しゅうまつ ここらで現世は一旦終わりになるらしい。具体的な理由は連日ワイドショーで語られているが、鬼太郎にとっては実父の「妖怪どもが騒がしいからのう。そろそろ人間が滅びてもおかしくない頃合いじゃ」という言葉で十分だった。人間側の細かな事情など知ったこっちゃない。
最初は驚きと疑いで信じようとしなかった人々も、冬に桜が咲いたり夏に霜が降りたりといった異常な気候の数々に恐れをなし、今や誰もが終わりを意識している。街は日に日に荒れ果て、銀行の金は空っぽになるまで持っていかれ、小さな商店にさえ空き巣が入る始末。それすらも落ち着くと、今度はひとっこひとり姿を消してしまった。
鬼太郎は時々、がらんどうのビル群や獣たちが悠々と歩く公園を見て回る。これが案外心地よい。人間に特別な恨みがあるわけではないが、増えすぎた単一種族は面白味に欠けるように思う。また別の種族が覇権を握り、この世に快楽をもたらしてくれたらきっと楽しいはずだ。
だというのに今日も水木という男は、何も変わらず生きている。母を亡くし会社は潰れ世界が崩壊しかけているのに、毎朝六時に起床する。コッペパンに卵とハムを挟んだちょっとした朝食を用意して泥水のような珈琲を啜り、隅々まで朝刊を読む。
鬼太郎はその姿にがっかりする。この単調な男が終わりを意識し、慌てふためいたり奇天烈なことを言ったりして楽しませてくれるのではないかと、少なからず期待している節もあったからだ。やはり人間に求めるものは金、これに限る。もう金すら必要なくなりそうだけどネ。
「オジサン。死に際に爪なんかどうでもいいでしょう」
新聞紙を広げて足の爪を切る水木は「うーん……」と煮え切らない返事をよこす。その生半可な態度にも嫌気が差す。
「ちゃんと分かってます? 人間はいなくなるんですよ。貴方も、必ず」
「知ってるさ。会社でも耳が痛むほど聞かされた」
それに、と水木は鬼太郎をちらりと見る。
「鬼太郎が否定しないってことは本当なんだろ。今更できることもなさそうだ」
ぱちん、ぱちん。爪切りの音はやまない。思わずため息がこぼれた。これでは何のためにこの世が滅ぶか分からない。飽きもせず日常を続けることになんの徳があるのだろうか。せめて最後を目前に、親子サービスをするとかサァ……。鬼太郎は机に頬杖をつき、土臭い爪の滓をふうーっと吹き飛ばす。「あ、なにすんだ!」とかけらを拾う水木は、あまりに鈍臭い。
「じゃあ、これでおさらばですね」
そろそろなんの感傷も湧かなくなってきたので、今日も散歩に出かけようかしらと立ち上がる。すると水木は目を丸くしている。
「いや、きみも地獄に行くんじゃないのか」
鬼太郎は首を傾げた。
「もちろん行きますけど。この世が再び出来上がるまではね」
水木はうん、とひとつ頷く。
「だったら落ち合うじゃないか。地獄で金が要るか知らんが、同じ屋根の下で暮らす方が節約になるだろう」
鬼太郎は固まった。なにか盛大に話が噛み合っていないような気がする。
「……えっと、ぼくが思うに、オジサンは地獄行きではありませんよ」
水木も爪切りを持ったまま固まった。
「え? どうして?」
「アンタは善人だからです」
当たり前だろ。何だこの人、と訝しむ。だってこの人間は、世界の終わりが近いのに強欲に何かを望んだり奪い取ったりしてないじゃないか。閻魔は鬼だが無実を咎めやしない。罪に手を染めていないのに、地獄行きを疑わないなんて正気の沙汰ではない。水木は微動だにしない鬼太郎からさっと目を逸らし、また爪切りに戻った。それから妙に声を潜めて「マァ、その……まだ極楽かは分からんだろう」と口ごもる。
束の間の静寂。ぱちん、ぱちんという音。
水木は沈黙を破るようにして鬼太郎の名を呼んだ。声につられて水木を見下ろすと、水木もまたこちらを見つめている。その表情はとても自然で悪意なく自信気で、安心感すらあった。
「僕は地獄を一度体験してるんだ。鬼太郎や目玉の親父さんもいるなら、極楽よりも身近な場所だよ」
乱雑に散らばる黄ばんだ爪をかき集め、無理やり飲み込ませたい衝動に駆られる。両手が男の頸動脈へ伸びるのを止められない。
つけっぱなしのテレビから、ワイドショーが絶えず流れている。司会者の男性が大袈裟なまでの笑顔で「それでは皆さん、素敵なしゅうまつを!」と番組を締め括った。