現パロ社会人トレケイ ケイト・ダイヤモンドは営業職員だ。成績もよく、いろんな顧客を持っていた。そのため中には面倒くさい客もいて、その日はそのことで支社の総務担当のトレイから営業所に電話がかかってきていた。
「俺もその会社の件で関わってるから何か協力できないかと思ってな」
「あはは!大丈夫、オレが何とかするって」
支社といえど同じビルのフロア違いだ。こんな近い距離で電話なんかしているのが何だかおかしくて憂鬱だったケイトの心は晴れた。
似たような年に入社しているトレイとケイトだが、顔くらいしか合わせたことがない。初対面の挨拶で互いに敬語ではなくなったが、研修のグループワークは別の班だったりとあまり接点はなかったのだ。しかし最近になってこうやってたまに営業所に電話をかけてくるようになった。ケイトとしては気晴らしになるので嬉しいが、どうせならメッセージアプリでやりとりをしてくれれば楽なのに、と思うことがある。とはいえ二人は連絡先を交換しておらず、なんとなくタイミングを逃したままになっていた。ケイトはそれをむず痒く思うが、交換しようとは言い出せなかった。
なんとなく、その理由は自分でもわかってはいた。ケイトは社交的で明るく、空気を読むが臆することのない性格をしていた。しかしトレイに対してはどうもいつもの調子で接するのが難しいのだ。その場のノリで盛り上がれるわけでもなく、落ち着いた声でケイトの身を案じてくれる。なんだかそれがそわそわして、本調子がでない。要は怖いのだ。自分が自分でいられなくなりそうで落ち着かない。そんな自分を見せることになるのが恥ずかしくて、ケイトは未だに連絡先を聞けずにいた。
「ケイト、大丈夫か?」
午後も8時を回り、昼から何も口にする暇もなかったケイトが帰社すると、ちょうどこれから同期と飲みに行くのであろうトレイと出くわした。
「今日もあの客か?」
「あー……うん。なかなか手強くてさ」
するとトレイは何の遠慮もなくするりとケイトの目の下を親指で撫でた。
「隈、できてるぞ。寝ないで資料作ってたのか」
たかが指一本でも、心地いい温度と久々の人肌に僅かに心が休まった。思わずそのままその手に擦り寄せたくなってしまったのは、きっと疲れているからだ。
「腹減ってるんじゃないか?あー…こいつらが一緒でよければちょっと飯食いにいかないか?」
トレイの同期たちも心配そうな顔をしている。しかしせっかくの同期飲みを邪魔するわけにはいかない。
「誘ってくれてありがとね。でも大丈夫、オレもうご飯済ませちゃったから。あとはみんなで楽しんでよ」
得意の営業スマイルで線を引く。ここで無遠慮に誘いに乗ったりなんかしたら大変だ。余計な感情を持つ人もいるかもしれないのに、わざわざそれを引き受けに行くなんて以ての外だ。そして何と言ったって心配されたくない。特にトレイに格好悪い姿なんか見せたくなかった。
「そうか、じゃあ俺はちょっとケイトを送っていくから、今日はみんなで店行ってくれ」
ん?今なんと言った?
はいよーと何事もないように店に向かって歩き出す同期たちは、今の言葉に何も疑問を持たなかったのだろうか。それとも、もしかしてトレイは他の人にもよくこういうことをするのだろうか。
「待って待って、オレ一人で帰れるんだけど!」
「まあまあそう言うなって。ラーメンでいいか?」
「え?」
ラーメン。その言葉に反応したのはケイトのお腹の方が早かった。切なそうな音を立て、胃の中が空である主張をする。完敗だ。まだ何も食べてないことも見透かされていた。ケイトは肩の力を抜き開き直ることにした。
「激辛ラーメン」
「だめだ、豚骨醤油」
近くに旨い店があるんだって、と得意げに笑うトレイの顔に思わず釘付けになる。そんなふうに笑うこともあるんだ。なんとなく優越感を覚えながら、早く行こうと道に出ると「逆だ」と呆れながら笑って反対の道に連れて行かれた。
赤く染まる豚骨醤油を見てトレイは溜息をつく。
「早死にするなよ」
「縁起でもないこと言うじゃん」
これ以上ケイトが唐辛子を足さないように容器を遠ざけながら、今度は自分の分の葱の容器に手を伸ばした。
「将来の奥さんが泣くぞ」
葱の容器はケイト側の奥にある。ケイトのすぐ横についた手を支点に反対側の腕を伸ばす。必然的に近くなったYシャツからはなんとも心のざわつく男の香りがした。ケイトの手のそばについたトレイの手はケイトのそれよりも大きく、角張ってはいるが指の長い綺麗な手をしていた。ほんの少し触ってみたいとか、この頭の近くの腕の中に閉じ込められたらどんな感じだろうかとか、そんな浮ついた考えがよぎる。何を考えているのか。
「ごめん、言ってくれればオレが取ったのに」
容器を掴んだ腕は引っ込み、席につくトレイとケイトの僅かな隙間に新鮮な空気が流れ込む。
「それに奥さんなんて……。仕事忙しいし、結婚は厳しいかな〜なんて!そういうトレイくんだってどうよ?もう既に同棲してたりして!」
麺を啜りながらちらりと左手の薬指を確認する。結婚はしていないようだった。隣で空気だけで笑う音が聞こえた。
「まあ、付き合いたい奴はいるんだが……」
ガツンと殴られたような衝撃だった。自分で話題を振っておきながら、知らぬ間に「いないよ、そんな人」と苦笑する姿を見る準備をしていたのだ。そしたらどうしてた?そこから距離を詰めて……。それでどうしたかった?
