湯たんぽ 烏天狗の足音が近づいてきたのを聞き、詠は咄嗟に布団を頭まで被った。
しばらくすると戸が静かに開く音がする。烏天狗は部屋の中に入り、規則正しく寝息を立てる詠の姿をじっと見つめていた。
足音がゆっくりと衣紋掛けの方へ向かう。羽織を脱ぎ、衣紋掛けにかけた後、烏天狗は布団のそばにある火鉢に向き直り、炭の様子を確かめ始める。火の揺らめく赤い光が薄暗い部屋をほのかに照らしていた。
「詠。」
名前を呼ぶ低い声が静寂を破る。しかし詠は目を閉じたまま、じっと黙り込んでいた。烏天狗は咎めることもなく、ただその様子を笑っていた。
絹のような髪が頬を撫で、耳元に温かい息がかかる。そして耳たぶに走る鋭い感触に、詠は思わず身を竦めた。関心を惹きたいとき、彼は決まって詠の耳たぶを噛む。
「寝たふりくらい分かる。」
低く囁く声には、明らかな嘲笑が含まれている。
布団の上から重い圧力がかかり、烏天狗が覆いかぶさってきた。顎を掴まれ、無理やり顔を天井に向けられる。抵抗する術もなく観念して目を開けると、烏天狗は満足そうに微笑みながら、詠の唇を噛みつくように奪った。
「夜這いを待つとは、健気なことで。」
詠は歯を食いしばって何も言わない。本来、こんな行為は色事のような浮ついた感情から始まったものではなかった。それなのに、今となって烏天狗に都合よく解釈されていることが、どうしようもなく悔しかった。
経緯を話せば長くなってしまうが、詠が烏天狗に一定の間隔で抱かれているのは、妖力を得るためだった。それは愛を育む行為などとは程遠く、むしろ必要に駆られた取引のようなものだった。
本来、妖力を注いでもらうための行為に接吻は必要ない。だが、初めはなんとなく唇を重ねてしまい、そのまま数回を重ねてきた。後になって気づいたものの、烏天狗に近づくための手段だと自分に言い聞かせることで、理由を作ってきた。懐に入り、油断を誘う手段。そう割り切るつもりだったのだ。
烏天狗は詠の下唇を軽く噛み、その唇を弄ぶように舌先でなぞる。詠が抗議しようと口を開けた瞬間、その隙をついて親指がぐいと口内に滑り込む。力強くこじ開けるようなその動作に、詠の身体は思わず硬直した。
舌が絡み合う感触が深くなり、口づけがさらに激しくなる。三日ぶりのこの行為に、生きる力がみなぎるような感覚が体内を駆け巡った。烏天狗の体液に僅かに混じる妖力が流れ込み、身体の芯がぽっと熱を帯びるように感じられる。
やがて、烏天狗はふと飽きたように詠の舌を噛んだ。鋭い痛みに続いて、じんわりと痺れる感覚が広がる。
「へう……びゃかあ……。」
漏れた情けない声に、烏天狗が口元を歪めて笑う。その瞳には、痛みさえ楽しんでいるかのような残酷さが宿っていた。それでいてその姿はどこか妖艶で、思わず心の奥底に愛や恋を錯覚させる危うさがあった。
並外れた美貌というものは、人の判断をいとも簡単に狂わせる。詠はそのことを、身をもって思い知らされていた。
烏天狗に近づくため、仕方なく身体を許している。詠なりに幾度も譲歩を重ね、この行為にそれらしい理由をつけてきた。それなのに、気づけばまた少しずつ絆されている自分がいる。その事実を認めたくないあまり、この行為を正当化しようとする己自身に、どうしようもない苛立ちを覚えるのだった。
烏天狗は布団を無遠慮に捲ると、詠の背後に覆い被さるように抱きしめてきた。
「布団が冷たい。」
低く響く声が耳元で囁かれる。
冷たいのは当然だ。烏天狗に頼まれた遣いから戻ったばかりで、布団に潜る暇もなかったのだから。心の中で毒づきつつも、口には出さない。
じわりと伝わる烏天狗の体温と、背中越しに微かに感じる脈動。それが妙に生々しく、詠の心にさざ波のような感情を残していく。自分の意志とは無関係に、無遠慮に入り込んでくる存在の重みを、詠はただ黙って受け入れるほかなかった。
烏天狗の手が詠の腰に巻かれた帯を解き、無遠慮に素肌へと滑り込む。その指先は冷たい空気に晒された温もりを求めるように、血の通う場所を探し当てる。脇の下に手を差し入れたり、首筋を揉んだりと、詠の体をまるで確かめるように触れるたび、微妙な居心地の悪さが胸をよぎった。
「ん……。」
湯から上がったばかりの烏天狗の手は、ほんのりと温かい。乱れた寝間着の布地を挟むようにして詠の筋肉を揉みほぐす。脚の付け根の筋を無遠慮に揉まれ、思わず腿がびくりと震え、烏天狗の手を挟んでしまう。
「やっ……。」
詠の体は筋肉が薄れ、どこか柔らかくなっていた。ここ最近、仕事をサボってはラーメンばかり食べているせいだろう。そう自嘲しながらも、烏天狗の手が無遠慮に肌を這う感覚には抗えず、思わずその手に指を絡ませた。
「焦ったいです……。早くして。」
詠は自分の苛立ちを隠さずに、烏天狗を誘う。僅かに腰を揺らし、その熱を帯びた体を相手の腰に擦りつけるように動かすと、烏天狗の吐息が耳元にかかった。
「そう急かすな。」
「……あっ。」
烏天狗の指が臍を押し、詠は思わず腰を引いた。その動きを逃さず、烏天狗が詠を抱え込むように引き寄せる。耳元でぼそりと呟かれた言葉が、不意に聞き取れなかった。
「寒い……。」
「はい?」
詠が怪訝そうに返すと、烏天狗は冷え切った足を詠の脚に擦り付けてきた。
「うわっ、冷たっ。」
文句を言う間もなく、さらに強く抱きしめられる。その様子はまるで、詠を湯たんぽ代わりにしているかのようだった。寝たまま抱くことだってできるはずなのに、どうしてこんな風に絡みついてくるのか、詠には理解できない。
抱かれるのは不本意だ。それでも、妖力を得るための行為を放棄するわけにはいかない。焦りと苛立ちが綯い交ぜになった感情が詠の胸に渦巻いた。