春の訪問者もう無理だ
西日の差し込む部屋で長いこと横になっていたサクモは、ゆっくりと体を起こした。そして虚ろな目のまま、ふらふらと洗面所へと入っていく。そこには洗濯物干し用のロープが置いてある。
ビッ!
手に取ったロープを力一杯左右に引っ張ってみた。
うん、これなら痩せ衰えた自分の体を吊るすことも出来そうだ。
青白い顔に力無い笑みが広がる。
部屋に戻り、鴨居にロープをかけたその時。玄関扉を叩く音がした。
「!」
びくり、と細く尖った肩が跳ね上がる。
「ごめんください」
ガラス面に小さな影が写る。
「ごめんください」
一度は無視しようとしたが、再度聞こえてきた声にため息をつくと、サクモはロープから手を離し玄関へと向かった。
「こんにちは、サクモさん」
扉を開けると、太い眉に大きな黒い目をした少年がにこにこと笑いながら自分を見上げていた。夕暮れのオレンジ色に艶々とした黒髪と緑色の服がよく映えている。
「やぁ…ガイ君…」
強張った顔の筋肉を無理やり動かして笑顔を作る。
「あのぅ」
「カカシならいないよ。今日は夜遅くまで帰らない」
息子は自分が命じて他里へと使いに出していた。かつてはかの三忍とも互角の実力者であるともて囃された父親の、現在のこの無様な、情けない姿を見せる事が忍びなかったのだ。
「カカシ君に用じゃないよ」
「私に…?」
「あの、これ」
手にぶら下げていた袋をごそごそと探ると、ガイは小さな蓋付き容器を取り出した。
「ボクが採ってきたふきのとうでふき味噌を作ったの」
「ふき味噌…」
「うん、ふきは春を告げる山菜でしょ?サクモさん、ずっとおうちにいるって聞いて、もう春が来たんだよ!って知らせたくて」
マイト・ダイという男は奇抜な身なりや発言で里内の皆から敬遠されてはいたが、いたずらに人の悪口を言ったりするような人間ではない。自分が家に籠りきりだと言うことは口さがない大人達の噂話ででも耳にしたのだろう。
「ボク、サクモさんに食べて欲しくて沢山採ったんだよ」
ガイはエッヘン!と胸を張りながらサクモを見つめる。その姿に、サクモは鼻の奥がツンとするのを感じた。
「お酒のおつまみにどうぞ!とっても美味しいよ!」
「ガイ君は食べたの?」
「えっと…まだ」
ガイは視線をきょときょとと泳がせた。子どもの舌にはふきは苦味が強いのだろう。どうやら味見は父親に任せたようだ。
「そう…」
サクモは容器を受け取り蓋を開けるとガイの小さな、傷だらけの手を取り、人差し指を立てさせた。
「あっ」
そのまま小さな可愛らしい指を、ずぶり、と柔らかなふき味噌に突き入れた。ゆっくりと味噌を掬い取らせたあと、サクモはその指を自らの口に運んだ。
「はっ…あ…」
自分の指にサクモの熱い赤い舌がぬるりと絡まり、味噌を舐め取っていくその様子からガイは目が離せなかった。
「うん…とっても…美味しい」
ちゅぱ…と音を立てて指を解放したサクモは、戸惑いを隠せぬ表情のまま真っ赤になっているガイの顔をじっと見つめた。
乾いていた口の中に、ほろ苦いふき味噌の味と、少年の柔らかい指の感触が残る。
「この味を…また来年も…その先も」
苦味と柔らかさは次第に甘さを帯び、サクモの口を、心を、体を潤わせていった。
「私に味あわせてくれるかい…?」
おしまい