2日目夜
カカシを神威で送り届けたその日の夜深く、オビトは人が滅多に踏み入ることがない神聖な山中の轟轟と唸る瀑布を前に立ち、とある人物の名前を呼んだ。
「鬼鮫、来たぞ」
するとその滝の奥に人影がぼんやりと見え、やがて滝の水流をものともせず鬼鮫、と呼びかけられた人物が姿をあらわした。
「お待ちしておりました、今夜来るという連絡を狐が届けに来た時は驚きましたよ。眷属の力である稲荷を使役するあたり、随分と急ぎの用事であると御見受けしますが」
「マダラ由来の力を使いたくないというのが切実な思いではあるが、お前に露骨に連絡を取るとなんでかカカシが拗ねるから仕方なくだ。いきなりですまないな、とりあえず良い酒を持ってきた。都付近のあの辺りは水が清いから良い酒ができる」
オビトが持ってきた酒の入った酒瓶をゆらゆらと揺らすと、鬼鮫は緩やかに口角を上げる。
「おや、これはこれは。嬉しい手土産です」
「それで……いきなりだが、鬼鮫に頼みたいことがある」
「貴方の頼みならばいつ何時いくらでも」
鬼鮫は仰々しく頭を垂れる。
はたけカカシが官人陰陽師ならば、干柿鬼鮫は法師陰陽師と呼ばれる存在だ。
宮中で貴族たちに仕える官人陰陽師とは違い在野の陰陽師として民間向けに卜占や祓いや呪詛を行う者たちの中でも僧侶としての立場も持つ者、それが法師陰陽師だ。
鬼鮫は法師陰陽師でありながら、過去に様々な術を修めその果てで擬似的な不死身を獲得するに至っておりその精神の在り方はいまや仙人に近いともいえる。
鬼鮫がまだ何の力も持たない只人であった頃、本人には何の非がないにも関わらず生まれ育った村で酷い迫害を受け続けた。
もとより本人に非がないのだから行いを改める余地もなく、理不尽に抵抗しようと何をしたところで全てが徒労に終わった。
追放され、流離った先でまた疎外され、そうして人間不信を極め、摩耗した先でついにオビトという救世主に見出され、今はこうして俗世を離れて山で悠々自適な生活を送っている。
オビトにそんな気はなかったとしても、鬼鮫は永遠とも思われた孤独から救われ、居場所を与えられた。
これをきっかけに鬼鮫はオビトに自然と付き従うことにした。
オビトも鬼鮫を気に入っているようで、何かと理由をつけては月見酒に誘うなどして交友を続けている。
その中で鬼鮫は実はオビトが鴉天狗として成り立ったのはごく最近のことでありおそらくは自分よりも歳下であると見抜いたのだが、敬意を込めて謙った姿勢を崩さなかった。
常に冷静沈着に物事を見極め、余裕のある振る舞いをする鬼鮫にオビトはかなり懐いている。
そして、鬼鮫はその信頼に最大限の敬愛を返しているのだ。
マダラにも存在を認知されているが、驚くべきことに特に反感を買うことなくオビトの側にいることを黙認されている。
この事実で鬼鮫の有能さが理解できるだろう。
「実は、カカシがある貴族から鬼の調伏の依頼を受けたんだが____」
オビトは鬼鮫にカカシが受けた依頼の詳細、屋敷の惨状の概要を語った。
「特に名前が少し気がかりでな、壬生……おあつらえ向けの名前だと思わないか。壬生は水辺を意味する“水生”が元になった姓だろう。壬の漢字も十干の壬と同じでおまけに当主の名前はシリュウ、その家の長男はシグレ。屋敷で見つかった首の数は九つ……十干の九番目は壬。これは意図的なものだとみていい、地盤を整えて何かしらの儀式を執り行ったのは間違いなく壬生だ」
依頼主の貴族にはなにかと水の気が多かった、これを見抜いたオビトはただの偶然ではないと睨み鬼鮫の元へと来たのだ。
「なるほど……それで水遁の仙術を得意とする私に白羽の矢が立ったというわけですか」
オビトの説明を聞いた鬼鮫は自分の力が必要となった理由に一応は納得したが、一つ疑問が残る。
「貴方が目をかけている陰陽師見習いでは役不足と?」
オビトが気に入っている人間でありオビトの親友、はたけカカシは陰陽寮で他の追随を許さないほどの才を持った人間であると聞き及んでいる。
ならば、わざわざ自分の元へ足を運ばずとも良かったのではないか?という当然の疑問を鬼鮫は抱く。
「どんな天才にも得手不得手はある……今、オレの知る中で人間が編み出した術に一番詳しいのはお前だ。特に水にまつわる術への知識ならば他の追随を許さない」
「それは……随分と信頼されていますねぇ、私」
思わぬ返答に少し呆けた後、自分の知識や経験を無条件で信頼するオビトが眩しく思えて鬼鮫が思わず目を細め微笑を浮かべれば、オビトは夜の闇にあってなお太陽を思わせる笑顔を返す。
「ああ、頼りにしている」
