【最初から決まっているんだよ】「俺、そろそろ帰りますね」
「……うん」
夕暮れ時。公園のベンチから立ち上がった夏目に、名取はかなりの間を置いてからうなづいた。さっきまでここにいた猫は、塔子の作った夕飯を食べるためすでに歩き始めており、ベンチに残されたのは夏目と名取の二人だけだ。まだ話し足りなかっただろうか、と考えた夏目だが、名取から引き留められたことはないため不思議に思う。
「……どうかしましたか? その、話し足りないなら夜に電話でも」
「いや、そういうわけじゃないよ」
「じゃあどういう」
「……」
問い詰めたところで名取は固く口を閉ざしてしまう。やわらかな微笑みと、八の字に下げられた眉尻。なんとなく後ろ髪を引かれてる表情をしていたが、猫はすでに遠くへ行ってしまっていた。
「すいません。俺、行きますね。それじゃあ」
ぺこりと頭を下げてから、そそくさと立ち去る。
そのあいだも名取は微笑みを浮かべていただけで、じぶんの勘違いだろうとも思ったが、なにか失礼なことでも口走ってしまったのだろうかと夏目は先ほどまでを省みた。
わずかな時間ではあったが、こうやって名取と会えるのは嬉しい。話したいことがたくさんあるようで、でもいつでも話せるという過信した気持ちが、穏やかな話題と会話を始終運んでくれた。
間違えたことなど無いはずだ。
別れる寸前まで名取とはいつも通りの会話をして、お互いの近況やらを報告して、楽しく微笑みながらしゃべっていたはずなのだ。そのため、名取の不可解な表情はずっと心に残り続ける。嬉しかったはずのその時間もなぜだがどんよりと重いものに感じてしまう。
* * *
ぼんやりと外を眺めていた。背中では同級生のはしゃぐ声が聞こえてくるけれど、今はどうにも混ざる気になれない。
「浮かない顔だな」
「ああ、田沼か。ちょっと面倒なことがあって」
「……大丈夫か?」
「まあ、うん、たぶん……大したことではないから」
言って、その大したことない過去を思い出してはため息を吐き出すじぶんを自覚する。
廊下の窓から外を眺めていた夏目に、声をかけてきた田沼だった。会話の流れで隣に並んだ彼は、同じようにして窓から外を眺める。長くはない昼休み。こんなところで時間を潰していいのかと聞こうとして、止めた。田沼に対して気を遣うと逆に気を遣われる。事実、今だって田沼からは心配する空気が伝わってきて理由を告げない方が難しい。
「妖事ではないぞ。でも悪い、言葉足らずだったな」
「それならあまり踏み込むわけにはいかなそうだ。良ければ話を聞くくらい聞くぞ? 聞いてもいいのなら、だけど」
そう付け加えた田沼は、やはりこちらが言ってくれるのを辛抱強く待ってくれた。心配させたのは申し訳なかったが、田沼はわかりやすくて有難い。あの胡散臭い大人とは違って、なにを考えているかが年齢が同じなのも相まっているため、向けてくる感情はストレートでわかりやすかった。
「…………なぁ、田沼」
「ん?」
「さっきまで楽しくしゃべってたのに、別れる寸前、とたんに気まずくなるのってなんでだと思う?」
とりあえずその優しさに縋って、おそるおそる伝えてみることにした。すると田沼はなにを尋ねられたのか最初は理解できなかったようで、きょとんとした顔をしたあと、「ああ、」と声を上げた。
「もしかして怒らせた?」
「いや、違う。それはない。俺も考えたけれど、帰る前までは楽しく話していたし、本当に突然のことだったから」
思い返してみても、やっぱりじぶんの落ち度は考えられない。失言をしてしまった可能性もなさそうで、なにより名取もやわらかく微笑んでいたはずだ。それがほんのちょっとだけ寂しそうで、ほんのちょっとだけ返事に間が空いていて、それらが気になるのはもはや夏目の勘違いとさえ思えてしまう。
「なら、帰ってほしくなかったんだな」
「は?」
思いがけない返答に目が点になった。
「その人、夏目に帰ってほしくないけど引き留めることもできなくて、その葛藤が顔に出ちゃったんじゃないかなぁ」
「あー……」
ストンと腑に落ちる。
帰ってほしくない。
やはりというか、想像通りというか。本人が抑えている分、その感情はよりメンドクサイものとなって夏目に伝わっていた。とりあえず怒らせたわけではないことにホッと胸を撫でおろすものの、ならば別の意味で疑問が湧いてくる。
「帰ってほしくない理由、ねぇ……」
皆目見当がつかない。
