午後の本屋は静かだった。
赤瀬の姿もなく、静かな陽が差し込む穏やかな空間に、ドアが開く音がする。
「……あーあ、なかなか潰れないんだな〜〜ここ。」
ひやりとした空気が店内を舐めた。
カウンターの向こう、帳簿をつけていた賢一は顔を上げずに息を吐く。
「……また、何の用なんだ」と、一言だけ言話した。
「そんなツレねぇこと言うなよ。まぁ………俺の知らねぇところでお前は随分幸せそうで〜」
賢吾はスッとカウンターの前に進み、軽く指先で天板を叩く。
「俺の人生ぐちゃぐちゃの間にさ、お前はこうやって本屋やって、静かに“いい人”して……笑えるよな。」
賢一は小さく目を伏せたまま、静かに口を開いた。
「……関係ないだろう、兄さんには。」
「あるよ。あるに決まってんだろ? お前は、俺の弟だ。」
言い終えた直後だった。
「我早就受够你了。」
(お前には、もううんざりなんだよ。)
急に落とされた言葉が、鋭く空気を切る。
賢一の指先が一瞬止まり、目元がわずかに揺れる。
「你永远装得像个圣人一样,假正经、假善良……你知道我有多烦你吗?」
(聖人ぶって、正しさぶって、……そんなお前がどれだけ癪に障るか分かるか?)
賢一は音を立てず立ち上がる。首筋にうっすらと鱗が浮かび、目元は静かに険しさを帯びていた。無言で裏戸に歩を進める。
賢吾の「あーあ、逃げた」の声を背に、扉を押し開けて外へ出る。
──裏の路地。
昼でも薄暗く、人目のない場所。
「你是来找架吵的吗?」
(喧嘩を売りに来たのか?)
静かに返した賢一の声は、わずかに震えていた。
怒りか、困惑か、その境界が曖昧だった。
「不,我是来告诉你——你活得太假了。」
(違ぇよ。ただ言いに来ただけだ、お前は生き方が嘘っぱちだってな。)
「……我只是想和平地活下去。」
(俺は、穏やかに生きたかっただけだ。)
「你就只会逃避。一直都一样!」
(逃げてるだけだろ、お前は! 昔からそうだ!)
「……我没逃。」
(逃げてない。)
「那你现在在干嘛?!明明想把我赶走,还不敢正面说出来!」
(じゃあ今のこれはなんだよ!? 俺を追い出したいくせに、正面から言えないでいるだけだろ!)
「……因为我还在犹豫,要不要认你这个哥哥。」
(まだ……“兄さん”だと思っていいのか迷ってるだけだ。)
その瞬間、賢吾の顔から笑みが消えた。
「你以为你是谁啊?你有什么资格犹豫?!」
(お前が何様だよ?迷う資格があると思ってんのか!?)
「我不想恨你,可你一直逼我……我真就快忍唔住了……」
(君を憎みたくない。でも、ずっとそうやって責めてきて、もう我慢できない。)
「所以呢?你想怎么样?和我打吗?咬我吗?来啊!」
(それで? どうしたいんだよ? 噛みつくか?殴るか? やってみろ!)
言いながら賢吾は一歩踏み出す。袖の隙間から鱗がのぞき、光を弾く。
賢一の胸元にも、もう完全に鱗が広がっていた。
吐息が熱く、目がじわりと見開かれていく。
「我不是你。不是用愤怒来维持存在的人。」
(俺は兄さんとは違う。怒りで自分を保ってる人間じゃない。)
「你连他妈一句狠话都放不出,还想跟老子斗?笑死我了…!」(てめぇ一発も言い返せねぇくせに、俺に楯突く気か?笑わせんなよ…!)
「我不需要骂你。你自己已经够可怜了。」
(君はもう、十分哀れだよ。)
その一言に、賢吾は目を細めた。少し、口角が上がる。
だがもう怒鳴らない。ただ、にやりと笑った。
「……面白ぇじゃん、弟。」
背を向け、ゆっくり歩き出す。
もう、本屋には入らない。
「また来るよ。赤瀬の前でも同じ顔できるといいな、賢一。」
そのまま、本屋を避けながら姿を消す。
風が吹き、鱗のきらめきだけが、静かに路地に残された。
賢一はただ立ち尽くしていた。