まっすぐな目でこちらを射抜きながら全幅の信頼を注ぐオビトの頼みとあれば、鬼鮫が断る理由などこの世のどこにもなかった。
「では……早速。少し拝見しますよ」
鬼鮫がオビトから渡された札に触れ、その札に書かれた文字を読み取る。
自身の人差し指を唇へ当て小声で呟くように何かの呪文が真言を唱え、唇から離した指を札の上へかざす。
鬼鮫の術と霊力に呼応して札の術式が起動すると、鬼鮫はその一瞬を見逃さず展開された術式をさらに細かく解析した。
極められたものというのは無駄が省かれ極限だけが残る、鬼鮫の仕草にはそういう類の美しさがあった。
オビトは鬼鮫の手際の良さとその精密さに感嘆する。
「なるほど……“水”にこだわる理由が分かりましたよ。これは水神の性質を上手く取り込んで成立している術式なようですねぇ。水が器によって形を変えるように、本質的に形を持たぬ流動的な存在であるということを応用したのでしょう」
水神といえば多くの逸話があるが、その姿はおしなべて不定形だ。
ある時は荒ぶる龍神であり、またある時は蛇の姿をとる、淑やかな女の姿であるかと思えば、荒々しい男のすがたである。
鬼鮫が言うことにはこの術はそういった“形を変える者”としての水神の権能がこの札に組み込まれているということだ。
「……これは、魂の質……いや、そんな生易しいものではありませんねぇ。魂の構造を根こそぎ書き換える術式」
オビトはそれを聞いて苦々しい表情になる。
「……人を、鬼にするような?」
「ええ、おそらくは。そして、この札を使った儀式で新たに人ではない何かに変生した者の生命力や存在を強化するために胎児の概念も付与されていると見ていいです。赤子に関わる言葉には水に関するものが多いですから……いや、この術ならば組み込むべき概念は仏教において胎児がいるとされる胎海でしょうか……?いずれにせよ、こんな術は明らかに禁術の類ですよ」
「最悪なことに、オレの読みは当たったというわけか……シグレが女を鬼にする為に使ったか」
胸糞悪ぃ、とオビトが吐き捨てる。
「以前この都とは別の国を渡り歩いていた頃に似たような構成の術を見たことがありますが、当然禁術扱いでした。人を人ならざる者へ故意に変生させる事は、たとえそれが神による所業であったとしてもそれなりの理由や理屈がなければ看過されない禁忌ですから。……まあ、私はその禁術を好奇心で少しばかり拝見させていただいたわけですが」
「今はお前のその好奇心に感謝しなくてはならないな。それ、どこの国での事だったか思い出せるか」
「確か、萩の国……でしたかね」
「……なるほどな、壬生シリュウは萩の国の国司だ」
「国司として国に赴き、禁術を見つけたというわけですね。鬼をつくってわざわざ何をするつもりなのか。国を傾けようとでもしているのでしょうかね」
「マダラじゃあるまいし国を傾けるなんてデカい話じゃないだろ。おおかたカカシを殺してやろうとかそんなところか」
「才があるというだけで命を狙われるとは……カカシさんも大変ですね」
鬼鮫は心底から憐れんだつもりであったがそれを見たオビトは苦笑いする。
「才能を持つお前がそれを言うと嫌味っぽいぞ、鬼鮫」
「おや、そんなつもりはなかったのですが」
鬼鮫は心外だというふうに肩をすくめてみせた。
「それで、この後どうするおつもりで。カカシさんと共に壬生ごと鬼を討ち倒すのですか」
「うーん、それなんだが」
オビトが眉をひそめ眉間を押さえながら思案する。
「カカシに灸を添えてやる、いい機会になるかもしれん」
「……と言いますと?」
「カカシは……多分オレに何か隠し事をしている。別に秘密があるのは良いんだが、その秘密のためにアイツが危険な目に遭うようなら見過ごせない」
「相変わらず友達想いですね、貴方は」
そういうわけじゃないんだがと言うオビトの耳は少し赤らんでいる、鬼鮫はこの方のこういうところが好ましいのだとしみじみする。
「鬼の居場所の予想……は、必要ありませんね。貴方なら視れば分かるでしょう」
「勇気ある検非違使がある程度追跡してくれたものでな、隠れ潜んでる場所の予想はついている。今日は助かった、鬼鮫。おかげでさっさと解決できそうだ」
「いえいえ、貴方の力になったのであればこれほど嬉しいことはありません。また落ち着いた頃にいらしてください、今度はこちらで良い酒とつまみを見繕っておきましょう」
「ああ!楽しみにしている」
じゃ、と手を振りながらオビトは神威を発動し夜の闇へと溶け込むように去っていった。
「お気をつけて……と言うのもおかしな話ですね。貴方が敗北することなど万に一つもないでしょうから」
鬼鮫が掲げた酒坏の水面には波打つ月が煌々とゆらめいた。