いや、あり得ない見当が付いてしまうから否定する。
「なんとなくわかるだろ?」
「あー、うん。そうなんだよなぁ……なんとなくわかっちゃったから、だから困ってきたんだけど」
「あはは。夏目にも春が来たってわけだ」
「そういうのじゃないよ。たぶん」
「まあ相手は聞かないでおくよ。いつか教えてくれれば」
「いやだから、そういうのじゃ……」
そう。あのときだって、夏目は名取の話はすべて聞いたつもりだった。
名取との会話は楽しくて、でも弾むような楽しさというよりは柔らかなぬくもりに包まれているような、そんな時間を一緒に過ごせるのが心地いい。けして互いに口数が多いわけではないが、無言の時間も名取となら共有できる気がしていた。実際ぽつりぽつりとお互いの近況を伝えたり、天候の話をするだけでも心があたたかくなるのだから、まだしゃべっていたいと思ったのは夏目だって同じだ。
「俺、失礼なことしちゃってたかも」
「そうなのか? そこは相手の問題ってこともあるし、なにも夏目だけが悪いわけじゃない。お互いに言葉が足らないだけだよ。きっと」
「だといいんだけど。なあ田沼」
「なに?」
「田沼にとって話しにくいことってなにがある?」
たとえば妖怪が視えることだったり、友人帳のことだったり。
夏目には人に話せないことがたくさんあって、その多くが信じてもらえないからという理由に他ならない。それが最近では不安に思わせたり、心配させたくないという感情が加わって、口にしないように、悟られないようにと、そっちの方に気を遣うようになってしまった。
でも、これらの感情は相手に負担をかけたくないからだ。
それなのに、負担にならないようなもの――この場合は相手にとって心地いいと感じられるものであるなら尚更、どうして名取は口にすることをためらうのだろう。その理由が夏目にはわからない。
そうは言っても、もしも名取から仕事の相談をされるようなことがあるならば、夏目ではてんで相手トンしては相応しくないが。
「俺だったらやっぱり、じぶんの気持ち、かな」
「気持ち? 好意とかか?」
「それもあるけど、好きとか嫌いとか極端なことではなくて、もっと一緒にいたいとか、もっと話していたいとか、ちいさな要望であっても伝えるのが怖くなることってないか?」
「そりゃあ、迷惑かけたくないから、だろ?」
「だよね。ただそれ以外にも、その気持ちがあまりにも大きなものだったら、断られた時のダメージも相当だろう? 本気であるほど怖くなるものなんだよ、人は。そこにじぶんの気持ちがブーストされるほど身動きも取れなくなる」
眉尻を下げながら、言い切った田沼が深く苦笑した。
――本気の、好き。
その言葉を頭の中で反芻すると、なぜだかカチリとピースが当てはまってしまう。好きだから帰したくないとか、好きだから帰りたくないとか、この気持ちが確かなら、夏目だって名取に「帰りたくない」と伝えられないでいたではないか。でも言い訳のように塔子が心配するからとか、ニャンコ先生が先に行ってしまったからとか、帰るための理由を挙げ連ねることで重い腰を上げたはずだ。
それを考えてしまうと――
「夏目、どうした? 顔赤くないか?」
「い、いや、大丈夫、大丈夫だ。ちょっと陽に当たりすぎてただけだから、べつになにかを考えていたわけじゃ」
「じゃあそろそろ戻るか。昼休みも終わるしな」
「田沼、ありがとな」
「ああ」
手をあげて別れると、尾を引くことなく互いに教室へと戻る。頬はまだ熱を持ったまま。とにもかくにも確かめなければ始まらない。夏目はカバンから紙人形を取り出すと、名取に向けてそれを放った。
* * *
『今日会えませんか?』
紙人形で名取を呼び出すと、いつもの公園のベンチに腰かける。ぼんやりと眺めた空は昼間よりも赤く染まり、夕陽のまぶしさに目を細めた。
「おまたせ夏目。待たせたね」
そこへ名取がやって来る。珍しくキラメキこそまき散らしていなかったものの、陽を浴びた姿がまぶしてくて、夏目は瞬きをしてしまう。おそらく緊張している。
「…………なんであんな顔してたのか、俺、わかってしまったんですね」
「えぇと、話が読めないんだけど?」
苦笑した名取が困惑を滲ませながら眉尻を下げた。それもそうだ。わかるように説明してやる義理はない。
「名取さん、嘘が下手になりましたね。それともわざと気づくようにやったんですか? それならそれでズルイです」
