with you月が皓々と輝く午後9時。静かな靴音を響かせながら、ドラコルルは階段を登っていた。
朝からピリカのあちこちを飛び回りゆっくり休める暇もなかった体はクタクタで、先程からずっと腹が鳴っている。
目当ての階に辿り着いたところで、扉を開け、吹き抜けの廊下に出る。ドラコルルの住まうこのマンションはピリポリスの中心からやや離れたところにあり、廊下からは美しい街並みが見渡せる。
身を寄せ合うように群立する建物に灯る光の、あのひとつひとつに人がいて、誰かと共に暮らしている。その穏やかな営みは、守るべき対象ではあれど自分とは縁遠いものだと思っていた。
ピンポン、と扉横のチャイムを鳴らす。
自分で自分の家のチャイムを押すというのは未だに慣れない。少し待つと、中からドタドタと足音が聞こえ、鍵が開けられる音がした。
「長官!おかえりなさい!」
開かれた扉の中、そこに立っている大きな男に満面の笑みで迎えられ、ドラコルルは頬を緩ませた。
「ただいま」
「どうでした?今日の出張」
「治安大臣の合意は取れたが、警察の方はまだ時間がかかりそうだ」
「あ〜、まあ、そうですよねえ」
ドラコルルが上着を脱いでソファの背もたれに掛ける間、副官はキッチンに立って夕食の準備をしていた。何が出るかは、見なくとも匂いで分かる。鼻の奥をくすぐるスパイスの香りに、ドラコルルは笑みを零した。
「今日はカレーか」
こちらに背を向けてカレーをよそう副官の腰に手を回す。
「はい!ほら、見てくださいこれ、具を星形にしてみたんです」
にぱっと笑う副官が鍋の中を指差す。色とりどりの具材たちが、綺麗な星の形をしてルーの中に浮かんでいた。
「ふむ、なかなか面白いな」
「でしょう?型抜きを使うと結構楽に作れるんですよ」
そう言いながら副官はカレーを装って皿に移す。その様子を、後ろから抱きしめて見ていたドラコルルはハッと気づいた。
器が2つある。
「もしかして、副官も今から食べるのか?」
「そうですよ?」
さも当然、といった顔で答えた副官に、ドラコルルは目を丸くした。
「今日は定時で上がったのではなかったのか?」
「ええ、定時上がりでした」
「ならば何故」
矢継ぎ早に問うドラコルル。副官は一呼吸置いてから静かに答えた。
「一緒に、食べたくて…………あっ、くっ、くるし、長官!」
「す、すまない」
ドラコルルはぱっと手を離した。思わず副官に抱きつく腕に力を入れ過ぎてしまった。今はデスクワークが多いが、ドラコルルとて体格の良い、筋肉質な体をした成人男性である。副官ほどではないが勿論力は強い方だ。
「もう、長官のカレー落っことすところでしたよ」
軽く笑った副官に、カレーがよそわれた皿を手渡される。受け取ったドラコルルは、ぽかんとした顔で副官を見上げた。
「先に食べても良かったんだぞ?」
「いやあ、9時までなら耐えれるかな〜と思って。ほらほら、早く座ってください」
ここの主人は私なのだが……と思いつつも、ドラコルルは促されるまま席に着いた。
お互いのマンションのスペアキーを交換して1ヶ月。副官がドラコルルの家に来る方が多いせいか、すっかり家の物の配置を把握されてしまっている。冷蔵庫の中身に関しては、今は副官の方が詳しいかもしれない。調味料もいつの間にか知らないものが増えていることがあるが、ドラコルルはそれを許容していた。
食に無頓着で自炊も得意ではない主人を差し置き、今やキッチンは副官の独壇場となっていた。
「いただきまーす!」
「いただきます」
2人の声が重なる。今日の夕食は、カレーとサラダ、そしてパンだ。
副官の作るカレーは、甘くてコクがある。ドラコルルの好きな味だ。以前、どうやって作っているのか聞いたことがあるが、実はルーにケチャップを入れているのだと、自慢気に教えてもらったことがある。ならば私もと再現を試みたが、どうやっても同じ味にはならなかった。材料は同じはずなのに不思議だ。分量だって寸分の狂いなく合わせていたのに──分量?
「そう言えば、もう分量を間違えたりはしていないのか?」
「え?」
カレーがついたスプーンを舐める副官に、ドラコルルは言葉を継いだ。
「前に、カレーを作り過ぎたからと余りをくれたことがあっただろう」
まだ付き合い始める前、友人のような、穏やかで生ぬるい関係にあった頃、副官にカレーのお裾分けを貰ったことがあった。あの時貰ったカレーに、随分と心が慰められたものだ。
ドラコルルにとっては他愛無い話のつもりだったが、返事は返ってこなかった。
「副官?」
黙り込んでしまった副官に、ドラコルルは声をかけた。普通の話題を出したはずなのに、副官はバツが悪そうな顔をしてスプーンをぎゅっと握りしめていた。
何故だ、今の会話のどこに問題があった。副官を不快にさせるような要素は無かったはず。
食卓に重い空気が漂い始める。どう切り出そうかとドラコルルが思案している中、先に口を開いたのは副官だった。
「その、嘘なんです」
嘘?一体何の話だ。
ドラコルルがそう口にする前に、副官はさらに続けた。
「作り過ぎちゃったっていうのは嘘で、本当は……長官に食べて欲しくて作ったんです」
ぽかんと口を開けるドラコルル。副官はスプーンを皿の上に置いて、テーブルの上で手を組んだ。
「あの頃、長官とほとんど夜ご飯食べられなかったでしょう?だから、長官と同じもの食べて、一緒に晩ご飯食べてる気分に……」
副官の顔が少しずつ照れの色に染まっていく。
「そうか」
俯いていた副官は、ドラコルルの声に顔を上げた。
「く、くくく……ふふ」
ドラコルルは口元を手で覆って、肩を揺らしていた。
カレーを差し出した時の副官がやけに緊張した様子だったのは、そういうことだったのか。
断られたらどうしようと不安に思っていたのだろう。何ともいじらしいではないか。
「奇遇だな副官。私もあの日、一緒にカレーを食べたかったと思っていたよ」
「ほ、ホントですか」
「それにしても、私を欺こうとは良い度胸ではないか」
パッと顔を明るくした副官を、細めた目で見つめる。
副官はうぐぐと恥ずかしそうに唇を噛みしめた。楽しげな赤い瞳を向けられ、どうにでもなれとばかりに言った。
「だって、俺は寂しかったんですからね!一緒にご飯食べれなくて!」
子供のように口を尖らせた副官を見て、ドラコルルはさらに笑みを深めた。
正式に付き合うようになってから、副官は以前よりストレートに感情を示すようになった。最近は(特にベッドの上では)遠慮のなさに磨きがかかっている気もする。が、素直な気持ちを見せてくれるというのは、信頼されているようで、甘えられているようで、胸が温かな喜びに満たされるのだ。
「明日、買い物に行こうか」
ドラコルルの言葉に、副官は首を傾げた。
「何買うんです?」
「食器類だ。今のままでは少ないだろう」
最低限の食器しか揃えていなかったドラコルルの家に、副官が少しずつ買い足していったのだが、それでも2人で食事をするにはやや枚数が足りない。品数も限られてしまうため、あと何種類か皿が欲しかった。
しかし、それだけが理由ではない。
「それに、揃いの皿が欲しい」
ドラコルルはじっと青い瞳を見つめた。
副官は、それは幸福そうに、あふれんばかりの笑みを浮かべたのだった。(終)