凛と一緒(10) 潔は思った。
嘘だろ。まさか、こんなことが起きるって、あり得るか?
目の前の人物を前にして、衝撃が抜けきれないでいると、固まった潔の反応に目元が険しくなった。
「あ?じろじろ見てんじゃねえよ」
凛ならこの後に殺すぞが接続される。そんな思考に飛んだのは、潔と対面している人物が、凛に思いっきり似ていたから…というよりも、凛の家族だからだ。
糸師冴――――その人物が、潔の目の前にいた。
遡ること十五分前。休日の昼前、潔は外出着で家から出るところだった。
「世っちゃん、凛くんのところに行くの?」
「うん。今から凛と遊ぶ」
「じゃあ、今日の夕飯は凛くん呼んでね。お鍋の予定だから」
わかった~いってきま~す。スニーカーを履いて家を出た潔は、凛の寮に向かった。今日は凛の家でホラーゲームをやる予定だった。ホラーは苦手だけれど、凛の為に凛の趣味に付き合っている。今日やるゲームは怖くないと信じたい。
寮に行く途中に公園がある。そこを通りかかったところで、視野の広い目に、樹木の前でたむろする小学生たちが見えた。何事かと思って、視線の先を見上げたら、高い枝に子猫が登っていて降りられない状況だった。
どうしたの?不審者に間違えられないように優しめに話しかける潔に、小学生らは子猫を指差して説明する。枝の上からか細い声が鳴いていて、なんとかしてあげたいとは思うが、高すぎて潔の背丈では届かない。
「ちょっと待って。別の人呼ぶから」
凛だったら届くだろう。そう思い、凛に連絡しようと考えたところ。
「下がってろ」
ずい、と肩を軽く押された。え?割り込んだ声の元へ振り返る。深く帽子を被った男性が割り込んだ。背が高くて、声の調子からして、潔と年齢が変わらないと思った。服は大人びていて、良い素材のものだ。
いきなり潔を押しのけると、助走なしで樹木に飛びついて、あっという間に枝に登った。子猫に手を伸ばす。目前に現れた人間に子猫が威嚇して伸ばした指を爪で引っ搔こうとするのを躱して、むんずと子猫の首を捕まえると、そのまま飛び降りて地面に着地。無駄の無い動きで子猫を救出した。
小学生たちが感嘆の声を上げていると、子猫が抜け出して逃げていった。ありがとうございます!と叫んで解散していく中、潔は立役者の指に目を走らせた。指先から血がにじんでいる。爪の先が掠ったのだろう。
「ちょっと待って」
男を呼び止めて、潔はバックパックの中を漁った。持ち運び用ケアセットの中には消毒液は入っていたが、絆創膏は切らしている。消毒液をふりかけて、絆創膏のかわりにハンカチを指に巻き付けた。
「応急措置だから、念のため病院に診てもらってください」
ばい菌入るかもしれないし。と付け加えて、顔を上げた。
「ああ」
端的な返答をするその人物の顔がようやく見えた。帽子を被っていたから気付かなかった。限りなく至近距離だったからこそ、やっと見えたのだ。
小豆色の髪、端正な顔立ち、下まつ毛が長い切れ長の双眸…凛を彷彿させる面影。
その瞬間、潔の脳天に落雷した。
サッカーをしているのなら知らない者はいない。日本サッカー界の至宝と呼ばれた人物が、今、目の前にいる。
その名も――――糸師冴。
糸師冴だああああああ――――――――――――――――――――――――っ
潔は絶叫した。心の中で。
糸師冴、ということは。
凛の兄ちゃんだあああああああ―――――――――――――――――――――――っ
潔はまた絶叫した。心の中で。
そして冒頭に戻る。
糸師冴が何でここに?なんで来た?スペインにいるのでは?まさかオフシーズン?だとしてもなんで?ていうか凛の兄ちゃん…やば。どうしよう。なんて説明したらいいんだ?
いきなり初対面の人に弟さんとお付き合いさせてもらっていますと言える図太さも勇気も潔は持ち合わせていない。そんなこと言ったら最悪キレられるか頭の中を疑われる。だって自分がその立場だったら頭がおかしい人間だって思うもの。潔に兄弟はいないけど。
「えと……、こ、こんにちは、糸師、冴さん…助けていただいて、ありがとうございます…」
先ほどから汗が止まらなくて、辛うじて声を絞り出して、とりあえず挨拶と礼はした。あとは知らない。逃げるしかない。
「では、この辺で…」
踵を返して速攻凛に連絡しようとポケットに手を突っ込んだことで、己の失態に気付いた。スマホ忘れた。
「おい」
「ひゃ」
手首を掴まれて奇声を上げた。冴との距離が近い。
「来い」
なんかこれデジャブ。潔の勘は間違っていない。糸師冴は凛の兄ちゃんだった。行動も似ている。違ったのは。
「ダメにしたから好きなの選べ」
デパートに問答無用で連れていかれ、ハンカチ売り場の前に立たされたことだ。コンビニで手近で済ませた凛とは大違いだった。
「い、いや、いいです!そんな悪いですし、ハンカチ一枚大したことありませんので…」
「さっさと選べ」
「だからいいですって…っ」
「選べっつってんだろ。時間の無駄だ」
口が悪いのはやはり凛の兄だ。これ以上引き下がれないと理解して、イセエビのイラストが入ったハンカチを手に取った。次の瞬間ハンカチが消えていた。目を瞬かせていると、冴がカウンターに並んでいた。速い。
「ほら」
「どうも…」
支払いも早かった。現金を持ち歩かない主義なのか。
「ありがとうございます…では、ここで失礼します」
「この辺で蕎麦が食える店はどこだ?」
今度こそ帰ろうとしたが、許さないとばかりに言葉を被せられた。絶対聞こえていた筈なのだが、素通りされた。
「こ、ここの五階に、美味しいお店があります」
「そうか。行くぞ」
今、行くぞって言った?失礼しますって言った筈なのに?
