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    knoh

    癒着が好きです
    @knohen78

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    knoh

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    薬指を埋められない兄の話

    【薬指を埋められない兄の話】

    「それ、つけないの?」

    弟との食事は半年ぶりだった。普段は同居人の作る飯に甘えているので、大門にとっては外食自体も久しい。酒も嗜みつつ、お互いの近況やらを話していると時間はあっという間に過ぎていく。向こうは順調に出世しているようで、最近は現場より管理側でのデスクワークが主らしかった。書類ひとつ纏めるにも四苦八苦していた頃を思うと懐かしい。対して自分も、特に変わりない旨の話をする。出所後になんとか入った会社で働きはじめて、数年が経つ。力の抜き加減も分かる頃だ。至って真面目に働いていることを伝えると正面に座る弟はよかったと安堵の表情を浮かべた。
    「何より兄ちゃんが元気そうなのが嬉しいよ。」
    それは俺もだよ、と返す。多忙な身でありながらも、定期的に食事に誘ってくる弟。あまり干渉しすぎないように距離を取っていた時期もあったが、いつからか数回に1度は誘いに乗るようになった。
    「まあ身体はガタが来てるけどなあ。腰とか。」
    「すごいわかる。座りっぱなしはきついよね…。そういえば検診とかちゃんと行ってるの?」
    歳を重ねると健康やら病気の話が多くなるとは本当なんだなと思う。昔ならラーメン屋のカウンターで待ち合わせていただろうが、今では落ち着いた和食屋でこうして適度に酒を嗜むくらいが丁度良い。

    出された食事を全て平らげそろそろお開きかと、会計前にトイレでも行ってこようと席を立つ。好みのおかずを交換しあった際に膳の外にはみ出たいくつかの小皿を几帳面に戻し始めている弟に、先に払うなよ、と一応釘を刺した。以前、席を外している間に全額支払われていた時はなんとも言えない気持ちになったものだ。墜ちるに墜ちた身であるのに未だに兄としてのちっぽけなプライドが残っていて、自分でも呆れてしまう。ただやはり譲れないところでもあった。わかってるよ~と間延びした返事を背に、一旦その場を離れた。

    冒頭の言葉を投げかけられたのは、席に戻ったタイミングだった。それ、と言う弟の視線が丁度自身の胸元のあたりに向けられていることに気付き、ああ、と察する。今はシャツ上部のボタンを二つ分開けているので正面に座れば確かにチェーンもろとも視界に入る形だ。
    「いきなりつけたら色々面倒なんだ。根掘り葉掘り聞かれそうで。」
    当たり障りの無い返しだが、先程まで話していた職場の話題にさりげなく寄せる。丁度良い隠れ蓑になったと思った。まあ理由の1つには違いないので、嘘は言っていない。弟はそっか、と納得したのかそれ以上言及しては来なかった。

    そのまま割り勘で会計を済ませ、店を出る。金曜の夜。飲み屋が立ち並ぶ大通り側に目を向けると人気が多く、賑わっている様子だった。世間は明日から休日だ。夜はこれからといったところだろう。かくいう自身も今では土日の休みが保証された身分であるのに対して、明日も朝から出勤だという弟はたらふく食べた満腹感とアルコールを摂取した影響からか既に眠そうに欠伸をしている。暫く2人で歩いた後、この辺りでタクシー呼ぼうかなと弟が呟いたのを機に一旦立ち止まる。スマホから件のタクシードライバーの連絡先を探しているようだ。顔が見たいと思う程仲が良い訳でもない、と早々に立ち去ろうと決めた。弟が連絡を取り終わるまでは待つことにする。何回か言葉を交わし電話を切った様子を見て声を掛けた。
    「じゃ、もう行くわ。」
    「兄ちゃんも乗っていけばいいのに。相変わらず仲悪いなあ。」
    「そのとおりだ弟。あいつとは折り合いが悪いからな。会わないに限るのさ。」
    そこまで悪い奴じゃないよ小戸川、と言う弟。確かにそうだ。知っている。弟が面会に来る度に頻繁に耳にする名前だった。出所後飲み屋で顔を付け合わせた際、自分がいない間よくしてくれていたことについて素直に礼を述べたらひどく驚いた顔をされた。離席したタイミングを狙ったので、弟はそれを知らない。
    「じゃあな。楽しかった。」
    自分がこのまま残れば憎まれ口を叩く姿しか想像がつかない。今も親しく交流が続いている弟と小戸川の間に自分が割り込むのは本意ではなかった。背を向けそのまま立ち去ろうとする。と、数歩進んだところで兄ちゃん、と呼び止められた。
    「気なんか遣わなくていいからね。」
    「…。」
    ぽつりと、ただこちらに向かってしっかりと呟かれた言葉に、足を止めて振り向く。何のことかと思わず聞きそうになり、踏み止まった。視線が合うといつもの笑顔が返ってくる。同じ顔な筈なのにひどく眩しく感じるのは昔からだ。
    「おやすみ。兄ちゃん。」
    「ああ、おやすみ。弟。」
    同じように笑って返したつもりだが、上手くできたかはわからなかった。

