失踪したアキを5年後くらいに外国で偶然見つけるところから始まるアリアキ④ アキの家に転がり込んだはいいものの、人一人が増えた生活はそれ相応に物が要る。服も食器も何もかもが足りないのだ。
そういうわけで、親父に連絡を取ったその翌日、俺はアキを伴い買い物に出ることにした。
そもそも、アキの家は最低限しか物がない。あるものも中古品を安く買い叩いたものなのか、どれも等しくボロっちい。トースターの蓋が外れた時はドキッとしたし、終わったと思った冷蔵庫がアキの蹴りで直った時はもっとビビった。
あと、ベッドがすこぶる硬い。もっと質の良いマットレスが欲しい。これじゃアキが眠れないというのも頷けるぞと思ったものの、アキは昨晩も俺に引っ付いて爆睡しやがったので、眠れなかったのはまたしても俺だけだった。
「マットレスまで買ってもらっちゃうなんて、マジでアリスのヒモになってる気分だよ。というかそんなに寝心地悪い?」
「最悪。机で寝るのと大差ないレベル。……なぁアキ、お前、免許持ってるか?」
買ったマットレスを家に届けてもらってもいいが、その場合届くのは数日後だ。できれば今晩から使いたいため、店から車を借りて持ち帰りたい。
アキはふふんと胸を張った。
「身分証の類は持たないことにしてるんだよね」
「……ハァ。ま、元からあんまり期待してなかったよ」
「何さ。そういうアリスは免許持ってん……の……」
俺が財布から国際免許証を出して見せると、アキは唖然とした顔で黙り込んだ。
「……マジ? マグルの免許、ちゃんと取ったんだ?」
「舐めんな、ちゃんと取ったに決まってんだろ」
「すげ……」
そういやリィフも免許持ってたな、などとアキは慄いている。
親父が車の免許を取ったのは、たまの休みの時に母とドライブデートをするためだったらしいが(思い返せばガキの頃に連れ回された記憶がある)、アキには教えないことにした。何にせよ、身体よりも大きな機械が思いのままに動くのは結構面白い。
受付に行って書類を書く。外国人だということでパスポートや身分証の提示を求められ、審査に少々待つこととなった。
と、そこでアキが何やらコソコソッと耳打ちしてくる。
「ごめんアリス、ちょっとトイレ行ってくる。すぐに戻ってくるから、そこで待ってて」
そう言って、アキは有無を言わさず俺にキャップを押し付け駆け出していった。
相変わらず、こんなものが担保になると思っていやがる。それでも確かに安堵してしまう自分が嫌だなと、舌打ちをしつつキャップを被った。壁にもたれ掛かり、腕を組んで呼ばれるのを待つ。
その時、傍から歩いてきた猫背気味の男の肩が俺に当たった。悪ぃと軽く片手を上げ一歩下がる。
男は軽く会釈をしては、早足で歩みを進め──ん? とそこで違和感に気付く。
頭より先に身体が動いた。手を伸ばし、男の腕を捻りあげる。抵抗されるよりも早くに足を払い、肩関節を極めて男を地面に叩き伏せた。
「おいお前。今、俺の財布をスっただろ」
背に膝を入れ体重を掛ける。どこにでも手癖の悪い奴はいるものだ。「そ、ンなことしてねぇよ!」と暴れる男の首根っこを掴むと力を込めた。
「正直に言え。返せば不問にしてやる。抵抗するなら警察に突き出す」
低い声で言いながら、極めている腕を更に捻りあげた。「あでででで!!」と男は悲鳴を上げながら俺を見上げる。
その顔にどこか見覚えがある気がして、俺は思わず目を瞬かせた。男も同様に目をしばたかせていたが、やがてハッと気付いたように俺を見て叫ぶ。
「あぁっ、テメェっ、イデアの情夫じゃねぇか!」
「は……ハァッ!?」
思わず声が裏返る。瞬間、この男をどこで見たのか思い出した。つい昨日、アキの家の扉を叩いていた奴だ。
その時、アキが呑気な顔で戻ってきた。
「ただいまアリス、待たせてごめんね。って……え?」
この状況を見たアキは、どこか呆気に取られた様子で「一体どういうことなの?」と首を傾げた。……いや、それを聞きたいのは俺の方だって。
「いやー、マジすいませんっ、まさかお兄さんがイデアのお友達だったとは! あ、オレ、フォートって言います! よろしくっす!」
「フォート、アリスの財布スったこともちゃんと謝るんだよ」
