お化粧のススメ 指に挟んだパフで頬に粉を叩いて、伏せられた目尻に紅が乗り、器具に挟まれたまつ毛が上向きに跳ね上がる。口紅を押し当てられた唇が上品な赤色を纏っていく様子を、夫はじっと見つめていた。
彼は、華やかに色付いていく妻の姿を見るのが好きだった。鏡に顔を寄せて、右を向いたり、左を向いたりした後にぱちぱちと瞬きをしている。彼が家を出る前にすることといえば、着流しと寝癖を軽く整えて下駄を履くくらいのもので、持て余す時間で日々の妻の身支度を見ているうちに、この動きが仕上がりの合図だと学んでいた。
「化粧とやらは、そろそろ仕舞いかのう」
「ええ。お待たせしました」
「見惚れていれば、過ぎゆく時間もあっという間じゃ」
「お化粧してるところって、見て楽しむものじゃあないんですけど⋯⋯本当に好きよね、あなた」
身支度を整える彼女はまるで変身の術を施したかのように、一つ一つの動きごとに洗練されていくように見えるのだ。赤く色付いた唇を食むように結んでは開く妻に目が惹き付けられて離せなくなる。席を立ちハンドバッグを手に取った彼女はふっと口元を緩めて「まあ、」と言葉を続けた。
「私はあなたの愛おしい妻ですものね」
「なんと、お見通しではないか」
「ふふ、当たってましたか?じゃあ、行きましょうか」
伸ばしかけた手が袖を揺らして、歩き出した彼女の背に触れる前にぴたりと止まる。彼は、降って湧いた己の衝動に混乱した。触れたいと思って、気が付いた時には手が自然と動いていた。目を細めて口角を上げる悠然とした振る舞いにあてられたのだろうか。艶やかな赤色で強調された唇の形がやけに目に焼き付いている。とはいえ今求めるのは野暮というものだろう。空を掴んだ手は静かに下ろされた。それでも、背中越しに伝わるものがあったのだろうか。パンプスを履いて扉に手をかけた妻が、振り向きざまに夫の口元に指を押し当てて「帰ったら、ね」と艶然と微笑む。このようなことを、言わずとも見透かされるようでは格好がつかない。彼は暫く顔を上げられなくなり、下駄に足を通すのにも妻よりうんと時間をかける羽目になった。
「今日は良いお買い物が出来ましたね」
「そうじゃなあ。わしには勿体ない気もするがのう」
「何を言ってるんですか。あなたはもう少し服を持っていてくださらないと、洗いものが大変なんですよ」
「⋯⋯お待たせしました。スフレパンケーキをご注文のお客様」
「こちらに。ありがとうございます」
二人で買い物に出かけた時には喫茶店で一服することも少なくない。会社に勤めに日々街に繰り出しているだけあって、妻は彼の知らない街をよく知っていた。
今日の妻は若草色のシャツに暗い焦茶のフレアスカートを履いていて、なるほど木を基調とした店にも風貌から馴染んでいる。夫はというと、普段と変わらぬ次標色の着流しで、普段とはうって変わって酒落た雰囲気の馴れない空間の中で、やけに体を固くしてそわそわしていた。店員に目配せをし背筋をぴんと伸ばして微笑む妻は少しだけよそ行きで、遠く感じて目を細める。
ふと、バターの溶ける甘い香りが鼻をついた。匂いの元を辿れば、店員の手元で輝く、想像を超える豪勢なパンケーキの山が彼の目に飛び込んでくる。大きな白色の丸皿に盛られたクリーム色の円が高々と積み上げられてほのかに湯気を立てている。てっぺんから滴るメープルシロップと、傍らに添えられたバニラアイスクリームに目を丸くして、眼前に置かれる皿の山に視線を奪われた。店員に礼を言う声も心なしか弾んだような気もする。
「ーーー!こんなに大きな〝ぱんけぇき〟は初めてじゃ!すごいのう」
「本当ね。早速頂きましょう」
「おお。小さくなってゆくぞ。なんと刹那な」