「そっか。けーくん応援しちゃう。トレイくんめっちゃいい男だし、絶対うまくいくって」
辛いラーメンが鼻の奥を刺激する。からいなぁ、つらいなぁ、とスープを啜り、隣ではにかむ男の「ありがとう」を嚥下音で誤魔化した。
トレイ・クローバーが本社に移動するらしい。
そう聞いたのは少し前だ。上司が「そういえば最近仲良かったよな。聞いてたか?」と切り出したのだ。適当に話を合わせ、一人廊下に出てスマホの連絡先をスクロールした。そうだ、トレイとはまだ交換してなかったんだ。営業所から支社への電話なら通じるが、私用で使うことなどできない。さり気なく支社のフロアをうろうろしてみるも、移動が決まって忙しいのか、一度も出くわさなかった。
そうこうしているうちに、トレイの移動の日が来てしまった。
「ダイヤモンド、準備はできたか?」
「はい、今日はよろしくお願いします」
トレイと話すチャンスがあるとすれば今晩だった。トレイの業務が終わり、会社を出る時。そこに待ち伏せをすれば、ちゃんと話ができるはずだったのだ。しかし神様は味方をしてくれない。こんな日に限ってケイトは大事なアポが入ってしまったのだ。そしてよりにもよって重要案件のために上司も同伴だ。これではどこかでトレイともし会えたとしても二人で話すことなどできない。
「行きましょう」
時間は定時を過ぎた頃。営業のアポはどんな時間でも入る。今日は特に恨めしい時間帯だ。
微かな機械音を立ててエレベーターが降りる中、もしトレイと出くわしたらどうしようかと考える。きっとその場で話し込むことはできない。そうなれば……そうだ。連絡先の交換をしよう。それなら適当に理由をつけて一〜二分で終わるだろう。
グン、と降下が終わり、扉が開く。重い資料の入った紙袋を握り直し、ロビーを進んだ。時折行き交う社内の人はみな忙しそうだった。上司の横でさり気なく視線を巡らせる。どこかに望んでいる人がいないかと――いた。柱の影からエレベーターの方を気にしている見知った男が立っていた。
「あれ、クローバーくん」
あっと思った時には目敏く見つけた上司が声をかけてしまった。
「どうしたの、もう終わったんじゃないの」
「あ、ああえっと、忘れ物をしてしまって……取りに行くタイミングを……はは」
「はっはっはっ!普通に行けばいいじゃないか!まったく、ちゃんと本社でも元気でやれよ」
じゃあ行こうか、と上司に促されその場を後にした。オレは絶望していた。運良くトレイと会えたのは嬉しかったのだ。上司が声をかけてしまったが、トレイとアイコンタクトでも取れれば何とかなるかと思っていたのだ。しかしそれは叶わなかった。トレイは一度もこちらを見なかったのだ。こちらが笑顔で手を振ろうが、一瞬たりとも目が合わなかったのだ。
「なぁダイヤモンド。ありゃあ絶対に待ち伏せだな」
にやりといやらしく笑った上司の声が頭に響く。笑って誤魔化して何も答えはしなかったが、明らかにあれは誰かを待っていた。目すら合わさないオレなんかじゃなくて『付き合いたい奴』を。
重く隙間のない土嚢を胸に詰め込まれているようだった。足取りは重く、その先の記憶はあまりない。アポはうまくいったらしいが、上司がいたからだろう。せめてあの時上司がいなくて、声をかけたのがオレだったら。そしたらあいつはオレを見ただろうか。
行き着くスクロール画面にあいつの名前はない。メッセージアプリを閉じ、ジョッキを煽った。
「へぇ〜、ケイト先輩もそんな過去があったんすね〜。てっきり百戦錬磨の負けなし男だと思ってましたよ」
目の前の後輩とは彼の入社当時から仲がいい。チームこそ違えど気が合うのでつるんでいることが多く、同じ営業所内でケイトと一位二位を争う良きライバルでもある。トレイの移動の後から入社した彼には申し訳ないが、サシ飲みの席でケイトはよく愚痴のようにトレイとの思い出を語ることがあった。
「やーほんとさ、よく考えたら自分から何もアクション起こしてないのにこんな未練たらたらになるなんてさぁ」