    弟と別れてから1人黙々と夜道を進む。このまま進めば十数分程で住居に到達する。ただそこで脳裏に同居人の顔が浮かんだ。久々の弟との食事になんだかんだ浮き立っていた大門に、自分だけ外食かよと愚痴っていた様子を思い出す。このまま帰ると五月蠅そうだとコンビニに立ち寄るルートを頭の中で構築する。少しだけ遠回りになるが、酔いを覚ますには丁度良いだろう、と渡る予定のなかった横断歩道の前で立ち止まった。歩行者用の信号が青に変わるまで残り目盛り半分。1目盛りが消える間隔を目で追う。然程長くない。ポケットの中のスマホを取り出しても直ぐに仕舞うことになりそうであったのと、アルコールが入り火照った顔に夜風が当たるのが心地良く、大人しく突っ立って合図を待つことにした。

    目盛りがひとつ、またひとつと減っていくのを見ながら、ぼんやりと先程の弟の言葉を反芻する。気を遣わなくていい、と言っていた。タクシーに乗るか否かに対してのことだろうと頭ではわかっていたが、店を出る前に話題に挙がった、大門の胸にぶら下がっているものについて、改めて触れられたのかと一瞬身構えてしまった。思いの外動揺していた自分に苦笑しながら、弟にもとうとう言及されたそれを指先でなぞる。金属の冷たさが皮膚越しに伝わってきた。

    同居人がある日急に投げて寄越したのはシンプルなデザインの指輪だった。銀色の、所謂ペアリングというやつで、購入した本人曰くかつて自分が胸にぶら下げていた装飾品よりうんと安物、とのことだった。出所後大門の狭いアパートに押しかけてきたかつての相棒だった男とは過去のあれこれも掘り返しつつ紆余曲折あり、今では恋人なんて文字面にするとなんともムズ痒い関係に落ち着いている。引っ越しを決めて今の住居に移ってからはますます同棲しているとの表現がしっくりきてしまっていた。照れはありつつも互いの気持ちはとうに確認し合っている。男の気まぐれで突如こうしたいかにもなものを渡されても正直悪い気はしなかった。ただ、だ。実際に指にはめてみた大門がまず感じたのはなんとも言えない、いたたまれなさだった。どれだけ安物だろうと幸福の象徴であるその輪っかが、自分にはどうしても不釣り合いに見えてしまうのだ。理由はわかっている。

    長年、正義の皮を被りながら内面はどっぷりと悪に染まっていた。様々な悪事の手助けをし、直接現場で関わることさえあった。受けた恩に報いると覚悟の上で、血生臭い世界に自ら身を投じたのだ。その点については今も後悔していない。ただ、結果として唯一の肉親をとても深く、傷つけた。バレたらそうなることなどわかっていた筈なのに、引き返すことは頭になかった。慢心もあった。一生隠し通せるなんて、あの頃の自分達は今思えばあまりにも無謀なことを信じていたのだ。表立った罪は数年の刑期で社会的には精算された。しかし弟を騙し続け、かつ長い間縛り付け自立を妨げていた事実は大門の中で残り続けているし、今後も消えることはないだろう。自分がいなければ、弟の世界はとっくに広がっていたのだ。小戸川とのことも、ある意味それを示している。出所後はそれを自らの罪としてずっと背負っていくと決めていた。せめてもの償いだ。ましてや自分が、弟より先に幸せなんてものを掴んではいけない。なんなら弟を縛り付けていた時間、それ以上に残りの人生において、自分は幸福なんてものに手を出してはいけない。そう思っていた。