ハキハキと言うフォートにアキが念を押す。「はい! すいませんっ!」と馬鹿素直に言うフォートに、俺は思わず眉間を押さえた。
……何故か今、俺たちは三人でアキの自宅にいる。どこかのカフェで話をしようと思ったものの「フォートはぼくの家も知ってるし、別にいいよ」とアキが言ったからだ。
そう簡単に変な相手を家に上げるんじゃないと思ったが、ここの家主はアキなので、しぶしぶアキの判断に従うことにする。
フォートの車がSUVだったので、マットレスはコイツに運ばせた。「スリの詫びっす!」とフォートは文句も言わずに運んでいた。その素直さを他に活かせと強く思う。
「……情夫云々って、どこからそんな話になったんだよ……」
「いやぁ、イデアんち行ったらすげイケメン出てきて追い返されましたって上に言ったら、『ならソイツはイデアの情夫だろ』って……でもマットレス買ってたし、お兄さんってイデアの『コレ』っすよね」
「逆だよフォート、ぼくがアリスのヒモなんだよ。このマットレスもアリスが買ってくれたんだ」
アキが余計な口を挟んでくる。こいつ、面白がってやがるな。
フォートは「ほー……」と俺の姿を頭の先から爪先まで眺めていた。気持ち悪いヤメロと、床に座っているフォートを足で蹴る。
「……学生時代の同級生。そんだけだって」
流石に『五年前に失踪していて』なんて話はできない。ちらりとアキを見るも、アキは普段通りニコニコしている。
「学生時代? どこ中? というかイデア、このお兄さんがアンタと同級生って、アンタいくつなワケ?」
「んー、学校名言ってもわかんないと思うな。あと、ぼくは二十三歳だよ」
「にじゅっ……歳上ぇ!?」
大袈裟にフォートは仰け反った。「そんなに驚くことかな?」と、アキはケラケラと笑っている。まぁ確かに、何も知らずに会えばまだ十代半ばほどと思う見かけではある。
「えー……イデア、このお兄さんと学校一緒って、実は案外いいとこの子? 頭めちゃ良かったりする?」
「言っとくが、コイツ首席卒だぞ」
「首席卒ぅ!?」
「上の子が休学しちゃったおかげの繰り上がりだけどね」
アキは謙遜してみせるものの、首席は男女一名ずつが選ばれる習わしなので、ハーマイオニーが居たとしてもアキの首席は揺るがなかっただろう。
「はぁー道理で、上が重用するほど頭イイんだ」とフォートは感心している。
「……ハァ。もう用向きは終わっただろ。俺の財布スッた件は不問にしてやるから早く帰れ。そして二度とその姿を見せんな」
「いやー、そういうワケにもいかねーんすよ。こっちも上からイデアは逃すなって言われてるもんで……ね」
じろりと睨むもフォートは逃げない。にししと不敵な笑みを浮かべて、ソファに座る俺を見上げている。
「ただの学生時代の友人。なら、お兄さんに余計な口を利かれる理由はないっすよね? ……イデア、これが最後の通告だ。上からアンタを呼んでこいと言われてる。この前の件はお咎め無しとする代わりに、直々に頼みたいことがあるってよ。具体的な話は……お兄さんには聞かれたくない話なんじゃねぇの?」
「……はぁ。そうなるだろうから嫌だったんだよなぁ……やっぱ、一回やらかした時点で夜逃げしてたら良かったよなぁ……」
アキは小さく息をついた。無表情のまま、頬杖をついては足を組み合わせる。
……俺のせい、ではあるのだろうな。アキの仕事の邪魔をしたのは俺なのだから。
「オイ。コイツを足抜けさせるにはどうしたらいい?」
フォートにそう問いかける。え、と一瞬きょとんとした顔をしたフォートは、少し考えて「ま、金じゃないすか?」と肩を竦める。
「……ちょっと、アリス?」
アキは嫌な予感でもしたのか、顔を顰めて俺を窘めた。そのアキを無視し俺は立ち上がる。掛けていたハンガーから上着を取ると、そのままフォートに向かって放り投げた。
「割と良い品だ。前金にはなるだろ」
「……お兄さん、何者? つか、正気っすか? 何年も離れてた、ただの友達にしてやる義理じゃねーっすよ?」
「どうとでも言え。コイツを繋ぎ留めておけるのなら、俺はなんだってしてやるよ」
フォートは軽く目を眇めて俺を見た。その目を堂々と見返す。