今日のケイトはかなり酔っていた。さり気なく水を勧めつつ一番高い子持ち昆布の串カツを攫っていった後輩が、頭を垂れる先輩に向けて宥めるように口を開く。
「まぁ未練あるのは、むしろ自分から何もできなかったからかもしれないっすよ?そもそも、もしかしたらそのトレイ先輩が待ってたのってケイト先輩だったかもしんないじゃん」
予想だにしなかった発言に頭を上げるとふわりと目が回った。え?何だって?
「上司に邪魔されちゃったから咄嗟に誤魔化して話しかけられなかっただけで、ケイト先輩を待ってた可能性はあるわけでしょ?」
そんなこと、あるのだろうか。確かにあのタイミングで出会えたのだから上司がいなければ話せていたのは事実だ。じゃあ、オレが出てくるのを待ち伏せてて……?
「いやいやそれはないない!だってあの時目も合わせてくれなかったんだもん!」
「いーやそれは絶対気まずかったからだって!」
「気まずい……?」
「そ。だって上司に邪魔された挙げ句、咄嗟に格好悪いミスで誤魔化しちゃってるじゃん。それでケイト先輩に顔向けられなかったんじゃないの?」
そんな。だって、そんな些細なことなんてこっちは気にしないのに。
後輩は目を泳がせるケイトを見て溜息をついた。
「好きな人にはどんな些細なことでも格好悪いところ見せられないでしょ」
ケイトに訪れたのはふわふわと地に足がつかないような期待と、残酷にも与えられていたヒントに気付かずに時が経ちすぎていたという絶望だった。
「そ……そうだとしても、か、確証はないし……」
情けない声だったと思う。終わった恋がもしかしたら実っていたかもしれないなんて、今更にも程がありすぎる。もし本当に後輩の言ったことが正しければ、自分はなんて鈍感で気の利かないヤツだったのだろうと目の前が暗くなりかけた。
震える指先を見かねたのだろう。パチンと手を合わせ「なーんてね!」と明るい声を出した後輩は、散らかったメニューやらお手拭きやらを片付け始めた。
「こんなこと言ったけどタラレバなんてどうしようもないですし。言い出したオレが言うのもなんだけど真実かどうかだって聞いてみないことにはわからないしね。さ、とりあえず切り替えましょ。ほら、今度うちの支社表彰されるんだし、代表のケイト先輩がちゃんとしないと!」
最後にグイッと残りのビールを飲み干し、後輩は店員にお勘定の仕草を見せた。
「ややや、オレ払うから」
慌てて二人分の飲食代を机に置き、そばにあった水を一気に胃に流し込むと少しスッキリして目が覚めた。今日はいつにも増して絡んでしまった気がする。ふとトレイのことを思い出して寂しくなる時、ついつい酒が進んでしまうのだ。こういう時、頃合いを見て水を勧める後輩には感謝している。おそらく今日のような日には深酒は禁物だ。立ち直れないし、下手したら泣き出すかもしれない。そんな無様な姿を後輩に見せるわけにはいかなかった。
「ていうかケイト先輩、気づいてる?表彰式、本社でやるんだからね?」
頭がクリアになってきたところに聞こえた言葉に思わず戻ってきた血が通り過ぎていきそうになり、酔いなど消えてしまった。
「いや……うん、わかってる」
わかってはいる。逸したかった話題だ。期待とも恐怖とも取れるこの感情がずっと渦巻いているからこそ、抱えきれずに今日こんな失敗談を深掘りしまったのだけれど。
「会えたら……どうします?」
会えたらいいですね、と言わないでくれるところがいい後輩だ。ケイトは暫く逡巡し、口を開いた。
「声をかける」
「いやそこはせめて連絡先交換するとか言ってくださいよ!」
後輩の激しいツッコミにケタケタと笑い、店の外のひんやりした夜道に足を踏み出した。熱気の籠もった喧騒から解放され、思わず伸びをする。
「うん、頑張るよ。連絡先聞いてみる」
優秀なかわいい後輩に発破をかけられれば今度こそ動いてみるしかない。飲みに誘ってよかった。先輩としてどうかとは思うが、背中を押してくれる存在は大切にしたい。
