失踪したアキを5年後くらいに外国で偶然見つけるところから始まるアリアキ②(……あーーーー……)
シャワールームで、俺は雫に打たれたまま項垂れて顔を覆った。
アキは困惑した顔ではあったものの「まぁ、今から宿を探すには時間が遅いし……何より、君を一晩外で過ごさせるわけにもいかないよね」と、最終的には頷いてくれた。
「そんなに広くもない部屋だけど、それでも良ければ」
アキは、一度表明した言葉を後から撤回するような奴ではない。だから、ひとまずは大丈夫。
────さて。
アキから宿泊の言質は取れたが、これから一体どうするべきか。俺は、まだ迷っている。
(本音を言えば、俺は……アキをイギリスに連れて帰りたい)
ハリーを、アクアを、アキを大事に思っている皆のことを思い出す。
……本当に。アキが失踪した直後の混乱は、そりゃあもう目も当てられないものだった。
ただ──失踪したアキ本人の気持ちを考えると、無理矢理連れ帰るわけにもいかないと理解している。
姿を消したくなるほどの想いが、アキの中に積もり積もった結果の失踪なのだ。もしかしたら俺の存在も、アキが失踪しようとした原因の一つであったのかもしれない。
「……アキ…………」
──手放したくない。
腹の中に渦巻く執着心を自覚する。
この縁を、この奇跡を、絶対に逃したくない。
考えろ。
思考を回せ。
アキの行動の先を読め。
──もう二度と、アキにいなくなって欲しくないのなら。
「…………」
服を着てシャワールームから出る。ワンルームの部屋を見渡すも、しかしアキの姿は見当たらなかった。
サァッと血の気が引いていくのがわかる。アキを探しになりふり構わず外に出た瞬間、玄関前で驚いた顔をしたアキと出くわした。
「わっ、びっくりした……アリス、どうしたの?」
「あ、いや……」
どこに行ったのかと思って、ともごもご告げる。あぁと頷いたアキは、手に持っていた包み紙を掲げて見せた。
「シャワーを勧めたのはいいけど、アリスの替えの服がないことに気付いてさ。ほら、ぼくとアリスじゃ体格が違うから、ぼくの服は貸してあげられないでしょ? ついでに夕飯の材料も買い足してきて……わっ!?」
アキが言い終わるよりも先に、アキの身体を抱きしめた。肩口に頭を埋め、その温もりに息を吐く。
──温かい。
「……もう、帰ってこないかもしれないって、思った……」
何せ、五年前は着の身着のまま姿を消したのだ。だから最初は、どこか散歩にでも出かけたのだろうと誰も深刻に捉えなかった。
……やっと見つかったのに。俺の不注意で、また失ってしまったら。
アキはしばらく黙っていたが、やがて静かに微笑んだ。
「……、……ごめんね、アリス」
「ねぇ、マジでそんな感じで上着とか放っておいていいの? 金庫とかに入れておいた方がいいんじゃないの? まぁ、金庫なんてものはウチにはないけど……守るべきものなんてそもそもなかったんだから……」
適当に畳んでいた俺の上着を見て、アキは心底慄いていた。何をそんなにビビってんのかとため息を吐く。
なんだろう、アキはそういう小心なところがある。あれほど威勢よくヴォルデモートと相対していたのに、金銭感覚だけは庶民なのだ。
「流石に床に直置きするのは」とアキが喧しいので、辟易しながら上着を手に取る。借り受けたハンガーに服を掛けると、アキは納得したのか静かになった。
その後、アキの夕飯作りを手伝うことにした。アキは最初要らないと俺の申し出を突っぱねたものの、片腕の介助分としてと食い下がると、やがて渋々頷いてくれた。
確かにアキは器用だが、片腕しか使えないとなるとやれることはどうしても限られる。しかも、失ったのは利き腕なのだ。包丁だって扱いに困るだろう。