    いつの間にか地面に落としていた視線を上げる。丁度一番下の目盛りがちかちか点滅していた。そしてぷつ、と消えた後、さらに一拍置いてから信号が青に変わった。白線の向こう側から数名こちらに歩いてくる。このまま立ち止まっていれば邪魔になる、と自分も右足を前へ踏み出した。すれ違い様にぶつからないよう予め横断歩道の端に寄ろうとして、自分の横にも信号待ちをしていた人間がいることに気付いた。会社員風の男はスマホ片手にすたすたと白線を渡っていく。本当に信号確認してんだろうな、と腐っても警官時代の名残か、道路付近で歩きスマホをしている人間を見るとつい目で追ってしまう。なんと無しにその端末を弄くっている左手に視線を向ける。恐らく既婚者であろうことを薬指の指輪が物語っていた。普段なら全然気にもとめないが、今日ばかりはどうしても意識してしまう。指につけないのと聞かれて、すらすらと口から誤魔化しの言葉が出てきた自分。ドブが見たらどんな反応をしただろうか。

    後に続くように横断歩道を渡っていく。信号はまだ変わらず余裕そうだ。途中すれ違う人々はこれから夜の街に繰り出すのか、家族の待つ家に帰るのか。どちらにせよ自分達の時間を有意義に過ごすのだろう。そこにはありふれた日常の幸せがある。

    …彼らと今日の大門に何の違いがあるだろう。以前と同じように笑いかけてくれる弟にすっかり甘えて、意地を張ってずっと避けていた食事にも近頃は行くようになった。家では恋人と化した男が大門が帰ってくるのをソファーにふんぞり返りながら寝もせずに待っている。

    横断歩道を渡り終えて左折する。角にコンビニの看板が見えた。とっとと用を済ませて帰ろうと歩む速度を上げる。

    幸福なんてものに手を出してはいけない。そう思っていた筈なのに、気付けばそれに似たささやかなものが周りに積み重なっている。それを自覚する度にもう1人の自分が脳裏で冷たく吐き捨てるのだ。どんな面下げて浸っているのかと。そんな資格がお前にあるのか、と。もっと孤独に機械のように、お前は何も感じず生きていかなければならないのだと囁いてくる。お前が弟に何をした?大事な唯一の家族の、人生の半分を無駄にさせたとも言えるんじゃないのか。それなのに何楽しんで、笑えているんだ、お前。償う気はあるのか?

    弟との食事の席であったり、隣に当の恋人が居る間はなりを潜めるそんな思考が、1人になると唐突に襲ってくる。貰った当日、照れくささからドブに隠れて指輪をはめてみた時もそうだった。浮ついた心が一気に冷え込んでいく感覚。あれが忘れられないのだ。であるのに、弟ともドブとも結局離れられない自分。何かにすがらないと生きていけないのか、出所前の意気込みはなんだったのか。なんとも弱い人間だと自虐的に薄く笑った顔が、コンビニ入口のガラスに反射した。胸元の指輪もあわせて視界に入る。思っていたよりもむき出しであっったことに今更気付いた。これだけ見せびらかしているなら指につけようがつけまいが他者から見れば同じなのかもしれない。でも、あくまでもペアリングなのだ。相手のそれはしっかり薬指におさまっている。いつかきちんと応えるなら同じようにしなければと大門は自分なりに思っていた。ただ、これを相手と同じ指にはめるなら。完全に幸せを享受したことになる。それが怖い。もう1人の自分、罪の意識に一気に押し潰される気がして。

    よくない思考だ、と頭を切り替える。店内に入り手早く缶ビール数本と適当なつまみを数も確認せずかごに詰め込んだ。帰ってあいつの顔でも一目見れば落ち着くだろうと思った。


