inano_san
MEMO過去の考え事メモ。正しい正しさとは 私は少しだけ加害恐怖があって、だから人に迷惑をかけないように、間違えないようにと常にどこかで気を張っているところがあるのだけれど、これは多かれ少なかれ精神を蝕むほどのものである自覚はある。
正しく生きようとすることはいいことなのだけれど、自分のこれは正しくない正しさだ。正しさの為に自分自身をすり減らし、心を傷つけながら生きている。
時には淡白なまでに利益主体で物事を考えるような思考が自分には有効かもしれないと思った。間違えるリスクと自分の精神をすり減らすこと、どちらがより重いのか。すると大抵後者である。
間違えてもいいのだという真実は「正しさ」というものの一部なんじゃないかと思った。人が正しさの為に病んで、精神、心、自分らしさ、生き甲斐、そうした尊いもの諸々全てを含んだ意味での人生というものを犠牲にするなんて間違っている。
393正しく生きようとすることはいいことなのだけれど、自分のこれは正しくない正しさだ。正しさの為に自分自身をすり減らし、心を傷つけながら生きている。
時には淡白なまでに利益主体で物事を考えるような思考が自分には有効かもしれないと思った。間違えるリスクと自分の精神をすり減らすこと、どちらがより重いのか。すると大抵後者である。
間違えてもいいのだという真実は「正しさ」というものの一部なんじゃないかと思った。人が正しさの為に病んで、精神、心、自分らしさ、生き甲斐、そうした尊いもの諸々全てを含んだ意味での人生というものを犠牲にするなんて間違っている。
inano_san
MEMO過去の考え事メモ。愛しく思うものについて 「人を助ける」ことは本当に正しいことなのかを考えてきがくるいそうになっていた。いや、正しい場合は絶対にあると思うけど、正しくない場合もあるなら、「人を助けたい」と思った時にそれをどう判断すればいいのか。正しくない場面でそう思ったとしたらその思いを封じなきゃならないか。正しいことがしたいなら、本当に他者の為について考えるならそうすべきなのかもしれない。
何が悲しいのかって、私が「人を助けたい」思いを愛しているからで。(自分自身にその思いが備わってるとは思わない)
その思いのままに進むのが正しくないということがあると思うと悲しくなる。それはずっと頭の片隅に引っ掛かり続けていたことなんだけど。
正しさにこだわりたいわけじゃなくて、ただ間違いなら悲しいと思う。
746何が悲しいのかって、私が「人を助けたい」思いを愛しているからで。(自分自身にその思いが備わってるとは思わない)
その思いのままに進むのが正しくないということがあると思うと悲しくなる。それはずっと頭の片隅に引っ掛かり続けていたことなんだけど。
正しさにこだわりたいわけじゃなくて、ただ間違いなら悲しいと思う。
inano_san
MEMO過去の考え事メモ。呼吸と心 ある時からずっと、精神的な要因から少しだけ息苦しいのだけど、少しだけだから何もないような顔で笑っていられるんだけど、こういう自分を客観視した時に、何と言うか悔しくなった、自分にじゃなくて。
息苦しいって大変なことだと思うのに、こんなふうに平気な顔して元気に日常生活送れちゃうこともあるんだ。言わなきゃまず息苦しいなんて他者にはわからなくて、もし私の目の前に息苦しさを抱えてる人がいてもその人が言わなきゃ私は全然わからないかもしれないことが、言い方変かもしれないけど、悔しい。
つらいなら笑わなくてもいいと思ってる。と言うか個人的には言ってもらえたりした方が嬉しい、悔しくなるから。心を開いてもらえないことが悔しいんじゃなくて私が相手の重荷に少しも気づけなかったことが悔しいということ。傲慢かもしれないけどそういう思いはずっとある。言いたくないことを言って欲しいなんて全然思わなくて、本当は言いたいのに気を遣ってくれてるような場合は言ってくれた方が嬉しいなということ。
857息苦しいって大変なことだと思うのに、こんなふうに平気な顔して元気に日常生活送れちゃうこともあるんだ。言わなきゃまず息苦しいなんて他者にはわからなくて、もし私の目の前に息苦しさを抱えてる人がいてもその人が言わなきゃ私は全然わからないかもしれないことが、言い方変かもしれないけど、悔しい。
つらいなら笑わなくてもいいと思ってる。と言うか個人的には言ってもらえたりした方が嬉しい、悔しくなるから。心を開いてもらえないことが悔しいんじゃなくて私が相手の重荷に少しも気づけなかったことが悔しいということ。傲慢かもしれないけどそういう思いはずっとある。言いたくないことを言って欲しいなんて全然思わなくて、本当は言いたいのに気を遣ってくれてるような場合は言ってくれた方が嬉しいなということ。
inano_san
MEMO結構前に考えていたことの文。今は今でまたちょっと気持ちが変わっている気がするんだけど、何となく葬るのも惜しくてここにポイしておく。体力と自分の歩み方 *
実は絵を描く体力が少なくなってきてるんじゃないかという気がしていて、少しずつ漫画描きから文字書きになっていく道も結構考えていたりする。私の感覚として(※本当にひたすら私個人の感覚)、絵を描くのに要る体力が文章の場合は少なくても大丈夫というのがあって(どこでも、隙間時間でも書けることとか)。でも文章の場合、体力以外のこと、精神力だったり思考力なのかな、が絵や漫画よりも使う力として多く必要な感覚もあって、それらと体力もまた多少は連動してるだろうから、体力が少ない状態でどこまで文章も書き続けられるのだろうとも思っている。
どんな形であれ物語を作り続けていたいと思う。巧拙よりも得意不得意よりも、もしかしたら好きとか以上にやっぱりそれが自分にとって一番の呼吸なので。
1253実は絵を描く体力が少なくなってきてるんじゃないかという気がしていて、少しずつ漫画描きから文字書きになっていく道も結構考えていたりする。私の感覚として(※本当にひたすら私個人の感覚)、絵を描くのに要る体力が文章の場合は少なくても大丈夫というのがあって(どこでも、隙間時間でも書けることとか)。でも文章の場合、体力以外のこと、精神力だったり思考力なのかな、が絵や漫画よりも使う力として多く必要な感覚もあって、それらと体力もまた多少は連動してるだろうから、体力が少ない状態でどこまで文章も書き続けられるのだろうとも思っている。
どんな形であれ物語を作り続けていたいと思う。巧拙よりも得意不得意よりも、もしかしたら好きとか以上にやっぱりそれが自分にとって一番の呼吸なので。