「んじゃ、もし連絡先聞けなかったら次の飲みで子持ち昆布二つ追加で」
もちろんケイトの持ちでという話だ。こういうところはかわいくない。
きらびやかな大理石の廊下の中央は落ち着いた紺色の絨毯で、どこかの高級ホテルのロビーのようだ。自社ビルである本社は羽振りの良さを表していた。
突き当りの部屋が表彰式を行う場所なのだろう。整然と椅子が並べられ、壇上にはマイクテストを行う者や装飾の位置を直す者もいた。壇上の横には本社の人間が並ぶのだろう。こちら向きに並ぶ二列の椅子があった。
「……トレイくん、いるのかな」
ぽつりと呟く声は続いて広間に入ってくる人達にかき消された。いくつかの支社の成績優秀者だ。次々と席についていく。ケイトは所属の支社の代表として登壇して表彰されるため、席は最前列だった。
いくらか時間が経っただろうか、配布された式次第を見ているうちにいつの間にか本社の人達が着席していた。そっと視線を伺わせると、一列目にはいかにもお偉いさんといった風貌の男とその部下らしき人達が数人いる。だが二列目はここからの角度ではよく見えない。同じく式次第に目を通しているような動きは見えるが、誰かまではわからなかった。
マイクがキーンと鳴る。失礼、とハウリングを詫びた進行役が一つ咳をした。表彰式が始まった。社長の挨拶、次長の挨拶、来賓の挨拶……。式自体に意味があるとは元々思ってはいないが、内心あくびが止まらない。こんな時間があればアポの一つでも取れるというのに。
チラチラと時折本社の席を確認する。二列目の左端。少し顔が見えたが全然違う人だ。
深く息を吐いて手元の式次第に目をやる。
「続いて表彰に移ります」
全国の営業所の順位に従い、ケイトは全体の二番目だった。最初の人が表彰される姿を見ながら、この後に登壇する自分の動きの再確認をする。こういう場で緊張する性格ではないが、念には念を入れたい。拍手が鳴り、数秒で止む。次だ。
「ケイト・ダイヤモンドさん」
自分の名前が響き、立ち上がる。しんとした会場に己の足音が響き、この場の全員の注目を集めている。
――もし。もしここにトレイくんがいたら、オレを見ているんだろうか。
コツリと最後の足音を響かせ壇上に上がる。賞状を読み上げる堅苦しい声を聞きながら、ちらりと関係者席を見た。二列目、左から二番目。見えなかった顔がよく見えた。強く射抜いてくるその視線から逃れられない。あの時合わなかった視線が、これでもかと絡む。
トレイだ。整理できない気持ちがじわじわと溢れ始め、途端に緊張が襲ってくる。音がするのではないかという程の視線を何とか外し、賞状を受け取り礼をして壇上を後にする。
トレイがいた。目があった。それだけで一気に熱があがったかのように感じる。どうしようもない感情が渦巻き、今すぐにでも逃げ出したい。それなのにあの目で射止められ、あの手で捕まえられ、あの腕の中に閉じ込められたいと我儘な本能が叫ぶ。
淡々と進む式が終わった頃にはケイトはへとへとになっていた。顔見知りの参加者たちと軽く挨拶を交わし、さり気なく辺りを見回すがトレイはいない。ひどく落胆しているというのにどこか安堵もしていた。このまま思い出を綺麗に終わらせて、昇華させたい。早く帰ろう。
「そうだ、メッセージ送っとこ」
ロビーの柱のそばに立ち止まり、メッセージアプリを開く。後輩に式が終わったことを伝えるのだ。しかしスマホの画面の上を軽快に動く指がはたと止まった。トレイのことはどう伝えようか。いたよ、だけでは怒られそうだ。
「目が合った……はなんか違うな」
それだけかと驚かれそうである。うんうんと唸り指を宙に彷徨わせていると、ふと視界に影がかかった。
「ちゃんと話せた、とかどうだ?」
「ああそれなら心配されな……いやいや話せてない……し?」
見上げるとそこには先程まで思い返していた瞳が近くにあった。
「え?」
「ひさしぶりだな、元気だったか?」
式の最中ほどの強さはないが、じっと見つめてくるその視線に絡め取られたら離すことはできず、うまく返事ができない。柔らかく微笑んだトレイはするりとケイトの目の下を撫でた。