    帰宅すると予想通り、同居人…もとい恋人はソファーに座りながら酒を呷っていた。手元のスマホで何やら調べている。オークションの結果でも見ているのだろうか。テーブルの上には飲みかけの缶が1つのみ。首にタオルがかかったままなので、風呂からあがったばかりなのだろうと察した。先程購入した品々が入った袋を無造作にテーブルに置く。
    「おら。酒の追加だ。」
    「なーんだコンビニかよ。自分だけいいモン食べて来やがって。」
    なんて言いながら端末を置き、ガサガサ袋を漁り始めるドブ。ちょっと種類偏りすぎじゃねえ?とぐちぐち文句を言うその右横に腰を下ろした。自分も缶をひとつ取ろうとして、男の左手が視界に入る。途端に先程の堂々巡りの思考がよみがえり、今日はもういいかと考え直した。手を引っ込めるとその動きに気付いたのか問いかけてくる。
    「お前はいいの?」
    「飲んできたしいいや。風呂入って寝る。」
    「ふーん…なんかあった?」
    よくない思考をリセットするには一旦睡眠を取った方がいいと思っただけだったが、いつもと異なる様子が表に出ていたのか直ぐに勘付かれた。このままなんでもないと誤魔化してもいい。ただ唐突に、焦りにも似た感情が押し寄せてきた。大門自身、ずっと前からドブ本人へ確認したいことがあった。今日はお膳立てされていると言ってもいい。半年ぶりに会った弟。はじめて言及された指輪。こんなタイミングなかなか来ない。ここを逃してしまえば何をきっかけに切り出せるだろうか。
    「‥これ、」
    右手を胸元の指輪に添える。軽くつまむと金属製のチェーンと指輪が擦れてちゃり、と音が鳴った。
    「弟につけないのって聞かれた。」
    指輪の話を大門から切り出すのは初めてだった。なんとなくドブの顔を見ることができず、正面を向いたまま反応を待つ。
    「そりゃそうだ。」
    然程間を置かずに返ってきたのはいつもの軽い口調だった。それにどこかほっとした気持ちを抱きつつ、ようやく男の方へと顔を向ける。
    「くれてやったのに全然つけてくれないんだもんなあ、大門。」
    とわざとらしく大袈裟に肩をすくめるドブ。その表情に怒りだとか呆れだとかは感じられないが、やはり不安はあった。この際だ、とずっと聞きたかったことを尋ねる。
    「…怒ってねえ?」
    「怒るって何にだよ。」
    「いや…ずっと指につけてないから。俺。」
    「でも肌身離さず持っててくれてんじゃん。」
    さらりと返された言葉にすとんと気持ちが軽くなる感覚がした。伝わっていてほしいと思っていたことだったからだ。ずっと気になっていた。渡した指輪を恋人が指につけていないことに関して、何も言ってこない男のことを。良い気持ちはしていないだろう。怒っているか悲しんでいるか、呆れて何も言う気にもなれないのかもしれないと。今までのドブの女達なら喜んで、直ぐさま自らの薬指を埋めた筈だ。大門だってそうだ。翌日、朝起きて。何気なく自分の左手薬指にそれがおさまっているのを見せてやりたいと思っていた。きっと喜んでくれるだろうと。ただそれが自分の厄介な意識のせいで叶わなくて。いつまで経っても空白のままの指をこの男がどう感じているのか。ずっと怖くて聞けなかった。失望させていたらと思うと、とてもじゃないが勇気が湧かなかったのだ

