「和さん! 終電がっ!」
居酒屋の暖簾をかき分けて外に出た瞬間、ひやりとした夜風が火照った頬を撫でた。
時計を見れば十一時半。慌てて声を張り上げると、和さんはぼんやりとした顔で俺を見返す。
俺は学生時代からずっと、この人に片想いをしていた。
当時、一度は告白したけれど返ってきた言葉は「大人になったら」という返答。
それを最後に音信不通になったが、奇跡みたいな再会を果たし、また告白した。
先輩はやはり曖昧な返事をしたけれど、それでも「また会いたい」と言ってくれた。
それから、こうして時々一緒に過ごしている。
色っぽいことなんて何もない。ただ、映画を見たりドライブしたり、他愛ないひととき。
それだけで十分に幸せだった。
今日は和さんが「千鳥ヶ淵の夜桜を見たい」と誘ってくれ、散歩のあと居酒屋で飲んで、すっかり時間を忘れていたのだ。
「和さん! 終電あと十分しかありません!」
俺は肩越しに呼びかけながら、夜道を早足で駆ける。
街路樹の間からのぞく桜の残り香が、まだ鼻腔に残っていた。
「夜桜、きれいでしたね」
息を弾ませながら声をかけても、返事はない。
ちらと横を見ると、和さんは口数が減り、視線を落として歩いている。
酒に強いはずの人なのに、飲みすぎたのだろうか。
「和さん、大丈夫ですか? 駅まであと少しです!」
改札が見えたときには、終電の発車まで残り二分。間に合った……と、胸をなでおろしたのも束の間――。
「……塚本、すまん。スマホを店に忘れたかもしれん」
「えっ?」
驚いて振り返ると、眉間に皺を寄せた和さんが立ち止まっていた。
和さんが忘れ物なんて。俺は唖然とする。
頭の片隅で、タクシー代を計算する。三万弱……財布にちょうどそれくらいは――。
その最中、ホームに終電が滑り込み、発車音が改札へと響き渡った。
「それなら店に戻って、タクシーで帰りましょうか」
俺が背を向けかけた瞬間、強い力で手を引かれる。
振り返ると、和さんの手が俺を離すまいとするように握り込んでいた。
「いや、戻らなくてもいい。スマホは……ここにある」
目を落とすと、和さんの掌にはしっかりスマホが握られていた。
「……あ、良かった。忘れ物なんて珍しいと思いましたよ。いつも時間だってちゃんと調べてくれるのに。お酒飲みすぎたのかと心配しました」
「わざとだ」
「え?」
「塚本と……今夜は一緒にいたくて、わざと嘘をついた」
俯いた顔がみるみる赤く染まっていく。
さっき見た桜よりも濃い色が耳まで広がり、小刻みに震えていた。
「俺は和さんのこと好きです。子供の頃から何度か言ってると思うんですが」
俺は改札前のざわめきの中で、はっきりと声に出した。
和さんの肩がわずかに跳ねる。「あ、ああ。」とかすれた声が返る。
「でも、和さんから返事をもらったことがなくて、だから片想いだと思っていました」
必死で言葉を継ぐ俺に、和さんは眉をひそめた。
そして、逸らすことなく俺の瞳を真っ直ぐに見返してくる。
「…ん?返事したぞ?」
「え、いつ?」
「河原で…お前に好きと言われた時に…」
頬を赤く染め、眉間に皺を寄せ、唇を固く結んで震わせながら、恥ずかしさを噛みしめるように言った。
「あの時は和さん、また一緒に演奏したいって…」
「……あの流れでそう返事したということは、意味くらいわかるだろう!?」
声を荒げながらも、耳まで赤く染まっている。
その必死さに胸の奥が熱く痛む。
「わかりませんよ!!」
「それで、どうなんだ!これから!」
「和さんが言ってくれないと俺は何もできません!」
互いに言葉をぶつけ合う。改札を抜けていく人々のざわめきが、やけに遠くに感じた。
「う…」
「なんですか?」
「……きだ」
