いずれはお前のすべてがほしいわたし、藤丸立香は今とても苦戦している。
「……」
鏡の前に並べたお化粧品。どれもこれもCMで見たことがあるもので、でも実際にはわたしは一度も使ったことがない…大人の女性がする化粧というもの。
(今まで一切触れてきたことがなかったから…どうしよう…わからない…)
どこに使うのか、何に使うのか。いやそもそも化粧というものはどれぐらいつけるべきなのか。周りのサーヴァントのみんなに聞くわけにもいかず、かといって自分の判断でやるのも怖くて、それとずっとにらめっこをして…約数分。
「……全然わかんない…」
はぁ とため息をついてうなだれ、視界に一番に映った口紅を手に取る。これを見ると胸が一段とキュッと苦しくなるのだ。
「…せめてこれだけでもつけたいな…」
蓋を外すと薄い桜色の口紅の、先端が見える。くるくると持ち手の部分を回すとそれがせり上がってきて、思わず睨むようにじっと見つめる。外した蓋にはかわいいきれいな桜の装飾もされていて、これをわたしに贈った人物のセンスに、ため息が出る。可愛くておしゃれで、きちんとわたしが好きそうなものを選んでくれた。それがどれだけ嬉しかったか、これを贈られた直後は嬉しさのあまり伝えきれなかった。だから、せめて今日のデートではこれをつけていきたいと思っていたのに…いかんせん、化粧の知識が皆無過ぎる。これではこの贈り物も宝の持ち腐れになって勿体ない。
「…はぁ…」
ため息をつくと、ほぼ同時に背後から部屋の扉が開く音がして、勢いよくそちらを振り返る。いつもの格好と変わらないものの、わたしの方へ近づいてきた彼はどこか浮足立っているようにも見えて、少しだけ吹き出しそうになる。彼はわたしに話しかけようとするとその前に化粧台の上に並べられたものを見て、察したように手を打った。
「小次郎、ごめん…遅くて」
「いや、構わんが…どうした?」
「……化粧、よく分かんなくて…」
「…」
「せ、せめてね、小次郎がくれたこれはつけようと思ったんだよ?でも、変になったらどうしようって…」
もごもごと言葉を紡ぐと彼はわたしの手の中から口紅をひょいと奪い取り、出し過ぎた紅部分をくるくると、ほんのちょっとだけ引っ込める。そうして目線を合わせるように屈むと指を添えて顎を持ち上げて、近づく口紅に思わず声をあげてしまった。
「ちょ、」
「少しずつ覚えていけばよかろう。ほら、つけてやるから口は閉じろ」
「―……」
「まぶたは閉じろと言っていないんだが」
「は、はずかしいから…」
「…」
真剣なまなざしが目の前にあると、恥ずかしい。小次郎のあの群青色の鋭い視線は、見つめすぎると体が溶けてしまいそうになるのだ。だから言われた通り唇をきゅっと引き結んで目をつぶると、なにかが、そっと閉じた唇に触れる。
(…)
唇の形に添って動くそれはゆっくり慎重にわたしを色づかせているような気がして、何度か往復されるたびに、頬も徐々に色づいていく。これは恥ずかしいとか情けないとか…色んな事情があるからで、決してチークを塗ったからではないということを、先に断っておきたい。
「…ほら。目、開けて」
「…、」
「鏡、そこにあるだろう」
「うん…。……わ、すごい…」
「まあ元々立香は肌の血色がよいからなぁ。もっと健康的になって良かったんじゃないか」
「…似合う?」
「…似合っているよ。其方の唇を何度も見ていたおかげだ。この色ならばきっと可愛らしくなると思っていた」
「……小次郎って、そういうこと平気で、言うよね…」
「何か問題が?」
「…ううん。…ありがとう。嬉しい。小次郎がそれくれたとき、本当に嬉しかったから」
蓋をした口紅を、小さな音を立てて化粧台に戻す彼。他にも色々とお化粧品を並べていたのに、小次郎はそれには目もくれず、わたしの腕を引くとそっと立ち上がらせる。ふわりと優しく腕を引く行動にまたボッと頬が熱くなると、指先が顔にかかった髪の毛をやんわりと払う。
「…次は簪でも贈ろうか」
「つ、けかたわかんない、よ」
「わからないのなら、また私がやってやるから」
「…」
「では行こうか立香。其方の行きたいところへならば、どこへでも連れたっても良い」
甘く優しい言葉はわたしの心をときめかせて、腕を引く手に汗をかきそうになる。けれどもわたしはその引く手をわずかに自分の方に引っ張って、制止するような動きに彼は首を傾げて振り返る。
「まだなにか?」
「あの…もう少し、お化粧しておきたいんだけど」
「…あの化粧品は誰から?」
「え?えーっと職員さんとか…あとハベにゃんとか…」
「そこまで着飾らなくてもよい」
「…え?」
「悪い意味で言ったのではないぞ?…其方は私が贈った色だけに染まればよい」
「ぅえっ」
「他の者の色なんぞに染まらんでくれ。…お前にはその紅だけあればよい」
また、とんでもないことを。さっきのでも、もうわたしの心臓は爆発寸前だったというのに、さらにその上をいく気障ったらしいセリフを重ねてくるとは思いもしなかった。
(ど、どうして小次郎ってこうなの…⁉)
胸が痛い。心臓が苦しい。どくどくと脈打つそこを手のひらで押さえると、微笑み細くなる瞳が、わたしの目の奥を覗き込む。動揺して視線を泳がせると端正な顔立ちがスッと近寄り、ねっとりと何度か口づけられて、せっかくの口紅が乱れそうになる。固い皮膚の指先は目元をそっと拭うとふわりと離れ、また手を握り直すと今度こそ、浮足立ったわたしを連れて部屋を後にする。
「こ、こじろ」
「簪を贈ったら次は着物でも贈ってやろうか」
「え、き 着物⁉で、でもそれは…大変じゃない…?」
「まさか。そんなことあるわけあるまい?きちんと意味のあることだ」
「…?意味の、ある…?」
含みのある言い方だった。ただ好きだから贈ったとか、そういうのではおさまらないような…もっと心の奥の方から出たみたいな、意味のある言い方。どちらかというと湿度のある言葉だったように、思う。
(…小次郎、今日、手…熱いね)
指を絡めて握る手のひらは、いつもに比べたら熱かった。わたしよりも体温が低いはずなのに、彼はわたし以上の暖かさをしていた。
(もしかして緊張していたりする?)
もし、もし本当にそうなのだとしたら。いま、あなたは一体…どんな顔をしている…?
「……小次郎、ねぇ」
「…もし私の言った意味がわからないのなら、すべて贈り終えたときにきちんと教えてあげよう」
「…。うん。…あの、今日…手熱いね」
「そう思うか?」
「うん」
「はは。どうにも、柄にもなくな…緊張しているんだよ」
「…どうして?」
「たぶん、今日の立香がいつもと違う雰囲気だから かもしれんな」
「まさか」
「本当だとも。愛しいおなごのほんの少しの変化にさえ、男というものは心動かされるものなのだぞ?」
またまた、そんなこと言って。こんな風に冗談で返したかったのに、振り返った顔があまりにも、"男の人"の顔をしていて。落ち着きかけた心臓が再びどくっと跳ねる。
(女の人も、たぶん好きな男の人の些細な表情の変化に…心動かされるんだと思うよ、小次郎)
…まあ、わたしはまだまだ子どもなところもあるけれど。それでもいずれ、彼のもとで女になってゆくのだと思う。
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