九十九点に花まる/足主 買い物に行くのに外に出ると、向かいのマンションの前で母親らしき女性と男子高校生が並んで写真を撮っているところだった。おそらくカメラを構えているのが父親だろう。母親の背をとうに追い越した若い背丈は照れくさそうにしながらもどこか誇らしげだ。身を包む制服には着古した観があるものの、若者特有のさっぱりとした清潔感があった。瞬間、目を突くような眩しさ──目の前の光景のせいか、さんさんと降る太陽のせいか、あるいはそのどちらもなのか──に目を細める。
なんてことはないハレの日、卒業式当日の朝の光景だった。
──もうそんな時期か。早いなあ、まったく。
歳を重ねるごとに時間の流れが勢いを増しているように感じる。誂えたように咲き誇る桜の花だってついこの前見たばかりのような気さえする。目の前で、地面に散った花弁が自動車に巻き上げられた。少しばかり浮遊したそれが履き潰したスニーカーの上に音もなく降りてきて、僕は足を大げさに踏み出すことでそれを払った。
僕には自分の卒業式どころか、高校時代そのものの記憶があいまいだ。三年間の思い出の証左となり得る卒業アルバムも、持ち帰ったはいいもののすぐに捨ててしまった。
そもそも、僕の高校時代とは何年前になるのだっけ。頭の中で計算しようとして、やめた。そんなことしたってあんまりにも意味がない。羽織ったパーカーのポケットに手を突っ込んで、そこに入った買い出し用のメモをなんとはなしに握る。自転車のベルの音、連れ立って学校へと急ぐ小学生の声、知らない家族たちの感動的な涙声。昔に比べたら苛立つことも少なくなったが、それでも祝福してやるような気分にはとてもなれなかった。
穏やかな生活を送っている、と思う。取り返しのつかない過去を背負っているわりに、僕は分不相応な破格の日常を手にしている。それを今さら誰かに悪いとは思わないけれど、居心地がまったく悪くないかと問われると微妙なところだった。だから道端で抱き合う親子を祝福できなかったり、桜の花を見てうんざりしたりする。
──それは元々の性格なんじゃ……。
呆れた声が聞こえたような気がした。幻聴を聞くなんて、とうとうボケてしまったのだろうか。彼──鳴上悠。僕のコンプレックスをことごとく刺激する存在。彼のせいで僕の人生ははちゃめちゃになり、彼のおかげで僕の日常は必要以上に穏やかになった──とはここ一月ほど会っていない。彼の方が何やら忙しく、立て込んでいるらしかったからだ。問い詰める理由もなかったので具体的なことは知らない。ただこの一月で抱いたのは、甲斐甲斐しく世話を焼きにくる彼がいなくても案外なんとでもなるものだなあ、という感慨だけだった。
──孤独なのが性に合ってるんだ。きっと。
彼に打ちのめされて、人と人との絆がもたらす力とやらに人まずは納得した。そして振り返ってみると、自分もいつの間にか絆めいたものを握らされていたことに気づいたりもした。
ただ、それだけだ。僕の心の中に劇的な変化などはなくて、あるのは虚飾のいくらか剥がれた歪な自己愛だけだった。
僕は自分が嫌いだ。だけど結局、僕が欲しい百点満点の言葉を与えてあげられるのは僕自身しかいなくて、だから僕は大嫌いな僕自身を慰めるために死にきれない思いをしている。たとえ気にかけてくれる人がいようが、僕の孤独は誰にも覆しようがなかった。
欲しがっても手に入らなかったもの、もしくは一度手に入れたのに、取りこぼしてしまったもの。捨てられない卒業アルバム、団らんの場所に飾られた家族写真、忘れられない電話番号。それらをくだらないものだと見下すことでしか、かつての僕は僕の心を守れなかった。それが僕の百点満点だと思っていた。
──だけど、それが間違いだったとしたら?