    じんわりとあたたかいものが胸に広がる。抱え込んでいた不安が杞憂だったらしいとわかり一気に感極まってきた。何気ない一言だけでこんなにも揺さぶられる。己の中でこの男の存在がどれだけ比重を占めているかを身に染みて感じる。今なら言えるかもしれない、とふと思い至った。自分が足踏みしている理由を。言ったこところでどうにかなるわけではない。あくまで大門自身の問題だからだ。でも、ただ知って欲しいという気持ちがぐっとこみ上げてきた。大門が指にそれをはめられない訳を。そしてその一方で、応えたい気持ちが確かにあるということを。
    「…理由、聞かねえの?」
    ドブは黙ったままこちらを見ている。大門が話し始めるのを待つ姿勢のようだった。俺、怖くて。ぽつりと口から出た自分の声が思ったよりも小さくて挫けそうになる。助け船を出すように正面から相槌をひとつ打たれた。それに促されるように言葉を吐き出していく。
    「…押し潰されそうで、怖いんだ。幸せだって感じると、それでいいのかって思っちまう。弟の可能性とかそれこそ幸せとかを奪ってきた身のくせに、自分だけのうのうと生きていいのかって。1人で居るとそういう考え方になって、…折れそうになる。」
    つっかえていたのは最初だけだった。堰を切ったように勝手に言葉が出てくる。ドブも相槌を打ったのははじめの数回だけで、後は黙って耳を傾けていた。
    「お前と組んで色々やってたことはいいんだ。完全に俺個人の問題だから。…俺がもっと弟にいい接し方してたら、なんてさ。そんなこと今更考えても意味ない。だからずっと背負っていかなきゃなんだ。こればっかりは簡単に手放したらだめだと思ってる。っ…はは、そう思ってるのに、お前と一緒に居たい気持ちも捨てきれないし。弟ともやっぱり、時々は会いたいなんて図々しく思っちゃうしさ。ふがいないよな。俺。どっちつかずで。」
    一気にまくし立てる。途中から自分に言い聞かせているような感覚に陥っていた。だが、今は目の前の男に伝えるべきことを伝える時だ。
    「しっかり応えられなくて、ごめん。でもさ、お前のほんの気まぐれでも、俺はこれ貰った時、本当に嬉しかったよ。」
    ありがとうな、と呟く。付き合いは長いがこうして面と向かって礼を言うなんてあんまり無かったように思う。そのせいか、ドブの顔はいつの間にか真剣なものになっていた。それを見た途端、逆に照れくささが生じてくる。
    ふは、なんだこれ、らしくないな。と顔に集まる熱を誤魔化すように大門は笑うが、ドブは一切笑わずにこちらを見つめたままだ。やばい、重すぎたかと今度は焦りが生じてきた。もう俺寝るわ、風呂は明日入る。と逃げるように立ち上がった大門。その左腕が掴まれた。気まずくて振り向かないでいると大門、と名前を呼ばれる。変わらぬ柔らかい音域につられてゆっくりと顔を向けた。いつになく真剣な表情はそのままだったが、馬鹿、まず座れと言う声は命令口調の割に子供を諭すような優しさを含んでいた。大人しく従い、腰を下ろした大門をじっと見つめるドブ。再び、互いにソファー上で向かい合う姿勢となる。今度は大門が、ドブが口を開くのを待つ番だった。
    「俺がこれを渡した理由ってなんだと思う?」
    ドブの左腕が大門に向かって伸ばされ、指先が胸元の指輪に触れる。いつの間にか酒は手元からテーブルに戻されていた。
    「お前が好きなムードってやつじゃねえの。」
    「確かに好きだけどさあ。それだけじゃねえんだわ。」
    「じゃあ何…」
    「吹っ切れるきっかけになるかと思って、渡したんだよ。」
    その一言で、一気に局面が変わったのを肌で感じた。ドブは真正面から大門を捉えて離さない。視線だけで身動きは許さないと言われているようだった。
    「お前が引け目を感じてるなんて、横で見てれば気付くよ。」
    ちゃり、と音が鳴り、ドブの指先が遊んでいるのがわかった。
    「警官時代の反動なのかわからんが、お前って結構わかりやすいんだぜ。ご機嫌に笑ってると思ったら目を離した隙にすげえ寂しい顔してたりするし。」
    「…。」
    「昔から細かいこと考えすぎなんだよなあ。」
    まあそういうところも好きだけど、といって微笑むドブ。対して大門は自分がどんな顔をしているかわからなかった。人心掌握に長けており、洞察力に関しては右に出る者が居ないと言ってもいい男が、誰よりも傍に居たのだ。見抜かれていても何らおかしくはない。
    「弟と食事も行くようになったし、進歩はしてきたと思ってたけど。まだ誰かさんはうだうだしてるみたいだったから。」
    最後の一押しになればと思って形にして渡したのだと、ドブは言った。

    あの日のことを思い出す。夕食後、料理担当のドブが先に入浴している間、大門は洗い物をしていた。何ら特別感も無い、いつもの光景だ。片付け終え振り向くといつの間にか風呂からあがったドブが後ろに立っており、驚いた。声ぐらいかけろよと言おうとすると急に何かを投げてきた。大門が反射で受け止めたのを見届けると、それやるよ、と台詞を残しそのまま自室に戻っていく。その背中を見届けながら掌を広げると当の指輪があり、たいそう驚いたものだった。なんだこれ、と流石に追いかけて聞くとそこまで高くない値段についてとかデザインの話とかそういう話にのみ着地し、意図らしき意図ははぐらかされ聞けなかったのだ。ムードに拘る素振りを時折見せる男であったから、ちょっとした気まぐれだろうと思っていた。それが、まさか。

    ほんとは言うつもりなかったんだけどなあ、なんて笑う男。ドブは大門が悩んでいるのを全て見透かしていた。あんなに前から。その上で、吹っ切ってしまえと背中を押してくれていたのだ。意図を言わなかったのは、大門自身に気付いて欲しかったからなのだろう。ただ大門は気付けなかった。表面だけを見ていた。ムードに酔っていたのは自分の方だった。愛しい相手からの、せっかくの贈り物を、実際は受け取れていなかったのだ。悔やむ気持ちがこみ上げてくる。