「トロトロしてんじゃねえよ。置いてくぞ」
いやいや、帰るっつってんだけど潔は戸惑いを隠せなかった。我が道を行くこの態度、やはり凛の兄…。冴に鋭い眼を投げられて、逃げるにも逃げられないと悟り、付いて行くしかなかった。五階のフロアの店は敷居が高い店ばかりが並んでいる。潔が言った店もかなりのお値段…だが味は美味だ。財布の中を漁っても足りない値段に青くなる潔を引っ張って、冴はお構いなしに入っていく。皿洗いをする覚悟を決めて、一番値段の安いざるそばを頼んだ。すると。
「キャンセルだ。俺と同じの二つ」
勝手にメニューを変更させられた。潔の了承も無く。
「俺の勘。これが一番美味い」
冴が指差したのは一番お高い松定食ざるそば付きだった。そりゃ美味いだろうけども。
「でも、今、お金なくて」
「誰もお前の財布なんざ心配してねえ」
訳。ここは俺が奢ります。凛と付き合ってなかったら搭載できなかった凛対応要約機能による。
いや言い方。ほんと言い方が一々乱暴なのと言葉足りないの、凛そっくりだ。似たもの兄弟め。
料理が運ばれている間沈黙が続いた。重い沈黙だった。何を話せばいいのかわからないし、そもそも初めて会うし、そもそもなんでここに連れてこられたのか全てが謎でしかない。やっとのこさ料理が運ばれてきたことで、救いがもたらされた。
「うまっ。デラうま~」
「ん」
頬が落ちるぐらいの美味だった。隣の冴が、いかにも俺のお陰だすげえだろって顔で食している。食べ方も凛そっくりだと思ったのは蛇足だ。
蕎麦湯も味わってデザートの蕎麦餅も食べ終わって、デパートを後にする。
「ごちです!あざっす!」
「別に」
お腹も気持ちも満たされたその次に、冴は一点を指差した。
「次はあっちな」
「え?」
帰る空気の筈…冴はどうやら潔を逃がすつもりはないらしい。入ったのは娯楽スポーツ施設だ。入って早々、冴が迷うことなく向かったのは、シュートゲーム…サッカーボールでボードを落とすゲームであった。
ボールを置いて、助走をつけ、足を振り上げる――――スパイクではなくスニーカーで蹴球した。美しいシュートフォームは一切の無駄を感じられない。蹴られたボールは美しい直線で枠の間に衝撃を与えた。一発で四枚落ちた。
「すげえ…」
心からの感嘆が漏れる程、美しいと感じた。糸師冴の蹴球は、凛とは似て異なった美しさがあった。あの天才糸師冴の蹴球…これはまさか、とんでもないものを見ているのでは。
「次お前」
冴が完全コンプリートを決めた後に名指しされる。やるつもりは無かったので困惑していると、引っ張られて蹴球位置に立たされた。さっきの蹴球を見せられた後ではやりづらいのだけれど、冴からの圧に負けて蹴球を放つ。
「踏み込みが甘めえ。そんなんで当たるものも当たらねえよ」
「いやだって、スパイクじゃないし、スニーカーだし」
「んなこたあ関係ねえよ。真面目にやれヘタクソ」
厳しい言葉が飛んできたけれども、自分の足を信じて、蹴球する。冴のようにはいかないものの完全コンプリート。二回ゲームを繰り返した。冴の蹴球を見れただけでも潔には大変なご褒美だ。
「次どこに行くか決めろ」
「じゃあ、ここ行きたいです!」
テンションが上がっていたのもあって、潔の中で遠慮が無くなった。
ダーツ、ロデオ、バスケットシュート、バッティング…やっている間潔は楽しかったし、冴も最後まで付き合っていた。冴は身体能力が高くて、全てのゲームでハイスコアを叩き出した。
「すげえ…何でもできるんですね!」
「こんなんサッカーやってりゃ誰でもできんだろ」
「そうはいかないでしょ」
「アイス食うか?」
「食べ、ます!冴さんありがとうございます!」
冴でいい。敬語もいらねえ。とまで言われてしまって、冴に対する取っ付きにくさが潔の中で消えた。アイスクリームはお互いに抹茶を選んだ。美味だった。
一巡した頃には、太陽が沈みかけていた。
「楽しかった~。ほんとにありがとう」
「別に」
「冴は楽しかった?」
「暇つぶしになったし、色々分かった」
冴の言葉に首を傾げていると、冴が身体ごと潔と向き合った。