ぴたりと足が止まる。桜が舞いちる三月の並木道。満開の桜をふり仰ぐ人々は、誰一人俯いた僕に気がつかない。
結局のところ、僕のやってきたことは何だったんだろう。人を殺した。絆を手放した。頼りない社会のルールに身を任せて、罪を償おうとした。それで、この後は……。
僕はもうずっと、僕の百点満点がわからない。
─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─
買い物を終えてアパートへ帰宅すると、出かける時にかけたはずの鍵が開いていた。この家の合鍵を持っている人物は一人しかいない。案の定、玄関には僕のものではない靴が一足、きちんとかかとを揃えて置いてあった。当の本人はキッチンで何やら料理をしているのだろう。肉の焼ける音とオリーブオイルの食欲をそそる良い香りが玄関まで届いている。今しがた買ってきた弁当が無駄になったが、彼の手料理の方が出来合いの弁当よりずっと魅力的だった。
ほだされている、と思った。スニーカーを脱いで彼の革靴の横に並べる。ほだすとはつまり縛るということで、確か字は「絆す」と書く。
──ほら、また「絆」だ。
気づけば家を教えていた。気づけば家にあげていた。その次にキッチンを使わせて、その次は寝室。共に寝起きした回数が両手の指の数を超えて、そして──。
気づけば、その手に鍵を預けていた。
悠のそばにいるのは心地がよかった。僕の心の傷の象徴だった少年はいつの間にか立派な大人になっていて、僕の怠惰をことごとく甘やかした。うまい飯で僕を懐柔し、僕の憎まれ口を笑って許し、時には言い返し、そして幸せそうに僕に抱かれた。
こうなってしまえばもう、手放すなんてできなかった。
「足立さん、おかえりなさい」
家主の帰宅に気がついた悠が、キッチンから顔を覗かせた。僕の家のキッチンは、リビングと廊下を隔てるドアのすぐ横にある。だからわざわざ料理の手を止めなくても、彼は僕にこうして顔を見せることができる。同棲にはうってつけの間取りだろう。
「最近来られなくてすみません。けどやっと仕事が一段落したので、またしばらくはこうしてご飯作りに来られそうですよ」
「へえ、本当。そりゃあ助かる」
喜色を悟らせないようにわざと白けたような声を出すが、悠は気にした様子もない。
「俺が来ない間、ちゃんと食べてましたか?前より少し痩せたみたいですよ」
僕の態度を咎めるどころか、そんなことまでわかるのだと言う。
「ええ?そんなことないと思うけどなあ」
はぐらかしてはみたが、おそらく無意味だろう。実際この一ヶ月で何キロか落ちていた。不健康とまでは言わないが、風呂場の鏡に映る自分は以前より頼りなげだった。
「駄目ですよ。今日からまた食事管理ですね。何か食べたいものとか……」
「いらないよ」
彼の言葉を遮って、きっぱりと言い放った。突然のことに二の句をつげないでいる彼に、僕は畳み掛ける。
「ごめんね。しばらくちょっと都合悪いんだ」
申し訳なさそうな顔をつくると、彼は何やら言いたそうな素振りを見せたものの、それ以上追求してこなかった。
だって、ほだされている。こんなにも、全身全霊で。
悠のそばにいるのは確かに心地よい。この心地よさはすなわち、幸せと呼んでもきっと差し支えないだろう。でも、だからこそたまらなく恐ろしくもあった。
見返りを望まない愛情は、慈悲だ。悠の愛情はいつだってそうで、まるで僕を自分自身にするように尊重し慈しむ。それはたぶん、いつかの日に僕が見失ってしまった僕の百点満点だ。それを理解して享受してしまったその時、彼は僕に特大の花丸を烙印して、僕をどうするつもりだろう。僕にはそれがなんだかとてつもなく恐ろしいような気がして、時たまこうして絆の呪縛から手足を出す。
悠はその日、共に食事をすることなく帰っていった。
僕は自分が嫌いだ。彼の献身に対して何一つ返せない僕が、これ以上何を望めばいいというのだろう。何も心配いらないと、もう十分にもらったと、そう素直に告げることで彼をどれだけ報えるだろうか。
「何もいらないよ」
僕はいつも自分の言葉足らずを呪ってばかりいる。
─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─
その次の日も、彼はうちにやってきた。
「都合悪いって言ったのに」
ばつが悪そうなのはポーズだけで、彼が来てくれたことに心底ほっとしていた。きっと来るだろうと思ってはいても、実際に彼の顔を見ればああよかった、と思わざるを得なかった。
懲りないなあ、と思う。僕も彼も、まったく懲りていない。僕たちは絆という紐の端と端を持っているけど、本来均等な力で引き合うべきそれを僕が引き返すことはない。だから僕は彼に引きずられるようにして、こうしてそばにいることを許してしまう。
彼はその日の昼にロールキャベツを作り──昼間からやけに手間のかかるものを、と思ったが、彼はそれが僕の好物だと知っていて作るので何も言えなかった──僕たちは今度こそ二人でそれを食べた。
「足立さん、俺は、人ってみんな平等に孤独だと思うんです」