張り詰めた空気を破ったのは、アキが強くテーブルを叩いた音だった。二人してハッとアキを見る。
「いい加減にしてくれ、アリス。誰がそんなことを頼んだよ?」
「…………」
「フォート、一旦二人で少し話そう。アリス、ぼくらは少し玄関先で話すから、そこでじっとしててよね」
アキの声は淡々としていた。その表情を読む限り、アキは多分怒ってはいない。
そのままアキは立ち上がると、フォートの耳を引っ掴んでスタスタと戸口に歩いて行った。「まっ、イデア、耳ちぎれる、ちぎれるぅっ!」と悲鳴を上げつつ、フォートもその後をついていく。
アキは十分ほどして戻ってきた。
「フォートには帰ってもらった。全く、いきなり口を挟んでこないでよね。びっくりするからさ」
「……悪かったよ。でも、もう少し怒るかと思ってた」
「怒らせるってわかってるのに言うのやめな? ぼくはアリスの間合いをわかってるからいいんだけど。……まぁ、アリスにはそれだけの心配を掛けちゃったからね。過保護になっちゃうのもさもありなんだよ。ぼくの側も反省だ」
そう言ってアキはにこりと笑う。今ので許されたと、俺はそっと胸を撫で下ろした。
「それにしても、アリスってぼくのこと大好きだよね」
風呂上がり。マットレスと一緒に買っていたドライヤーをプレゼントとして渡したところ、アキは飛び上がるほどに喜んでいた。自然乾燥では髪が軋むものの、かといって肩まで髪を切ってしまった今、買うほどではないかなと思っていたらしい。
欲しがるアキを手で制し、ソファに座らせ髪を乾かしてやる。学生時代にも戯れにやっていた。当時は夜の眠さに耐えきれず、髪も乾かさずにウトウトしているアキを見かねてのものだったが、今日は甘やかしも兼ねてのものだ。それに、左腕が動かぬアキには扱いづらかろう。
「なんだ、いきなり」
「だってそう思ったんだもの。まぁアリスがぼくに甘いのは元からだったけど。ふふ、よくウィルやレーンに囃し立てられたっけね……」
アキの髪を手繰る。さらさらとした黒髪はしかし、記憶にあったものより随分と短くて、気付けばあっという間に乾いてしまっていた。
ドライヤーを片付け、アキの隣に腰掛ける。とん、とアキは俺に身を寄りかからせた。
「どうして、アリスはそんなに優しいの?」
俺の顔を見ぬまま、アキはそう問いかけてくる。
「ぼくが何して生きてきたか、君は気付いているはずだ。それなのに、どうして……」
「今のお前を責めたくない。前も言ったろ、俺はお前の全部を肯定するって」
また、コイツはややこしいことを考えている。もっとシンプルに生きればいいのに、それができない。
与えられる愛は、そのまま受け取ればいいのだ。
「……でも、ぼくは君たちみんなから逃げたのに。みんなにあんな不義理を働いた、ぼくが……」
「くどい。ぐちゃぐちゃ抜かすな」
アキの目を覆うように手を伸ばした。視界を遮ってやると、アキは少し静かになる。
「……学生時代の同級生」
「は?」
「って、フォートに言ってた。ぼくのこと」
「……何?」
待て。アキの意図が読めん。
せめて表情だけでも読もうとしたが、アキは俺の手をぎゅっと掴んで動きを阻止した。
「……ただの同級生相手に、そんなに優しいんだ、アリスって」
アキの口調はどこか拗ねている。
「あー……同級生って言ったの、そんなに不本意だったか? 親友って言ってやれば満足したか?」
「別にー。アリスさんは誰にだって優しいですもんねー。失踪したのがぼくじゃなくっても、たとえばユークだったとしても、アリスはこうやって心配して、うんと優しくして甘やかしてくれますもんねー」
「…………」
なんなんだこいつ。
「お前にだけだってわかってんだろ。お前、わかって言ってんだろ?」
「……お前お前ってうるさいな。お前って誰。わかんないね。アリスはきっとユークにだって、髪を乾かしてマットレスを買って借金を返してくれるんだ。アリスはそういう人なんだ」
「マジめんどくせぇー……」
思わず本音が零れる。アキはつんと唇を尖らせた。
臍を曲げられては敵わないと、俺はアキの機嫌を取ることにする。
