何を見てもあなたを思い出す 秋が深まる時期になると、ことさらに故郷の温暖な海との違いを感じる。
けれど、アクアは嫌いではない。シアトルの秋の長雨が。街角を彩る紅葉と、足下で軽く乾いた音を立てる枯葉の重なりが。
何より、通りのあちこちで売りに出されるアップル・サイダーと、パンプキン・スパイスで味付けされた何もかもが。
大学の構内を歩いていても、フード・トラックが売り歩くそれらに出くわすことがしょっちゅうある。すれ違った学生が手にしたタンブラー入りの飲み物を目にして、アクアはぼんやりと考えた。
——マートルは、パンプキン・スパイス・ラテは好きなのだろうか。秋に出回るかぼちゃ味のあれやこれやは、わりと好き嫌いが分かれる食べ物だから……
そう考えて、アクアは気がついた。またマートルのことを思い浮かべている。
マートルはパンプキン・スパイス・ラテが好きかどうかを、アクアは知らない。
ほとんど何もかもがかぼちゃ味で仕立てられるなかで、マートルが何を特別好きなのか——ドーナツか、ベーグルか、パイか、それともほかの何かか——も知らない。
あるいは、すべてそれほど好きではなくて、この季節に食料品店の棚を埋め尽くすパンプキン・スパイス・何ちゃらをいまいましく思うたちなのか。コーヒー・トークで注文した飲み物のほかは、食べ物の好みも好きな本も知らない。生まれた場所はどこで、どんな子どもだったのかも知らない。
アクアがマートルについて知っていることは少ない。
フルメタル・コンフリクトを作ったクリエイターであること。仕事に誇りを持っていて、休むことを忘れるほど自分の使命に熱心だということ。ぶっきらぼうな話し方をするけれど、本当はひとの気持ちに寄り添いたいと願っているようだということ。楽しいとき、控えめに笑うこと。大好きな作品の話をしている間は、眼の奥にぱちぱちと弾ける星のような輝きが閃くこと。
たったそれだけ、でもそれだけで奇妙にも、マートルはアクアの心の大きな空間を占めるようになった。
内気なアクアにとって、マートルが、ずっと昔から知っている友だちのように感じられるのは不思議だった。
出会って間もないはずなのに、会話が途切れて気まずい思いをすることもなかった。思うように言葉が出てこない瞬間があっても、マートルは穏やかな眼をしてアクアを待っていてくれる。普段は、ひとにどう思われるかを気にして、いつも話を焦ってしまうのに、二人でいると、沈黙でさえ心地よかった。
しばらくしてアクアは気がついた。自分の見ている景色は永遠に変わってしまったのだと。
色づき始めた木々が夕陽に照らされるとき、大学の中央棟から見渡すキャンパスはまるで一枚の絵みたいに——潤んだ光のなかで、紅葉の赤や金と常緑樹の緑が織りなす抽象画みたいに見える。マートルに見せてみたい、と感じて、アクアはやっぱり彼女のことを思い出していた。
ひとりで生きていると思っていたアクアの景色の中に、マートルが現れた。
それは文字どおりの意味というだけではなく、マートルが実際にはいないアクアの生活のさまざまな側面が不思議とマートルと結びついてしまって、アクアは四六時中マートルのことを思い出しているということでもあった。
アクアが一人でいるとき、何かを目にし、耳にしたとき、ここにいないマートルがどう思うかを知りたい。きれいだと感じるものがあれば、マートルにも見せたい。おいしいものを口にすれば、マートルにも食べて欲しい。新しいゲームに触れて興味深いと思ったら、次に会うときはその話がしたい。
これまで経験したことのない感覚は甘くて快い一方で、アクアをひどく困惑させた。
——だって、私はまだ彼女のことをぜんぜん知らないじゃない。私がそう感じているだけで、特別に親しい友だちですらないはずでしょう。
「一緒に行く」というマートルの言葉を勘違いして、「私の部屋へですか?!」と聞き返してしまったときの記憶が蘇る。思い返すだけで赤面するような出来事だった。けれど、心のどこかで期待していたからこそ、そんな言葉が出てきたのだろう。——まだまだ知らないから、もっともっと知りたい。もっと一緒に時間を過ごして、マートルが見ている世界を。どれだけ不条理で不可思議でも、その想いをとどめることはできなかった。
*
「あら? 今日は雰囲気が違いますね」
扉を開くと、アクアを迎えたのはいつも店内に流れる落ち着いた調べではなく、はつらつとしたポップ・チューンだった。
「ここへ来てくれたお客さんが歌っている曲なのさ。ラジオで流れるというから、ちょっと聴いてみたくて」
バリスタが説明したところによると、クーチェラのステージにも出演するという彼女は、最近ジュニア・アイドルのメンバーを卒業したらしい。本格的な歌手としての活動は、始めたばかりなのだという。ネコミミ族らしいしなやかさと優美さをたたえた彼女の外見からは少し想像が及ばないような、力強い歌声だった。メジャー・キーのポップな曲調なのに、聴いているとなぜだか切なくなるような、胸がかすかに締めつけられるような心地になる。ティーンエイジャーから大人へと変わっていく歳ごろの彼女は、何かを掴もうと必死でもがいている渦中にあるのだろう。その切迫した感覚が、歌に表れているのかもしれなかった。
あるいは。
美しく透き通っているけれど、はかなさよりも強さを感じる声に耳をそばだてながらアクアは考える。——十代をとうに過ぎても、「何かを掴みたくて」「もがき続けている」自分自身の心を投影しているだけかしら。
いずれにしても、優れたポップ・ミュージックは、観客に、自分のことを歌っているように思わせるものなのだ。
「一人きりでいるときでさえ、本当には一人でいるという感じがしないのよ」
——彼のこと、考えてしまうから。今何をしているかな、ちゃんとご飯食べたかな……ってね。
アクアの隣で抹茶ラテを啜っていたルアは言い、灰皿に煙草の灰を落とした。憂いをたたえた表情は、それでも硬いものではなく、やさしさと諦念が綯い交ぜになった微妙な陰影を帯びていた。
「愛、だね」
ルアの言葉を聞いていたフレイヤがだしぬけに言った。「それって、愛だよ」
「愛かしら?」サキュバスの彼女はため息混じりに応える。
ここにいないひとのことを思い浮かべるということ。
そのひとの不在までもが、自分のなかで強い存在感を放つということ。
それを愛と呼ぶのなら、ひょっとすると……ことによると。
「アクアは?」
「私が……何です?」
「恋はうまくいっているの? 今日は、マートルと一緒じゃないんだね」
「こっ……マートルさん、とは、そんなふうでは……」
不意を突かれて、アクアは目を白黒させた。
「もうとっくに、二人は付き合っているのかと思ってた」
緑髪の女の子は笑いながらそう言った。発せられた言葉の明るい響きが耳に小気味よい。気恥ずかしくはあったけれど、嫌な気はしなかった。そこが彼女の魅力なのだ。はっきりものを言うのに、それでいて、向き合うひとの気持ちを和らげてくれるようなところが。他者を愛し、衝突することを恐れていない。
自分にもフレイヤのような愛と勇気があったなら、今すぐにでも伝えられるのだろうか——とアクアは思う。マートルに、想いの丈を。
何を見てもマートルを思い出すということ。自分の世界が彼女の存在で満ちているということ。
人生に与えられたすべてを、マートルと分かち合いたいということを。