「アリスって、そういうとこだけ家庭的だよね。ほんと、フィスナーのご子息がどこで料理なんて習ったの?」
「ほっとけ」
そうして作った夕飯を、ダイニングテーブルについて二人一緒に食べる。なんだかまだぎこちないものの、それでも空気はほんの少しだけ、昔のものに戻った気がした。
……それでも、聞けないことはいくつもある。
それは、短くなった髪の理由だとか。
昼に見た、少々怪しい仕事についてとか。
レターボックスに保管されている手紙の宛名が『アキ・ポッター』ではない事情とか。
(──偽名。もしくは、戸籍偽造。いや──)
そもそも、アキがパスポートを所持していることすら怪しい。つまりは不法入国の可能性だってある。
『姿あらわし』で、海を渡ってオーストラリア本土まで飛べるものか? 馬鹿げた魔力量を持っているアキならばやってできないことはないかもしれないが、それでも大概が博打、あるいは狂気の沙汰だ。まず、シンプルに無謀すぎる。
「アリス……本当に、イギリスに帰らなくていいの?」
アキの声に、ふと現実に引き戻された。
アキはパスタを巻きながら「引き返すなら今だよ」と淡々と言う。
「……俺がいなくなったら、お前、また姿をくらませるだろ」
「そうだね。でも、たかが人一人いなくなるだけだ。世界は何も変わらない」
ぼくがいなくなっても、日常は回り続けたでしょう?
どこか気まぐれにアキは笑う。
「誰が死のうが、生きようが。それでもおおよそ日々は続いていく。毎日ご飯を食べて眠って、仕事をして、そうして……やがて、思い出す頻度が減っていく。君も、ぼくとこうして出逢いさえしなければ、きっと今日は当たり前にホテルに戻って荷造りをして、明日になれば何事もなくイギリスに戻っていたはずだ。ぼくのことなんて思い出すこともなく、ね」
「…………」
「当たり前の日常を、君まで踏み外さなくていいんだよ、アリス」
そう言って、アキは大口を開けてパスタを頬張った。
「……当たり前って……日常って、何だよ。お前……」
言いかけた言葉は途中で掠れた。
──この五年間、俺がどれだけ、お前のいない空虚を抱えてきたか。
宛先のある苛立ちを、それでもアキ本人にぶつけることはできなかった。
そんな俺の葛藤を見透かすように、アキは軽く目を細める。
「ぼくをイギリスに連れて帰りたいんでしょ。でも、先に謝っておくけど、君がやろうとしていることは徒労だよ。人生の無駄遣いだ」
「……俺の人生だ。無駄だろうが何だろうが、使い途は俺が決める」
「そう。まぁ、止めはしないよ」
「ごちそうさまでした」と、アキは空になった皿を手に立ち上がった。話を切り上げられたのだとそこで気が付く。
『────どうして、失踪なんかしたんだ』
喉元まで出かかっていた言葉を、俺は必死に嚥下した。
きっとある程度、俺の魂胆はアキに見透かされている。
考えてみれば当然のことだ。俺が何を考えるのか、何を思って『イギリスに帰らない』と言い張ったのか。アキにとってみれば、俺の考えていることなど手に取るようにわかるのだろう。そしてただ、腹の中で「馬鹿な奴だな」と思っているのだ。
──そして、きっと《コレ》についても。
アキがシャワーを浴びている間、目を盗むようにしてアキの靴に魔力の痕跡をつける。
服は替えても靴まではそうそう替えない。アキが消えても、その足取りを即座に追えるように。追いかけて捕まえられるように。
(どうすれば、アキを繋ぎ止められる?)
アキが執着するものを知りたい。アキが手放さないものを知りたい。
──どうすれば、ここにいてくれる?
