転送機バグ 一九九六年、夏。
夏休みになり、セミもうるさく鳴いているある日。コンビニ帰りの最中。ふいに人の気配を感じて日の当たらない路地裏を覗き込んだら、誰かは知らないけれど人が倒れていた。俺は慌てて誰かに助けを呼ぼうとしたのだけれど、その人影――男が動いて俺の手を掴んだ。
「……ごめん、人呼ばないで」
「だって、傷だらけじゃないか」
頬にも腕にも擦り傷や切り傷がある。よく見れば高校生だろうか。小学生の俺よりずっと背が高い。何かいかついゴーグルを額にはね上げ、学ランの上にポケットのたくさんついたカーキ色のベストを着ている以外は普通の人間なのに、どこか、何かが違うと感じた。男は「よいしょ」と言って路地の壁を背に座り込む。俺は不思議とその男に興味を惹かれた。
「アンタ、何者なんだ」
「あー、俺に関わらないほうがいいよ? さっさとおうち帰りな」
その言葉に俺はむっとしてしまう。こっちを完全にガキ扱いしている。確かに俺はコイツから見ればガキかもしれない。でも。
それにどうせ家に帰っても共働きのうちは母さんも父さんもいないのだ。
「じゃあ名前くらい教えろよ。じゃないと人呼ぶぞ、不審者」
そう言って俺が食い下がると男は「困ったなぁ」と言ってあぐらの上に片肘をついて考え込んでいる様子だった。
「んー……カラスとでも呼んで」
「どう考えても本名じゃないだろ。馬鹿にしてるのか」
「世の中には知らなくていいこともたくさんあるの。
それに俺の髪と目、よく見てみな。カラスみたいに真っ黒だろ」
そう言って俺に顔を近づけてくる。男の言うとおりに髪も目も真っ黒だった。カラスという偽名もあながち的外れではない雰囲気で。
世の中にある知らなくていいことなんて思いつかなかったが、俺はぎゅっと拳を握りしめると男の顔を見据えた。
「じゃあ俺はお前とは違うから名乗る。皆守甲太郎だ」
「みなかみ……!?」
男が明らかに慌てたので俺はどうしたのだろうかと不審に思う。一拍置いて俺のことを頭から爪先まで眺め下ろすと一人で何やら納得している。
「……あ、それアイスだろ。溶けちゃうぞ」
「あ」
男――カラスが俺の手にしているレジ袋を指差す。すっかり忘れていた。コンビニにアイスを買いに行っていたことを。俺は袋からアイスを取り出した。パピコ。どうせ分ける相手もいないのに今日は無性に食べたくなって買った。どうせなら、と俺はカラスに訊く。
「……半分、食うか?」
「え、いいの? じゃあもらおっかな」
俺はカラスの隣に座るとパピコの袋を破いて中身を二つに割った。片方をカラスに渡す。
「ありがと」
俺は頷いて、カラスと一緒に吸い口をちぎって開ける。そして日光や辺りの熱気でほどよく溶けたアイスを吸う。冷たくて甘くて、美味しかった。俺は一人でものを食べることが多いので、本当の名前も知らない、どこの誰かも分からない男とアイスを分け合っているなんておかしな気分だった。ふふ、と笑いがこぼれる。
「なあ。甲太郎って家ここの近所なの?」
「そうだけど」
「へーそっかー」
ふんふん頷きながらカラスはパピコを吸っている。
「甲太郎は学校、楽しい?」
「そこそこ。上級生がたまにウザい以外は」
しばらくして俺も食べ終わったのでカラスの分の食べ終わったゴミもまとめてレジ袋に入れる。
「カラスは、この後どうするんだ?」
「俺はここにいるよ」
「じゃあ明日も会えるか?」
「分かんない」
カラスは曖昧な笑みを浮かべる。俺はきっともう会えないだろうなと思って立ち上がるとカラスに抱きついた。血と火薬の匂いがする。
「甲太郎?」
一瞬驚いたような声でカラスは俺の名を呼ぶと、ぽんぽんと背中を叩いてくる。その手のひらは大きかった。
そうして俺はがばっとカラスから離れると振り返らず家に向かって走り出す。家について荒い息のままで鍵を取り出して玄関を開ける。すると、あれは夢だったんじゃないかという思いが強くなってきた。レジ袋の中の二人で食べたパピコのゴミだって、現実だったという証拠にはならない。
翌日、同じ路地裏を覗いてもカラスはいなかった。きっともうこの街のどこにもいないのだろう。不思議とそう思った。