食事を終えて、リビングで何をするでもなく各々がくつろいでいる時だった。彼は僕が腰掛けて本を読んでいるソファには座って来ず、僕の足元のフローリングに座ってぼんやりとテレビを見ていた。テレビに映っているのはお昼時の情報番組だが、彼は視線をテレビに向けているだけで、番組は見ていないようだった。
外から子どもたちのはしゃぐ声がする。
「他人の心のすべてを理解できる人はいない。どんなに愛していても、どんなに近くにいても、心は結局持ち主だけのもので、もしも誰かの心の九九パーセントを察することができたとしても、最後の一パーセントだけはどうしても埋まらない」
彼にしては抽象的な物言いだと思った。彼はリアリストというほどではないが、それでもこういう煮え切らないようなことはめったに言わない。僕もどちらかと言えば抽象的なテーマを好む方ではないのに、急に何を言い出すのだろう。
「つまり、人と人とは本当の意味ではわかり合えないから、みんな孤独だって言いたいの?おいおい、君がそれを言ったらおしまいだよ」
「わかり合うのにすべてを理解する必要はありませんよ。歩み寄ることが大事なんです」
確かにそれなら彼の言いそうなことだと思った。
「でもさぁ、君はそれでいいわけ?一パーセントだけ埋まらないなんて気持ち悪いじゃない。これがゲームなら大問題だよ」
僕は絶対嫌だね!ソファに寝転がりながらそう突き放す僕を振り返った彼は、何故だかものすごく微笑ましそうな、むず痒いような変な顔をした。
「なに」
「いえ、べつに」
べつにと言いつつ口の端っこがにやけている。その子供じみた仕草に、たちまちに毒気を抜かれる。
「だけど……そうですね、俺もできることなら全部知りたいですよ。でも、埋まらない余白があるからこそ理解したいと思うんじゃないですか?」
「うわ、生意気」
目の前で生意気な口をきくほっぺたを軽くつまんでやると、悠は締まりのない顔をしながら「痛いですよ」と笑った。こちらから触れるとわかりやすく嬉しそうにする悠に、悔しいながらもかわいいやつめと思った。
外から聞こえてくるのは近所の小学校の終業のチャイムだろうか。この家では何もしなくても人々の生きる音が聞こえる。
彼のほっぺたは意外にも──と言うべきかはわからないが──柔らかくもないし伸びもしない。それはつまり彼の表情筋が働き者だという証だ。柔らかくはないが弾力のあるそれから手を放してやると、悠は足立の足元で振り返った姿勢のまま、ソファに腰掛ける足立の太ももに頬杖をついた。
「俺、足立さんが好きです。足立さんの心の永遠に埋まらない一パーセントの部分も、きっと、全部好きになる」
表情なんか見なくても、彼がこの上なく幸せそうな顔をしていることがわかるような声色だった。
「本当かなあ、その一パーセントにとんでもない秘密が隠れていたらどうするのさ」
僕の口は反射のようにつれないことを返す。
「さあ……それを確かめるために一緒にいるんですよ」
「せいぜい絶望しないことだね」
「素直じゃないな」
「そこが好きとか言うんだろ」
「……すごい。足立さんはいつから人の心が読めるようになったんですか」
まるで恋人同士のような会話だ。そう思ってから僕は、僕たちの関係にどんな名前がつくのか知らないことに気づいた。
彼を好きだと思う。彼も僕を好きだと言うし、僕は時おり彼を抱くことすらある。それなのに僕は、彼を恋人と思ったことはなかった。それがなぜなのかはわからない。
彼は僕を上目に見つめながら続ける。
「俺は足立さんを孤立させたりしない。あなたがもしも俺の前からいなくなっても、きっと見つけだしてみせます」
「そりゃどーも……。でもなんかムカつくなぁ、僕一人いなくなったところで君は孤立したりしないんだろ?それって不公平じゃない?」
それは暗に、自分には悠しかいないのだと白状するようなものだった。
「そうですね……でも、足立さんがいなくなったら寂しいです」
頬杖をつくのをやめた腕が、今度は僕の腰に回る。床にぺたりと座り込んだまま僕の腰に抱きつく彼の姿は、なんだか従順な感じでかわいらしい。今日の彼はどこか浮ついている様子だったけれど、そんな彼をかわいいだなんて思う僕もきっとどこか浮かれていた。
「それに足立さんには叔父さんや菜々子もいるじゃないですか。叔父さんが今のを聞いたらどう思うだろうなぁ」
「ちょ、やめてよせっかく忘れてたのに……あの人のしつこさはもう骨身にしみてわかってますっての」
僕をおどかすだけおどかしておいて、悠は楽しそうに声をあげて笑った。さっきよりも抱きつく腕の力が強くなって、二人の距離がほとんどなくなる。
「俺、ずっと考えてたんです。足立さんが何に悩んでるのか」
「これで元気になりましたか?」こちらを見上げる瞳は期待に満ちて心なしかきらきらしているように見えた。当たりもなにも、僕自身どれが根本の悩みなのかわかりかねるのだ。聞かれても困る。
だけどここまでお膳立てをされて、彼の気持ちに報えないと思われたくなかった。彼の頭に手を伸ばして、その柔らかな髪をやさしくといてみる。気持ちよさそうに目を閉じる姿がやっぱりかわいくて、身をかがめて彼を頭ごと抱き込んだ。さっきみたいに笑われるに決まっていたから、熱くなった頬を見られるわけにいかなかった。
「仕方ないから、花丸あげる」