「クソが……」
あぁ、もう本当に、馬鹿みたいだ。馬鹿そのものだ。
それでも、だって、仕方ないだろう。
アキがいない世界は、嫌なのだ。
この五年間、ずっと虚無だった。
何をしていても、誰といても、ずっと空虚を感じていた。
願わくば──アキにも、俺と同じように思っていてほしかった。
ハリーやアクアは、お前にとってそんなに簡単に捨てられるものだったのか?
俺たちは、お前にとってその程度の存在だったのか?
(平然とした顔しやがって)
シャワーの音が止んだのを機に杖を仕舞った。何事もなかったようにソファに腰掛け、ぱらりぱらりと手帳を捲る。しばらくアキの元に留まるのであれば、それに合わせて仕事の割振りをしておく必要がある。何にせよ、明日あたり親父に連絡しないとなるまい。
そんなことを考えながら手帳にペンを走らせていたところ、やがて髪を拭きながら戻ってきたアキは、俺の姿を見て「お」とその瞳を緩めた。
「わぁ、仕事してるの? うんうん、何だか格好いいね」
「何の格好良さだよ、そりゃ……お前だって仕事してんだろ。普段何やってんだよ」
「ん? それはねぇ、ヒミツだよ」
……そーですか。
アキは頭からタオルを被ったまま、ソファに座っている俺のすぐ隣に腰を下ろした。手近な本をぱらりと開きながら軽い口調で言う。
「アリス、そこのベッド使っていいよ。ぼくはソファで寝るからさ。シーツは昨日洗い立てだし、その後ぼくも寝てないから大丈夫だと思うんだけど、気になるようなら魔法使って綺麗にしてね」
「……は? 待て、どうしてそうなる? お前のベッドだろ?」
家主のベッドを奪うほどに図々しい真似はできない。いや、無理を言って泊まっている身だろうと言われたらそれまでなのだが。
んー、とアキは苦笑いをして首を傾げた。
「実は、どうも上手く眠れないんだよね。だからもうずっと、夜はソファでウトウトしてるんだ。せっかく場所があるのに勿体無いから、遠慮せずに使ってよ。ね?」
「……それは……」
思わず、言うべき言葉を見失う。
────それは、つまり。
「日常生活に支障は出てないから大丈夫だよ。心配しないで」
言おうとした言葉を先回りされた。
気遣いの言葉など聞きたくないと、頑固なその目が語っている。
「……医者にはかかれよ」
「アハハ、保険証がないからなぁ」
「お前……」
「ウソウソ。大丈夫だって」
どうだか。アキの語る言葉の何もかもが信用できない。
癖で思わず舌打ちをした。ふふ、とアキは小さく笑い声を漏らして目を伏せる。
「…………ごめんね」
──そんな謝罪など、聞きたくないのだ。
奥歯を噛み締めアキを見る。微かに俯いたその顔を、両手で包み込むようにして上向かせた。
「アキ」
柔らかな頬に親指を、薄い耳朶に中指を、首の筋に小指を、それぞれ這わせる。漆黒の瞳をしっかと捉えた。
「謝んな。……もう、いいから。お前のこと、俺はもう、全部、ぜんぶ、ゆるすから。……ゆるしてんだよ。もう、謝んなくていいんだよ」
アキの瞳が微かに見開かれる。唇は僅かに動いたものの、そこから言葉は出てこなかった。
「お前が、今何してようが、どんな手段で生きていようが……俺は、お前の今を肯定する。全部、全部、受け入れてやる。だから……もう、謝るな」
ふるりとアキが身震いした。その瞳に涙の薄膜が張られたのを見てとって、俺はアキの顔から手を離すと後頭部に手を差し入れ、そのままこちらに倒れ込ませる。
……泣き顔なんて、アキは見られたくないだろうから。
弾みで、アキが被っていたタオルが放り出される。細い背中をゆっくりと撫でた。服越しに感じる浮き出た背骨に、随分痩せたものだと思う。
「……っ」
