屏風の虎射すくめる眼光×爽秋を彩る経験 1
恋人同士、家族、それからひとり旅。
少人数経営、一度に入れる客もそう多くないその宿は、立地は少し不便だが、羽を伸ばしてゆっくり過ごすのに最適。
秋口には美しい紅葉が見られる山々に囲まれた落ち着いた土地柄に、一部では仲居が総じて見目麗しい男であるなどという俗っぽい噂も含めてひそかに人気の宿屋があった。
さほど大きくないその宿には日々、様々な客が宿泊し、それぞれがどこか満ち足りた様子で宿を後にする。
シーズンオフになり落ち着いた春先からある問題が浮上したことで、宿の経営陣は顔を突き合わせていた。
「屏風の中の虎が動いた?」
玄武が眉をひそめて聞き返すとみのりはうなずいてから話を続けた。
「最初に聞いたときは正直、飲みすぎたんじゃないかと思っていたんだけど……」
全員が目をやると、支配人がぺらりと手元の紙をめくりあげて言う。
「昨日で3件目の報告になります」
「昨日の客に関しては、酒を一滴も飲んでないようだったな」
「話を聞いた三人とも、男性ひとりの宿泊客でね」
みのりは困ったように眉を下げると小さくひと息吐き出した。
「すっげー!いいなあ、オレも絵の虎が動くところ、見てみたいぜ!」
「眉唾だと思ったが……三度も報告があるとなると何かしら原因はあるんだろう」
玄武の隣で目を輝かせた志狼が無邪気に机の上に身を乗り出し、飛びかかる虎のような動きを再現しているのに、支配人とみのりが目を綻ばせた。
屏風の虎が動く、か。
部屋の灯りの調子が悪かったり、屏風そのものの一部が破損していたり、隙間風で揺れていたり、考えられる原因は森羅万象ある。
「屏風の虎は屏風の中からは出ないのだから、捕らえられない」で済む話だ。
しかしもしかしたら、怪力乱神としか説明のできない不可思議なことが起こったという可能性も──
玄武の思考が深くなりはじめたところで斜向かいに腰掛けた雨彦が支配人に極めて楽観的な語調で言う。
「なあに、そういうこともあるもんだ。
ただの見間違いが連続することもある。
だが、こう立て続けに続いているとなると」
続く言葉を止めて向かいに座る玄武のほうに視線をやった。どこかその視線は玄武ではなくそのもっと向こうをみているようにも感じて、思わず後ろを振り返りそうになる。
彼にはたまにこういうことがある。
何か、こちらの想像よりもひとつ先をみているような感覚。
「黒野、どうだ。虎の間で一泊様子を見てきてくれ」
「それはべつに構わないが……」
雨彦アニさんがみたほうが何かと都合がいいんじゃないか?と言外に含みを持たせて返すが、当の雨彦は小さく首を振るとあやしく微笑んだ。
「俺じゃあ、解決には至れないだろうからな」
いまいち真意がわからない。つくづく不思議な人だ。
「げんぶのあにき、いいなあ」
志狼が好奇心に満ちた子どもらしいまなざしで横からこちらを見上げている。
しかし、虎が動く目撃証言はすべてひとりで宿泊した男性客だ。
何かが起こるか、あるいは何も起こらないかは実際確認してみない限りはわからないが、まだ幼い志狼ひとりだけを泊まらせるわけにもいかない。
それに、雨彦が玄武に勧めているのだ。
彼は不思議な人ではあるが、信用に足る人物である。多少のいたずら心はあったとしても、無責任に面倒ごとや危ないことを押し付けるような人物ではない。
支配人やみのりも何も口を出してこないことから、彼らも雨彦の意見には異論はないのだろう。
「玄武さん、頼めますか」
様子を伺っていた支配人が誠実に言う。
そうあっては承諾するほかない。
「合点承知だ、番長さん」
もとより、玄武としてもその話の真相自体には志狼と同じくらい興味があった。
虎の間は、大人二名までの客室でその名のとおり虎の絵の屏風が飾ってある。
坊主が殿様に絵の中の虎が動いたと騒ぎ立てる物語も、絵に描いた餅よろしく絵に描いた虎は現実に人間を襲ったりはしないという落ちがついていた。
半信半疑で、実際に絵そのものが動くとは思ってはいない。
しかしあの屏風は玄武が仕入れたものだった。
特に著名な画家の作品や、模倣品でもないその無銘の虎の屏風は、木々が生い茂る広々とした空間に勇ましい顔立ちで端に一匹、そして小さな虎がその傍に一匹、全部で二匹の虎だけが控えめに描かれていた。
虎の屏風というよりは木の屏風と言ってもいいような、木々が主役の構成であるにもかかわらず、自然の中に描かれた二匹の虎は生き生きとして、まるでいまにも飛び掛かってきそうな勇ましい顔立ちをしていたもので、それを玄武はいたく気に入った。
古くからある骨董屋の角でほかの品々に埋もれて暗いところに立っていた屏風は、物で溢れかえる屋内でも店主が丁寧に管理をしていたのか状態はよく、こうして暗いところでぼんやりと立っているよりも、人目に触れたほうがいい作品だと思い、買い取って宿の一室を飾ることとなったのだ。
果たして虎の動いた話にどんな真相があるのか、あの屏風を入手するにあたって、どこか惹かれる要素を感じていた玄武はできれば手放さざるをえないことにはならないようにと木造の廊下を踏みしめて歩いた。