口元に手の甲を当てられた。前触れのない仕草に目を丸くする。手を避けながらどうしたんだとカインが問えば、目の前の紅の瞳が呆れたように細くなった。
「自覚はあんだろ」
最近へばりすぎだとブラッドリーがため息を吐いた。そう言われると小さくなるしかない。最近は鍛錬に力が入りすぎて妖力が尽き、妖狐としての姿を保てなくなったのは一度や二度じゃなかった。その度にカインを迎えに来てくれるのは、いつもブラッドリーだった。一番はやく飛べるからだと言うけれど、そこにカインへの心配があるのはわかるから申し訳なくて、くすぐったい。ごめんと謝れば、再び口元に手の甲が現れた。
「そう言うなら行動で示せ」
「行動って」
差し出された手に視線を落とす。天狗族にだけ刻まれる紋章が浮かぶ甲は、いつも通りにそこにあった。怪我をしているから治療しろということかと思ったが、そういう訳でもないらしい。何か渡すという事なら手の平を上にするだろうし、ブラッドリーの求めるものがとんと見当がつかずに首を傾げてしまった。ちらりと顔を見上げれば、知らねえのかと面倒そうに髪を掻く。
「天狗の紋章は、妖力を渡せるんだよ」
「そんなことが出来るのか」
「まあな」
てめえにはぴったりだろと言って、ブラッドリーの手の甲が唇に触れる。
「舐めろ」
「なめっ……?!」
「体液がねえと出来ねえんだよ。俺は別に、他のもんでもいいけどな?」
楽しそうに笑って離れかけた手を慌てて掴む。体液と言っても種類はたくさんあって、涙や汗でもきっと大丈夫なんだろうけど。それを出すまでに何をするのかと考えると首を振るしかない。きっと自然に出るまで待ってはくれないのだ。だったら舐める方がよっぽどいい。
意を決して口を開くと、早くしろと上機嫌な指先が頬を撫でる。小さく震えてしまった肩には知らんふりをして、恐る恐る紋章に舌を這わせた。単なる体液を渡すだけの仕草のはずなのに、やけに恥ずかしい。こんな明るいうちから何をやっているんだと考えそうになって、別に夜にならないと出来ないことじゃないと思い直す。おかしなことがよぎりそうになって慌てて頭の奥に押し込めた。
何とか手の甲に広がる紋章全てを舌で辿り、顔を上げる。涎で濡れる様が妙に艶めかしく、思わず目を反らしてしまった。頬が熱い。ぎゅっと引き結んだ唇に指が触れた。
「まあ、こんなもんだな」
印もついてる、と呟かれた言葉に目を瞬いた。どういう意味だと聞き返せば、開いた唇から指先が咥内に入り込み、歯列をなぞる。
「俺様のもんだって証しだ」
「……そんなの、聞いてないぞ」
「嫌なら消してやろうか」
咄嗟に言葉を返せなかった。それが十分答えになるのだと気づいても後の祭りだ。もっと喜べと笑う指先に、悔しくなって噛みついた。
またやってしまった、と目を閉じた。ここ最近はブラッドリーから定期的に妖力を貰っていることもあってか尽きることも無くなっていたのだが、今日は夢中になりすぎた。口から洩れるのは人語ではなく獣の唸り声だ。今のカインには、力の入らない体を地面に横たえることしか出来そうになかった。きっとまた叱られるんだろうと思うと気が重い。自分が悪いのは重々承知してはいるのだが。
深い森の奥には、あまり陽が入らない。ざわざわと木立を騒がせる風を恐れはしないが、何だか一雨来そうで嫌な天気だった。大樹の根元まで辿り着けたのは僥倖だったかもしれない。なるべくなら雨に濡れたくはなかった。
以前びしょ濡れになったときは、と考えはじめたところで、遠くでかすかに羽ばたき音が聞こえた。来てくれたのだと思うより早く、顔の毛並みが強い風に煽られる。轟音の中でも重苦しいため息がよく聞こえた。
「てめえは本当に学ばねえな」
すまないと声に出したつもりだが、伝わったかはわからない。いい加減にしろと言いながら、口元に手の甲が差し出される。ほんのり熱を持った紋章に舌を伸ばした。夢中で舐めていると、ようやく視線が高くなった。零れる音は、きちんと人の言葉になっている。小さく吐息が漏れた。
「ありがとう、助かった」
それからごめん、と謝る言葉をあしらって、ブラッドリーが手を伸ばす。目元を撫で、頬を滑り、首筋を伝って着物の襟合わせに辿り着く。ぐっと力をこめられると、合わせが広がってはだけてしまった。黒の肌着を指が這う。咎めるように名前を呼んでも離れる気配はなかった。
「まだ足りねえんじゃねえか?」
「っ、いや、もう十分もらったから……」
「まだ欲しいのかよ、仕方ねえな」
カインの言葉を聞こえないふりをして、ブラッドリーの指が腰の組紐にかかる。軽く力をこめられただけで、あっさりほどけていってしまった。もしかしたら妖術を使ったのかもしれない。そのまま指先が素肌に触れようとするのを見つめてしまって、はっと我に返る。
ここは外だ。
慌てて顔を上げれば、剣呑に細くなった紅の瞳が見えた。それしか見えなかった。大きく広げられた翼が周りの風景を隠し、見えなくさせる。黒く閉ざされた空間では、ブラッドリーの顔を見つめるしかなかった。小さく動いた喉仏を撫でられる。
「嫌ってほど、与えてやるよ」
唇に噛みつかれると、もう何も見えなかった。