「いつまでもハナタレで呆っとしてばっかで面倒くせえし手間のかかる弟だが……凛の相手がお前で良かったと思ってる。馬鹿で鈍くせえ弟だが、頼んだ」
「え…」
「潔」
凛の声が二人の間に分け入った。冴と同時に向くと、凛が珍しく焦った表情で駆けつけた。
「あ…」
潔は完全に凛のことを忘れていたのを思い出した。
「この…馬鹿潔マジで馬鹿カス俺に一切連絡しねえってどういう神経してんだしかも何で兄貴と一緒にいるんだ」
「ご、ごめん!楽しすぎて忘れてたっていうか…」
「楽しんだってなんだ、ああ」
青筋切らした凛の怒りに圧されていると、冴がすっと潔と凛の間に入る。
「馬鹿もカスはテメエだ愚図」
思いっきり凛の頭をぶん殴った冴。よろめいて冴に向いた凛。小さく悲鳴を上げる潔。
「人を思いやる心の無い悲しきモンスターのお前に唯一まともに付き合える彼女になんて口利いてんだ。ア?」
「クソ兄貴…っ」
「潔にこれ以上突っかかるなら俺が相手になると思えクソ愚弟」
さ、冴…?何故か冴が潔の盾になって庇っている。よくわからない展開になってしまった。そうなると凛の怒りの矛先が潔から兄に変わった。
「そもそも何で兄貴がここにいんだよ帰国は明日じゃなかったのかよ」
「一日早まったからついでにお前の彼女見に来た」
「だったら俺に一言言えよ」
「お前の前に潔を見つけた」
「何で潔知ってんだ」
「母さんから写真送られたから。これがお前の彼女って。あちらの両親と連絡取り合ってお前と一緒に写ってる写真送ってもらってるぞ。それが俺に流れてきた」
ああ、そういうこと。最初から知ってたのか。だったら隠す必要なかったのかよチクショウ。
「てか、お前もお前だよ愚弟。お前、一々俺にデートに着ていく服訊いてくんじゃねえよ。兄貴の服着れなくなったからって何だよテメエ、俺よりもでかくなるんじゃねえよ、自分の服なんざテメエで決めろよ馬鹿が。デートのプランだって知るか、何でもかんでも俺に訊くんじゃ」
「兄ちゃんっっっっ」
凛が叫んだ。凛って大声出せたんだ。うわ。凛が転がされてる。初めて見た。凛って兄ちゃん呼びだったんだな。そっちの方が親しみ感じる。二人の喧嘩を傍で見ながら潔はそれらの声を心の中にそっとしまい込んだ。
「潔」
完全に凛を制圧すると、冴は凛の頭を引っ掴んだ。
「クソ愚弟をよろしく頼む」
「いえいえ、こちらこそ」
「もし何かあったら俺に言え。こいつぶん殴るから」
自分は一礼せずに凛の頭を深く下げさせたので取り合えず一礼を返した。ついでに連絡先も交換してもらった。あとでこっそり凛の取扱説明書がもらえるか相談してみようという不埒な考えを凛が察したらしく睨まれた。
「潔になんて顔して睨んでんだ愚図」
やはりそこは兄、弟の考えを察することができるらしく、凛を容赦なく蹴り飛ばす。ひやひやしたけれど、凛が冴にやり返すことはなかった。
そこで解散になるかと思ったら、冴は潔家まで付いてきて、潔の両親に挨拶した。
「弟が大変お世話になってます」
「あら?あなたが凛くんのお兄ちゃん?」
「わあ、兄弟そろってイケメンだねえ」
両親は暖かく二人を出迎えた。ついでに夕飯も一緒に食べた。二人が並んで食べると、兄弟なんだなってつくづく思った…食べ方が兄弟そっくりだ。
冴はそのままホテルに泊まり、翌日には凛と一緒に鎌倉に帰った。潔と両親が二人を送迎して見送った。
冴が新幹線に乗る前に、こっそりと潔に耳打ちをする。
「凛、お前にぞっこんだってよ」
心臓に悪かった。潔は耐えきれずにしゃがみ込み、凛は新幹線に乗車する冴にブチ切れながら付いて行った。
実はというと、凛から冴の話を聞いたことは一度もなかったので、兄弟仲が悪いのではないかと思っていたのだが…どうやらそんなことはなかったらしい。
凛が冴に対して頭が上がらないように、潔もこれから冴に対して頭が上がらないかもしれない。そんな予感を抱いた。
実家に向かう新幹線の中、不貞腐れる弟に、兄は問う。
「凛、お前、あのこと潔に言ったのか?」
凛はそっぽを向いたままだんまりを決め込んだ。絶対話してねえなと察した兄は、弟の優柔不断さに呆れかえった。