いただきます。二人で小さく手を合わせてカトラリーを手に取る。胸を高鳴らせながらフォークを刺すと、膨らみは緩やかに勢いをなくして萎み始めた。寂しさを覚えて急き立てられるように欠片を口に運べば、まるで空気の塊のような、軽やかな舌触りの生地がじんわり溶けていく。繊細で優しい甘さが口の中に広がって、夫は再び目を大きくして細めた。
「これは美味い⋯⋯はじめての感触じゃ」
「本当、美味しい。ん!ねえあなた、アイスクリームと一緒に食べてみてくださいな」
「ふむ。⋯⋯!これはすごい。温かいものと冷たいものを合わせるとは、考えたものじゃな」
「ね。あなたも気に入ってよかった」
すっかり楽しそうに、けれども上品に目を細めながらハンカチで口元を拭う妻と目が合う。食事を進めるうちに、ナイフとフォークを扱う妻の肩がほとんど動かない事に気付いた。少し浮かれた素行だっただろうか。妻ほど慣れた様子で丁寧に振る舞うことはできないが、せめてもの行儀として暫し口を襟んで咀嚼してみたものの、「もう終わりですか?」「あなたの言葉が聞きたいのに」と身を乗りだすように上目で促されては、鼓動が早まったり顔が火照ったりして落ち着くために慌て始めてしまう有様で、到底所作や味どころではなくなってしまった。
◇
喫茶店で一服して、腹も心も満たされた二人はゆっくり帰路につく。足を進める度に膝元で揺れるダークブラウンのフレアスカートを見つめていた彼女は、夫が口を開けば顔を上げて耳を傾けていた。先程連れていったカフェの食事が気に入ったようで、「あんな食べ物があったとはのう。美味かったのう」と顔を綻ばせている。
「ぱんけぇきと言えば、もっとこう、薄くて味わいを噛みしめるものかと思うておったな」
「本当ですね。どちらのパンケーキも魅力的で、素敵」
陽が傾き始めた空に二人の足下が地面を蹴る音がカツ、コツ。カラン、コロンと響く。棲家が見えてきて肩の力が抜けたのか、夫は外出の疲労も感じさせない程には饒舌だった。日頃は気性穏やかな夫だが、街中に出るのはどうも緊張するようで、口数が減り表情も硬くなることが少なくない。昼間の買い物の際も、気がつくと半歩後ろで懐手をして小さくなっていた。
「うむ。⋯⋯お前と過ごす時間はまるで飽きぬな。それでなくても日頃から心が温かくなっておるのに、こうして新しい発見もあるんじゃからのう」
「ずいぶん遠回しな物言いね」
「⋯⋯お前との時間は全て愛おしく思えると、言うておるのじゃ」
彼女は半歩身を寄せて、自分の背丈よりも高いところにある夫の目をじいっと覗き込む。彼は目線を下げて妻を見つめると、胸元に収めていた腕を解いて口元を覆い隠しながらゆるりと目を逸らした。彼女は普段、外では丁寧な言葉をほとんど崩さない。上機嫌でいつにもまして多弁な彼の愛おしさに内心胸をときめかせていた彼女。彼も同じように自分にドキドキすればいいのにと思って、ちょっとした悪戯心から普段より積極的に距離を詰めてみたのだった。視線を外して俯く夫は陶器のような白い肌に紅をさして眉間に皺を寄せていて、思惑通りの反応に会心すると同時に再び心をきゅっと掴まれる心地を覚える。棲家はもう目の前まで来ていた。
「ふふ、知ってる。⋯⋯私も、いつも新鮮な愛らしさを覚えていますよ」
「⋯⋯む。それは、幼けないという意味ではあるまいな?」
「さあ。どうでしょう」
「さてはからかっておるな?そういう気分なのか?」
「せいかい」
鍵を開けて、玄関の扉を閉めると同時に背伸びをして夫の頬を両手で挟んだ。目を丸くした夫が言葉を発するより早く唇を重ねる。白い肌や白髪に似つかわしい、血色を感じない薄い唇に色を移すように紅を押し付けた。
「あんまり見られると奪いたくなっちゃう。そんなに口元が魅力的だった?」