俺の肩に額を押し当て、アキは嗚咽を押し殺す。何度も呼吸を止めては吐き出すその姿に、一体何に怯えているのだろうと考える。
……泣き顔を見られたくないのは、俺も同じだ。
零れかけた涙を手の甲で押さえ、意識して息を整える。アキの背中からうなじへ、そして短くなってしまった黒髪へと、優しく、優しく、撫でさする。
美味しいものをたくさん、アキに食べさせてやりたい。
何も怯えることなく、ただただゆっくり眠ってほしい。
お前が生きているだけで嬉しいのだという、この想いを知ってほしい。
──どうしようもなくアキが好きだと、その時気付いた。
「それじゃあ、おやすみ」
そう言って笑うアキの顔は、憎たらしいほどに普段通りだった。相変わらず強固な仮面なことでと、俺は小さく息を吐く。
「本当にベッド使っていいのかよ」
「いいって言ってんでしょ。ぼくに二言はないぜ」
「この嘘つきが、よく言うよ……」
「アハハおやすみ〜」と笑う声と共に照明が消える。程なくして卓上のライトがついた。毛布に包まったアキが、ころんと仰向けになって本を開く。その姿を見届け、俺もベッドに潜り込んだ。アキに背を向け目を閉じる。
……他人の布団は落ち着かない。枕に顔を埋めると、やはりどこかアキの匂いがする。この家の空気と、同じ匂い。
(気が散る……)
──アキのことが、好きだと思う。
ただそれがどういう意味なのか、自分の中の感情にまだ確信が持てないでいる。
友情か、恋情か、劣情か。
(抱きたいか、そうでないか……)
……どうだろう。
この感情が友情の延長だと言われると、まぁそうだろうなという気もしてくる。アキとアクアの恋路を、ずっと見守ってきたのは伊達じゃない。奪いたいとか、視界に入りたいだとか、そういうことを考えたことなど、これまでただの一度もなかった。
ただ──失いたくない、だけなのだ。
「アリス」と呼ぶこの声を、俺を見てふわりと笑うその顔を、この縁を……絶対に、手放したくないだけなのだ。
その時、パチリと卓上のライトが消えた。室内に暗闇が満ちる。アキがこちらに歩み寄ってくる気配を感じ、俺は咄嗟に寝たふりをした。
「……アリス、もう寝ちゃった?」
確かめるようなアキの声。返事をするか迷っていたところ「まぁ、寝ちゃったよね」とアキは小さく苦笑を溢した。
アキがベッドの端に腰掛けた弾みで、ギシリと軽くスプリングが軋む。毛布越しに俺の身体を撫でた後、アキはそのまま毛布を捲り、するりと俺の隣に入り込んでき──入り込んできた!?
反射的に息を止める。
アキはしばらくモゾモゾと居心地の良い位置を探していたが、やがて落ち着いたように動きを止めた。身体の側面をピッタリと俺にくっつけたまま、ほぅと安堵の息を零す。やがてすぅすぅと小さな寝息を立て始めた。
(……いやいや、待てって!)
思わず身を起こそうとしたものの、アキの右手が俺の背中側の服を掴んでいるのに気付いて動きを止めた。そうっと、アキを起こしてしまわぬように身をベッドに沈める。
……眠れないんじゃなかったのかよ。
心臓の鼓動が喧しい。この音で、隣のアキが起きるんじゃないかと思ってしまう。
……あぁ、もう、どうして。
(友情か、愛情か、それとも、果たして劣情か……)
思考が何ものかの手によって掻き乱されるのを自覚した。
頭の中がとっ散らかる。散々なまでに、バラバラに散り散りになってゆく。
まとまらない思考の中、それでも強く、強く思った。
(────あぁ、好きだ)
こいつを抱きたい。
俺のものにしたい。
この先一生、離したくない。
夜が明けるのを待つだけの時間がひたすら長くて、その夜俺は一睡もできないままに、日が昇るのを待ち望んでいた。