水流 アイツが合い鍵というものを使いこなせるようになって数週間、ドアをガンガン叩くことはなくなった。勝手に来て、勝手に帰る。つかずはなれずの距離がちょうどいい。家の中でも言い争いは絶えないけれど、諫める人がいないから、穏やかに終息するようになったのは成長だと思う。
今日も勝手に来た音がする。ガチャ、バタン、という乱暴な音。いつもはそのまま部屋の中に入ってくるのに、洗面所から水を流す音がする。めずらしい、普段は手なんか洗わないのに。俺から注意してやっと、しぶしぶ、といった様子が通常だ。気に入らない汚れでもあったんだろうか。何にせよ、洗ってくれるのはありがたい。そのまま身体を触られる時も気になってしまうからだ。
しかし、今日は何かおかしかった。水音が止まない。もう一分は経っている。そんなにしつこい汚れなのか。でもそれならば、アイツの苛立った声も聞こえてもよさそうなものだ。不思議に思い、洗面所に向かう。
「おい、どうした」
「…………」
アイツは無表情で、一心不乱に水の中で手を擦り合わせていた。鬼気迫る背中は俺の声を跳ね返し、何者も寄せ付け難い雰囲気だった。俺はなんと声をかけていいのかわからず、ただただそれを見ていることしかできない。
「…………」
「……風呂入ってもいいぞ」
「…………」
「……どっか汚れたのか」
「…………」
執拗に、念入りに、丹念に、両方の手を擦り合わせている。まるで染みついた何かをこそぎ落す様に。どんなに洗ってもそれは剥がれ落ちない。そのまま指紋が溶けて消えてしまうんじゃないか。
俺は、そっと横からアイツの手に手を重ねた。こんなことをしていいのかわからなかった。嫌がられるに決まっているけれど、このままだと一生アイツはここから動かないと思った。
石鹸をつけて、アイツの手を挟む。そのまま手のひらと手の甲を擦った。意外にもアイツは大人しくされるがままになっていた。指の一本一本を洗う。当たり前だけど、水の色が変わることはない。
「これで、大丈夫だから」
「…………」
「全部、流れたから」
アイツと自分の手をタオルで包む。綺麗に整えられたお互いの指がしっとりとしていた。
アイツが何を流そうとしていたのかはわからない。何があったのかわからない。何かしでかしたのかもしれない。大量の水は血を連想させたけど、そんなこと絶対に言わない。アイツの手は綺麗だ。それは俺が一番知っている。
部屋に入った途端、後ろから手を回された。そのまま服の中に入ってくる手を拒めるわけがなかった。乱暴なキスに応えながら、アイツを受け入れる。綺麗な手が身体を舐める。水のせいですっかり冷たくなった指先がくすぐったかった。
合い鍵を渡してよかったと思った。アイツはいつでも手を洗える。タオルを洗濯しておいてよかった。アイツを包み込むことができる。苦しい息の向こう側で、アイツの縋るような眼光が揺れた。俺で上書きできるなら、いくらでも抱けばいい。そう伝えようとして、彼の手のひらをひと舐めした。無味無臭の、冷たい手のひらだった。