「いや⋯⋯見、ているつもりは⋯⋯そうか」
「諌めてるわけじゃないわ」
「疚しい気持ちはなかった」
「分かってますよ。私がしたくなっただけ」
本当にかわいい人。
ばつが悪そうに妻から目をそらす彼が本当に顔そのものを見ていただけだったのなら、何が彼をそこまで惹き付けるのか、それはそれで興味深い。ふとした拍子に夫の視線が己の唇に注がれているのは、それが一度や二度ではないとなると、知らぬふりをしようにも彼女の方が心揺さぶられて焦れていくのだから。
掠れた紅が夫の唇を汚したことに満足してふ、と口の端を吊り上げた。もう一度触れるだけの口付けを交わして薄い唇に人差し指を押し当てると、くるりと背面を振り返って玄関を後にする。
「⋯⋯愛愛しいのはどちらじゃろうて」
弾む声と足取りで居室に消える妻の背中を見送りながら、取り残された夫が両手で顔を覆い隠して呟く声が小さな玄関に響いた。
◇
それから数日が経ったある日のこと。
「ねえあなた、見て」
「うん?どうかしたのか」
「どこが変わったか分かりますか?」
花瓶の水を取り替えようとしていた彼は、思いがけず間違い探しを持ちかけられていた。そうっと花瓶を運ぶ夫を呼び止めて、目を輝かせながら体をくるりと一回転してみせる姿は無邪気で愛らしい。
「む⋯⋯それは目で見て分かるところか?」
「ええ」
「⋯⋯耳飾りが変わったかのう?」
「残念。違います」
言われてみれば雰囲気が違うような気はするものの、どこが変わったのかと問われるとなかなかピンと来ない。当ててほしそうな妻に応えたい気持ちと、一挙手一投足が愛おしいのだから、どこがどう変わっていても良い事に変わりないと思う気持ちで揺れ動きながらも、妻の傍に身を屈めて肌を、服を、凹凸をじっと見つめる。
⋯⋯もしや、己の行動は相当に礼を欠いているのではないか。
ひらめきを求めて口元に視線を移した時にふと、急な恥じらいを覚えた。他人の体をじろじろ見るものではないことは彼も承知している。目を瞑って逡巡するうちに、視界の隅でわずかに捉えていた、口紅で強調された唇をはっと思い出して、伏せていた目を開いた彼は大きく口を開けた。
「⋯⋯分かったぞ、色じゃ!化粧の色が橙に変わっておる」
「正解!この間あなたが褒めてくれたから、少し遊んでみたの」
「何と綺麗な。これは水を替えている場合ではなかったのう」
普段の上品さが印象的な赤い口紅とは違い、今日は橙色で仕上げられている。よく見れば、目元も同じような橙色で彩られていて、もとより明るく活発な妻がいっそう晴れやかに見える気がした。
それから、なんとなく妻の変化を意識することが増えた。目元の線を引くと印象が強くなるとか、口元に紅を引くと唇の動きに目が行きがちになるとか、彼なりの気付きを得ていた。だからこそ、妻の化粧が普段と変わったことに気付いた時は、妙に誇らしげな気持ちになった。
「お。それはまた違う塗りものではないか?」
「あら。分かりますか?」
「口に筆のようなものを塗りつけているところは見たことがない。それは一体?」
「リップグロスというものです。口紅より艶が出るんですよ」
「りっぷ、ぐろす。何やら煌めいておるのう」
「キスしたくなった?」
水に濡れたような艶のある唇は確かにドキッとくるものがある。淡い桃色に色付く唇も初めてで、化粧ひとつでこうも印象が変わるものかと彼は感心していた。
「そのようなつもりでは言うておらぬが⋯⋯お前の心持ち次第じゃな」
「お化粧が仕上がってなかったらたくさんするのに」
「残念じゃったのう」
