今日も宗雲が女を口説いている。正確には、口説いているような素振りを見せている。
会えない時間寂しかった、というような言葉を本当にそれらしい口調で語り、その分今日は時間の許す限り共にいたい、というような言葉を柔らかな微笑で告げる。
皇紀は浄のいる卓にぶっきらぼうに料理を出した後、すぐには厨房に戻らずに宗雲の卓を見ていた。彼の告げるもっともらしい言葉に女は頬を染め、まつ毛を何度も激しく瞬く。宗雲はその様子に笑みを深くし、皇紀に聞こえない声で何か囁いた。彼の唇の動きと女の反応からして、多分、可愛らしい、みたいなことだろう。
「どしたの、皇紀さん」
通りすがった颯の声がけに振り返る。言葉にするのがあまりにも面倒くさく黙っていると、颯は小刻みな歩調で近づいてきていたずらっぽく声を潜めた。
「妬いてたり?」
「……さあな」
本当に「さあな」の気持ちだったが、颯はそれを肯定を隠す言葉と解したらしい。面白そうににんまり笑って、「ほどほどにねっ」と笑いながらきらびやかなグラス片手に賑わうテーブルに近づいていく。皇紀はそれを横目に見送りながら、宗雲の方に視線を戻した。
女と二人、薄い黄金色に染まったグラスを合わせ、乾杯を交わしている。皇紀の供する今日のメニューに相応しい食前酒として彼が選んだスパークリングワイン。細かな水泡はふたりの間で対称な波となり、ぐるりと輪を作って水面に落ちた。
颯の言葉は的外れだと思う。客に妬いたりなど誰がするものか。
いくら宗雲の女にかける言葉が甘くとも、目線が悩ましく誘惑の色を帯びていても、宗雲は客の女との本当の意味での接触を望んだりしないし、客のうち誰か一人を理由なく特別扱いしたりしない。
それに何より──。
*
柔らかな髪が揺れ、隙間から緑の瞳が控えめに覗く。かかった前髪越しにも、彼の目が自分の方を見おろしているのは明らかだった。
「皇紀」
宗雲の呼び声を聞き、ソファーに乗った手が生地を滑りこちらへ向かってくるのを眺めながら、皇紀は今日のデセールを思い出す。夏風にアレンジしたアフォガード。ナッツを混ぜたバニラアイスにマンゴーを添えて、颯謹製の温かいエスプレッソを注いだ。
二人きりで仕事の絡まない、今みたいな時間の宗雲の声は、まさにそういう感じだった。どこまでも甘くて少しほろ苦い。本来冷たく硬いはずのものが、温かいもので端からじわじわと溶かされているような。
ぼんやりと考えているうちに、彼の指の一本一本が皇紀の指をとらえ、絡んでくる。彼がもう、深い夜の時間を始めたがっていることが、肌の重なった部分から皇紀のほうにも伝わってくる。
「皇紀……」
もう一度名前を呼ばれる。別に大した意味はないと思う。宗雲は時々皇紀の名を呼ぶこと自体を目的にすることがある。皇紀もいっしょだ。ただ、「宗雲」と答え、手のひらにまで潜り込んだ彼の指を握りしめる。宗雲は重なり繋がった手を見下ろし、何かを誤魔化すように一つ咳払いをした。
「……今日、しばらくフロアに立っていただろう。他のお客様が何事かと気にしていた」
「……悪かったか」
「……いや。俺も気になって……」
営業中のことを淡々と語る口調も、耳たぶの端をくすぐるような響きを帯びている。ここにはふたりしかいないのに、間に作った小さな箱にそうっと隠し入れるような声。だから皇紀も同じ箱に声を閉じ込める。
「お前を見てた」
「それは……」
宗雲の語尾が苦笑に消える。繋がった彼の指にわかりやすく力がこもる。
「あまり、感心しないな……」
実はそうでもなさそうな、くすぐったそうな口ぶりだった。皇紀がその口調に対しての意味も込めて頷くと、宗雲は何も面白いことなんかないだろうに喉の奥で笑って、少し斜めに皇紀の体にもたれかかる。彼の目の位置が皇紀の目線より低くなり、まつ毛の連なりがよく見えた。石鹸の香りがふわりと立ち上る。彼自身の清潔さと温かさと、夜にだけ漂うほんの少しの焦ったさを帯びた香りも。
「……顔、上げろ」
「……ん」
別にそんなこと言いつけてないのに、宗雲は目を薄く閉じ、皇紀の方に少し顔を寄せた。皇紀は宗雲の前髪をかき分け、眉とか鼻梁越しのきれいな頭蓋骨の形を掌で感じながら、彼の上唇を喰む。ん、とうわずった声と一緒にさわさわと衣擦れが鳴り、宗雲の体が少し皇紀側に向けられ、背中に腕が回される。寄りかかる彼の体重がもっと委ねられた。重いとは感じない。皇紀も彼と同様、彼の身体に腕を回し、薄い生地の下でほどける筋肉の形をさぐる。皇紀も始めたかった。深い夜の時間を。
「っ……」
キスの隙間で口元に触る彼の吐息がくすぐったい。くすぐったいからすぐにもう一度唇を塞いだ。彼の前髪が頬に触ってこれもくすぐったかったが、それを避けたいとは全然思わなかった。
唇。舌。あたたかい粘膜。繋がる面積が増えると、手のひらに感じる宗雲の体温がどんどん熱くなっていく。芯にある骨が何かたまらないものを堪えるように小刻みに動いていた。どんな動きも取り逃がしたくはない。宗雲の肉体に手を滑らせて、服を捲って中に入ると、彼の肌が少し汗ばんでいるのがわかった。湿りを帯びているのはあるいは、皇紀の手のほうかもしれない。
「こうき……」
長いキスの終わりに、吐息混じりにもう一度注がれるのも、アフォガードみたいな声だった。それも、テーブルに出して少しの間手をつけずに放置していたアフォガード。温かく苦いエスプレッソに甘いアイスが溶け落ち、ほどけて、溺れていく。
宗雲、と言った。自分の声がどういう感じなのか自分ではわからなかったが、彼の背中が腕の中でかすかに震えた。
宗雲の頬が、山際で夕陽が一番輝くときのように赤く染まっている。その赤みの度合いだけで言えば、さっき彼が甘い言葉を投げかけていた女に劣らない。そしてあの女とは比べ物にならないほど、美味そうだった。頬に軽く歯を立てると、彼の身体に滲む震えが強くなる。その震えが止むと、宗雲の肉はもっとやわらかくなって、皇紀の力を全部飲み込み受け入れていく。
他に誰も知らないだろう。
宗雲のからだがこんなに柔らかくほどけるところを。
どこか淫蕩と芯をふやけさせた、甘くてぬるいこの声も。
漢字より軟く開かれる「こうき」の発音も。
皇紀が宗雲の腰に手を回すのを、彼は拒まない。彼の唇から溢れ首のあたりにぶつかる息が、ほろ苦い中にいっそう形をなくしていく。
「こうき……っ」
ああ、と応じた声は掠れていた。液体になりかけた彼のことを今すぐ全部飲み下して、喉を潤したい気分だった。
冷気と熱の混ざり合う刹那の甘味は、早く食べないとすっかり溶けてしまうから。