「最近は無茶な仕事のしかたはしてないみたいだな」
その指の温度と落ち着いた声にぶわりと止まっていたいた血が通い出すような感覚がした。
「トレイくん」
声に出せば抑えていた反動のように行き場のない恋慕が胸を締め付けた。苦しい。好き。好きだ。
「なぁ、ケイト」
その声があの時のことを思い出していることはなんとなくわかった。覚悟をしなくてはならない。あの時本当は誰を待っていたのか。例えそれがケイトではなく他の『付き合いたい奴』だったとしても、何も行動を起こさなかったケイトには落胆する資格もないのだ。でももし待っていたのがケイトだったら……。
「前に一緒にラーメン屋に行った時、付き合いたい奴がいるって言っただろ」
ズキリと心が軋む。
「それで俺が移動前の最後の支社出勤の日、そいつを待っていたんだ」
「うん」
「そしたらお前と上司が来て」
ああ、この言い方。たぶん待ってたのはオレじゃない。
辛いラーメンなんて食べてないのに鼻の奥がツンと痛くなる。
「咄嗟に誤魔化したらさ、お前笑ってて」
そう、たしかトレイとアイコンタクトでも取れないかと笑顔のまま調子を合わせていた。
「俺な、めちゃめちゃ格好悪かったんだよ。それですごくショックだった」
「え?」
「ショックでお前と目合わせられなくて、聞こうと思ってた連絡先も聞けなくて」
「えっ待って」
「でももうどうやってお前と会えるのかわからなくて途方に暮れてたら、俺が出席する表彰式の表彰者一覧にお前の名前があった」
そうだったんだ。いやそんなことよりオレが笑ったからショックだったって?
「会えてよかったよ……本当に。よかった」
切なそうに告げ、トレイはケイトを抱きしめた。ロビーにまばらにいる社員たちから奇妙な視線をちらほら送られる。
「俺と連絡先を交換してくれ」
「待って待って待って全然追いつかない」
だって、だってそれだとオレはトレイくんが連絡先を交換したかった相手で、でもオレが格好悪いトレイくんを笑ったから脈なしだと思って目も合わせられなくて、でもそれはそもそも待ってた『付き合いたい奴』はオレってことで……。
「訂正だけさせて。あれはトレイくんを笑ったんじゃないから。トレイくんが一瞬でもこっちを見てくれないかなって思いながらその場に合わせて笑っただけ」
「そうなのか?」
「あと、その……、連絡先はオレもずっと交換したかった」
ずっとだ。あの日逃してしまったチャンスをずっと引き摺って生きてきた。連絡を取って、会って、いずれこうして腕の中の温かさを感じることができればと思っていたのだ。まさかの形で実感してしまったけれども。
――ということは、先程の「俺と連絡先を交換してくれ」はもしかして。いやもしかしなくとも。
「嬉しいよ。ケイト、ありがとう」
ちゅっと僅かなリップ音と共に頬に温かい湿り気が押し付けられる。やっと離れた体温はオレに熱を残し、その隙間の空気の冷たさなど感じられない。オレはトレイの胸の辺りをグーで軽く突き、笑った。
「わかりづらい告白すんな」
うっかり応えちゃったじゃん。
最近の夜は冷え込むようになった。そろそろ暖房が効くようになった社内から外に出るとトレンチコートの襟元に冷気が入り込む。かじかむ手でメッセージアプリを開く。スクロールをすればすぐに出てくる愛しい名前。
――今から会える?
軽快なリズムで入力し、送信。すぐに既読になり、思わず笑みがこぼれた。
「会えるよ」
ふわりとマフラーを巻かれ、見上げれば会いたかった男がそこにいた。
「待ち伏せてた」
そう言って笑ったトレイは手を差し出した。冷気を塞がれた襟元がすぐに温まるのは、今の今までこの男がマフラーを温めてくれていたおかげか。好きな人の匂いに包まれ、さらに口元が綻ぶ。
「待っててくれてありがと」
少し角張った大きな手を握り返し、指を絡めた。
夜のオフィス街に二人の寄り添う影が楽しげに揺れていた。