せっかく綺麗に仕上がっているのに、出来た端から乱しては元も子もないだろう。日頃の他愛ない軽口であることは承知していたが、仮に口付けを望んだとしても、これから外出を控えた彼女では応じられないことも、これまでの経験から理解していた。そうなると不思議なことに、彼の悪戯心も負けじと顔を出してくるもので。
こと愛情表現の分野となると、普段は妻に心乱されることが多い彼は、ほんの少しでも妻を翻弄できる貴重な機会を見つけた事で、こうしたささやかな言葉の戯れができることを密かに楽しんでいた。心なしか頬や唇を丸くして「今日の用事、全部なしにならないかしら」とむくれる妻の素直さときたら愛らしいことこの上なくて、彼は顔に触れない代わりに、赤茶色の短髪を掬ってふんわり口付けをした。
色や質感の異なる飾り上げを幾度か見るうちに、夫の中でどうして化粧をするのか、なぜ妻が化粧をしている所を好ましく見ているのかという純粋な疑問が湧き上がるようになった。というのも、妻に対する気持ちの大きさは外見によって変化している訳ではない。素顔の妻も様々に仕上げた妻も等しく愛おしい。しかし、鏡に向かう妻は確かに眩しく見えるのだ。一体何が輝いて見えるのだろうか。妻はどういう気持ちなのだろうか。顔の細部に描き込む仕業は自分には出来ない芸当だから?それとも、仕上げた妻が満足そうにしているのが愛おしいから?どれもその通りではあるものの、腹に落ちるには今ひとつもの足りない。答えの出ない自問自答を続けても仕方がなかった。
「どうして私がお化粧をするのか、ですか?」
夜、寝る前に見える月を肴に晩酌をするのは彼の日課で、時には妻も一緒になって酒を嗜んでいる。この日も妻が傍に腰を下ろしたので早速尋ねてみれば、彼女はきょとんと目を丸くしてみせた。「突然どうしたの」と質問を返しながらも妻は考え始める。
「そうですね⋯⋯。いくつかありますけど、一番は楽しいから、でしょうか」
「楽しい?」
「気分がぱあっと明るくなるんですよ」
「ふむ。それは少しわかる気がする」
「それに、色次第で気分が変わる⋯⋯というよりは、気分に合わせて描き方も変えられますから、お化粧をするかどうか、あるいはどんな風にするかによって、自分を表現できるのも面白いと思います」
確かに、化粧を終えた妻はいつも口角を上げて、満足そうにしている気がする。近頃の変幻自在な妻の様子を見ても、知品を纏ったり、溌剌としていたり、可憐さを備えていたりする様はまさしく化粧に自己表現の面があると言えるのだろう。
「自分を表現しているというのは、言い得て妙じゃ。お前が好きなように己を表現しているからこそ、わしも見ていて飽きぬのかもしれぬのう」
「なあに?それが知りたくて、お化粧をする理由を聞いたんですか?」
「わしは己を着飾ることに興味はない。故に、お前を常日頃きれいじゃと思うてはおるものの、服や化粧で身を飾ることについてあまり真剣に考えたことがなかった。じゃが、今の話を聞けば、服の一着、目元に引く線のひとつも大切に思えよう」
「まあ⋯⋯驚いた、嬉しいわ。理解しようとしてくれてたんですね」
お前のことを知る度に、際限なくお前が愛おしくなっていくのう。
最後の言葉は猪口の中で揺れる酒に溶かすよう囁かれた。全て事実だった。妻の話はすっと彼の中に入ってきて、彼の愛する妻の形になった。妻は大きな吊り目を丸くなるまで見開いて、夫の言葉を反芻すると破顔してみせた。腰に腕を回して身を寄せる。
「そのような大層な動機でもない。たまたま気になっただけじゃ」
「それが嬉しいんです。興味を持ってくれてありがとう」
ねえ、キスしたい。
妻が夫の横顔に囁く。猪口を見つめていた夫が目線を遣ると、月明かりに照らされた妻は目尻と頬を赤く染めて目を細くしていた。やはり、自然な赤で彩られた妻が一番、⋯⋯かもしれない。
「⋯⋯この酒が、無くなるまでならば」