    頼んだらもう1度やり直してくれるだろうか。形としては既に貰っている。今はただ、言葉が欲しいと思った。もしかしたら。ドブなら。この男なら、大門が奥底で欲している言葉をくれるかもしれない。そこまで甘えてもいいのだろうかと躊躇したのはほんの一瞬だった。
    「…言ってくれよ。もう1回。」
    お前がどんな気持ちで、俺にこれを渡したのか。

    大門の呟きに、遊んでいた指先の動きがぴた、と止まった。お互いに視線を向け合ったまま、数秒が経つ。
    「‥そうだな、ちゃんと言葉にするか。」
    するりと今度は顔へ伸びてくる腕。ドブの無骨で太い親指が、大門の右頬を擦る。
    「いい加減幸せになりなって、大門。」
    諭すような、確かな優しさに満ちた声が耳から脳に染み渡る。
    じわ、と目頭が熱くなる気配を感じこれでは危ないと指から逃れるように顔を逸らす。ドブの表情を直視したら途端に決壊しそうだった。きっとひどく優しい顔をしている。
    苦し紛れの言葉を吐き出す。
    「そこは、幸せにしてやる、じゃねえの。」
    「俺からは充分すぎるぐらい与えてるよ。あとはお前が受け取るだけ。」
    間髪入れずに返される。それもそうなのだ。うだうだと考えているのは自分だけで、ドブからは最初から全てを貰っている。視界が滲んできてとうとう顔を上げれなくなってしまった。目元は額にあてた手で隠れてはいるものの途端に口数が減った様子に恐らく勘付いているだろう男は敢えて指摘してこない。今こそからかいの言葉が欲しいのに。
    こいつはいつもそうだ。

    こそこそ隠れて指輪をはめて、ひとりで自己嫌悪に陥って。せめて肌身離さず持ち歩く気持ちだけでも伝わればと翌日自らチェーンを買ってきた大門にさえ、ドブは何も言わなかった。その左手薬指ではサイズしか変わらない銀色がずっと輝きを放っていた。対のそれを大門に投げて寄越した日からずっとだ。

    待ってくれているのだ。大門が追いついてくるのを。

    ふ、と呼吸を落ち着かせる。顔を上げて横の男を真っ直ぐ見つめた。目元が赤いままかもしれない、まだ潤んでいるかもしれないがもはや気にしない。声だけは震えないように意識した。
    「…俺が幸せになるんだとしたら、もれなくてめえも道連れだけど。」
    「はは、言うねえ。」
    上等、とドブの顔が近付いてくる。今度は避けない。真っ直ぐ互いの顔を捉えたまま、距離が狭まっていく。唇同士が少し触れて、離れた。
    「まあ気長に待つよ。どうせずっと傍にいるからなあ。」
    まるでなんでもないことのように言う。つけたら直ぐに気付いてやるよ、と。
    「‥つけるよ。もう少し、時間かかるかもだけど。」
    大門がぽつりと吐き出した言葉に、目の前の男は満足げな表情を浮かべた。
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    knoh

    DONEドのドライブに付き合わされる兄の話。(ド兄)
    ドライブの果て適当に腹ごしらえをした後、いつもは運転を押し付けてくる男が、時折自ら運転席に乗り込むことがあった。すたすたと車に向かい、2人分の会計を済ませた連れが横に座るのを待っている。そうなるとこちらは黙って従うのみだ。わざわざ当直明けの身体を酷使する趣味はないと、譲られるままに助手席に腰を下ろす。

    男が無条件にハンドルを握る、それを合図に始まる男2人、真夜中のドライブ。運転してやっから。運転してくれんなら。そんな無言の口実を互いに纏った、予告も無しに訪れるその時間が、全くもって不思議だが、嫌いではなかった。むしろ主導権を横の男に委ね、窓越しの風景が流れていく様をぼんやりと見つめているだけのひとときに、いつしか心地良ささえ感じるようになっていた。忙しない日常から切り離されたように錯覚しているだけなのだろうと思う。よりによってその第一の要因である男の隣でそうなってしまっているのだから変な話だった。そんな様子を察しているのかは知らないが、公道を一定のスピードで走らせている間、普段饒舌な男にしては話しかけてくる頻度が抑えめになる。もしかしたら眠気に負け気味な自分が気付いていないだけかもしれないが、今のところ「聞けよ」だの「お前だけ寝るなよ」だの文句も挙がらないことから、やはりそういった素振りはそもそも無いようだった。
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