抜けて行く感覚が続いている。きっとこのまま全部を失くして眠って朽ちていくんだろうとわかる。
仕方がないことだ。力がないのなら必要もされないのだから当たり前だ。
このまま夏目が朽ちれば、何も望まず、ただ人に望まれるまま遺失物を探すだけの神が新しく来るだろう。その新たに巡る神にこの場を明け渡すだけだ。
きっと、夏目のように自分の望みを持たず、自分の遺失物を探そうともしない者が。
思い出す。失ったものを、会えない人を探していた。どうして、最初から意志も望みもある夏目がここにいるんだろう。
最初から資格も力もなかったのに。本当は、ここにいるのは夏目ではなく。
「あ、れ」
ふっと声が出た。
眼が開く。暗い部屋にはもちろん誰もいない。もう残り少ないだろう力で名取を弾き、建屋の全ての戸を閉めきってから力尽きてしまったようだった。真っ暗な部屋には当たり前に誰の気配もない。
だけど、身体を起こすと思ったよりずっと簡単に起きられた。
起き上がると感覚が戻る。
何かが抜けて行くような感覚が急になくなっていて、きっと全部なくなってしまったのだと理解した。
きっともう何もない。だけど身体は今までにないくらい軽くて驚いた。
今まで持たされていたものは夏目には重すぎたのだと、それは夏目のものではなかったのだと、そう知らされている気がした。
不思議だ。これだけ身が軽ければどこにだって行けるのかもしれないと思った。ここを出て、望んだとおりに望む人のところに行ったって。
「名取さん?」
そう思った瞬間、また呼ばれた気がして振り向いてしまう。
声に、応えてしまった。