「へぇ、なるほど……ね。上手く隠してたつもりだったんだけど」
「どこが。全然です」
睨んでやれば、名取は下げた眉尻をさらに情けないほど下げていた。それなのにどこか寂しげにも見える顔で笑うもんだから、なんで、と苛立ちばかりが募っていく。
「好きなら好きって、言ってくれたらよかったんです……」
「言えるわけないだろう? だって君は子どもで、私は大人だ。それくらいは弁えてる」
「そんなのっ!」
思わずベンチから立ち上がった。
「そんなのはあなたの言い訳だ! 俺は……俺だって……。自覚したのは昨日ですけど、でも、言ってくれたってよかったじゃないですか! 伝えてくれてもいいじゃないですか!」
こぼれた言葉は本心だった。
夏目もまた、名取のことが好きだった。
それを自覚したのは名取のあの顔を見たあとだとしても、好意であるなら尚更伝えてほしいと思うのは悪いことなのだろうか。どうせこちらの気持ちだって気づいていたくせに、言わない選択肢を取るのは秘境じゃないか。
「……それでも、言えないんだよ」
だが名取は自嘲気味に笑うと、独り言のように呟いた。
「今だけじゃない。君の未来もすべて欲しいと思うほど、私にそんな勇気なんてないんだ」
昏く沈んでいく名取の顔から、彼のいう『未来』という言葉がなにを示しているのかわかってしまう。
名取は、夏目のこの気持ちを一時的なものだと思って疑わない。若気の至りだと、一時の迷いだと、その程度の感情だと信じているからじぶんから動くことをしなかった。夏目の未来にじぶんを入れようとは考えなかったのだ。
だったら大馬鹿だ。
本当にバカだ。
名取が夏目の未来を奪ってしまうことを恐れるのなら、夏目だって名取に同じことが言えるのに、なんでそれを失念してしまうのだろう。
それに、奪うとか奪われるとかじゃない。
好きだからこれからも一緒にいたい、ずっと一緒にいたいと思う気持ちは純粋で、もっとずっとあたたかくて幸せなはずなのに――
「俺、名取さんが好きです。好きだから一緒にいたいし、この先もずっと隣にいてほしいと思うし、この気持ちは一時的なものなんかじゃない。それくらいわかっていたはずでしょう? それなのに言ってくれないなんて卑怯だ。名取さんはズルい」
「ごめんね……本当に、ごめん……」
「嫌だ、許しません」
「それはキツイな」
苦々しく笑った名取は、そう言いながらもあまり辛そうにみえなかった。これだけ罵られているのによく笑っていられるなと思った夏目だが、よく考えれば告白したことになる。勢いのままではあるが、あまりにも過ぎたことを言ってしまったことに、顔だけでなく耳までぶわっと赤くなった。
「でもそうだね。許してくれるなんて最初から思ってないんだよ。それ以前に、君の未来に私を置いてもらえるなんて考えることもできなくて、今だけでもいいと何度も言い聞かせていたんだけど」
独白を連ねていく名取の声は、まるでじぶん自身に言い聞かせているみたいだった。
そんなの最初から諦めているのと同じじゃないか、と思うと、いちどは鎮火したはずの怒りが込み上げてくる。この大人はどこまでネガティブなのか。
ギッとつよい視線を向けたが、夏目はそれを吐き出すことをしなかった。このまま、勢いのまま名取に感情をぶつけるだけでは想いが伝わることはない。一時の気持ちだと勘違いされたままでは腹正しいことこの上ないため、夏目はおおきくひとつ深呼吸をする。
「俺は、俺の未来に名取さんがいないのは考えたことはありません」
素直な心を名取に届ける。
「だから何度でも言いますね。俺は、あなたが――、ッ」
だが、続けることはできなかった。ぜんぶを言い切る前に名取につよく抱きしめられてしまって、今までにない距離で名取を感じることとなる。名取の体温を知る。
「ほんと、君には敵わないなぁ」
「べ、べつに勝ち負けじゃないですし、こういう駆け引き、は、あなたの方が得意、でしょう?」
耳元にかかる声に心臓を跳ねさせて、どうにか言葉を返すと名取がゆっくりと首を横に振ったのがわかった。
「初恋はね、先に惚れた方が負けなんだ」
その後、「俺の方が先ですから!」と言った夏目のくちびるを、名取が塞いだのは言うまでもない。それでもここが公園のベンチの前で、羞恥と怒りとその他諸々の感情が爆発した夏目から、名取がこっぴどく怒られたことも付け加えておく。
終わり
2025.3.7