「アキ。……アキ。……だって、さっきの野郎がお前を妙な名前で呼ぶもんだからさ。うっかり口滑らすわけにもいかねぇだろ? かと言って、お前を別の名で呼びたくもないし……お前は、俺の中ではずっと『アキ・ポッター』なんだから……」
──アキが失踪してからのこの五年間。アキの名を呼ぶ人物は、きっといなかったのだろう。
アキは気付いていないようだが、アキは随分と自分の名に執着している。『幣原秋』と人格が同居している分、己の名を呼ぶ他者の存在で、自己を認識している節がある。
「……アリスに『妙な名前』なんて言われたくないな」
「あのな……古風で品のある名前だろうが」
そりゃ確かに、持って生まれたこの名前に複雑な気持ちはあるものの、それでも他の名ではしっくり来ないのだ。
「それもそうか」とアキは苦笑を零した。
「ハハ……そりゃ、そうだよね……だって、それが自分の名前なんだからさ……」
アキの顔から手をそっと離す。今度のアキは、俺の手を引き留めることはなかった。
「……アリスは、さ。ぼくのこと、どう思ってんの?」
アキは大きな瞳でじっと俺を見上げている。
──その漆黒に、思わず魅入られる。
多分アキは、俺の言葉を聞いて安心したいのだ。
試すような行為も、俺の中のユークと比べるような発言も、きっとその通りなのだ。
アキの腹のうちはわかっている。
……だが、しかし。
(どう思ってんの……ね)
「……俺が、」
こくりと唾を飲み込んだ。
腹の底に、全ての動揺を押し隠す。
「俺が、お前に優しくする理由。……知りたいか?」
俺の身体にもたれかかっていた、アキの身体を軽く押した。狭いソファで向かい合う。
目を瞬かせるアキの頬に、手を伸ばした。
目が回る。緊張に、気を抜くと身体が震え出しそうになる。
それでも、今だけは。今だけは、どうか。
(────震えるな、声)
「お前が好きだからだよ、アキ」
まず、最初に感じたのは。
アキの反応を恐れる感情をも上回るほどの、胸いっぱいに広がる安堵だった。
(──あぁ、やっと言えた)
緊張がふるりと解ける。反動で思わず笑い出してしまった俺と反対に、アキはそのままの体勢で硬直していた。
「……へ」
あぁ、そう言えばコイツ、イレギュラーには滅法弱いのだった。奥歯で笑いを噛み殺すと、俺はアキの頬から後頭部へと手を滑らせた。
「キスしていいか?」
「は……はぁっ!? えっ、ちょっと、待って……!」
待たない。
アキの後頭部を押さえ身を寄せる。真っ赤な顔をしたアキは、俺が待つ気がないとわかると、右の手のひらで慌てて俺の口元を覆ってきた。
「待って、ごめんアリス、そんないきなり言われても、その、アリスのことそういう意味で意識したことなかったって言うか……!」
アキはもう耳まで真っ赤だ。動転しているのか、半泣きで目が潤んでいる。
小さく苦笑した。
──意識されていないことくらい、わかっている。
「……じゃあ、意識して」
俺の口を押さえるアキの手の甲が、アキの唇に触れる。
手のひら一枚分の至近距離で、俺はアキをじっと見つめた。
アキの瞳には涙の薄膜が張られている。今にも泣きそうだったアキは、耐えきれなくなったようにぎゅっと瞼を瞑ってしまった。
「……ハハッ、いい顔」
──『友達』のラインを踏み越えるのは、俺が想像していたより、どうやらずっとずっと簡単だったらしい。
アキの上から身を引いた。柔らかな黒髪を優しく撫で、俺はソファから立ち上がる。
「んじゃ、そろそろ寝るわ。おやすみ、アキ」
「……あ、えっ?」
アキは慌てて目を開けた。俺を見ては物言いたげに口をぱくぱくとさせているものの、明確な言葉は出てこない。
何も言ってこないのなら構うものかと、俺はそのままベッドに横たわった。買ったばかりのマットレスはふかふかで、体重を掛けた通りに沈み込む。
「アキ、今日は寝に来ないのか? 買ったばっかのマットレスだからな、ふかふかだぞ」
「なっ……! す、好きにすれば? ぼくはソファで寝るもんね。それじゃっ、おやすみ!」
そう吐き捨てるが早いか、アキは電気を消すと素早く毛布を被り、俺に背を向けてしまった。くつくつと俺は笑って目を閉じる。
その夜は久しぶりに、穏やかな心地でぐっすりと眠ることができた。