「…聞こえないです…」
「俺も塚本のことが好きだ!!」
和さんの声が駅構内に響き、周囲の人々の視線がこちらに向いたように感じた。
「和さん…俺も好きです。ずっとこの関係が何なのかわからなくて、不安でした。」
和さんは気持ちが顔に出やすい人だ。
だから俺に対しての想いも、どこかで察していた。
けれど、あやふやなままではどうしても信じ切れなくて。
「すまない…今までこういう経験が無かったから、……は、恥ずかしくて」
うつむき加減の声に、頬の赤さがそのまま滲んでいる。
「和さんの言葉で聞けて、嬉しいです」
俺の声に、和さんがわずかに顔を上げる。目がぱっと輝き、表情が柔らかくほころんだ。
「なら――」
「ダメです。」
「なぜだ!」
抗議の声が子どものようで、思わず笑いそうになる。
「だって、俺たち手を繋いだ事すら今が初めてですよ」
言葉にしながら、俺はそっと握られたままの手を握り返す。
和さんのひんやりとした手の感触が掌に伝わり、思わず心臓が早鐘を打った。
「うっ」
和さんの息が少し詰まったようで、肩が小さく揺れるのが見える。
「一つずつ、順を追っていきませんか?」
「順?」
和さんは眉をひそめてキョトンとした表情を浮かべる。
「今日は……まず、手を繋いで帰りましょう」
そう言うと、俺は繋いだ手をぎゅっと握り直し、指を絡めた。
手を繋いだまま、終電の終わった駅前を歩く。
駅のロータリーのタクシー乗り場には列ができており、タクシーは一台もいなかった。
駅から少し離れた場所の方が捕まりやすい。それに、こうして和さんと手を繋いで歩きたいという気持ちもあった。
その時、タクシーが通りかかり、俺は慌てて手を上げて止めた。
「八千代まで」
暗い車内に乗り込むと、タクシーはゆっくりと発進する。
都会のネオンが窓外を流れるのを、無意識に目で追う。ふと、和さんと視線がぶつかった。
暗い車内でも頬が赤く染まっているのが分かる。
コートの陰で握った手は滑らかで、少し低い体温が掌に伝わる。親指で和さんの手の甲をなぞるたび、俺の心臓が小さく跳ねる。
和さんは微かに肩をすくめ、少し戸惑っているようだった。
『手を繋いだだけでこれですよ?』
思わず和さんの耳元でそっと囁く。
「…いつも貴様は、そうやって……」
和さんは俺を睨むように見返す。赤くなった目元が潤んでいた。
「…きさま?」
「……っいや、塚本」
和さんを怒らせてしまっただろうか?俺から視線を逸らし反対側の窓を向いてしまった和さん。でも手は繋いだままでほっとした。
和さんのマンション前に到着すると、名残惜しいけれど、ゆっくりと繋いでいた手を解いた。
「おやすみなさい、和さん」
その瞬間、解いた手に和さんがそっと手を添え、数枚の紙幣を握らせてくる。
「受け取れません」
和さんの手のひらにお金を戻すが、彼は決して譲るつもりはないようだった。
「ダメだ。受け取れ。」
小さな押し問答の間、ふと後頭部に手が添えられ、柔らかな唇が俺の唇に重なる。
ふわりと、熱く湿った感触は一瞬で離れた。
潤んだ瞳の和さんの顔が遠ざかる。
「おやすみ、塚本」
和さんはそう告げると、タクシーのドアを勢いよく閉める。
そのまま踵を返し、マンションのエントランスへ駆けていってしまった。
タクシーが緩やかに発進していく。和さんのマンションが見えなくなってくる頃、俺は頭を抱え、下を向いた。
頬が熱く、心臓はバクバクと早鐘のように打っている。
学生の頃から、真面目そうでいながらどこかお茶目だった和さんを思い出す。
今も昔と変わらず、気づけばその勢いに押され、あっという間に心をさらわれていた。
指先で唇をなぞると、柔らかく湿った唇の感触が余韻を残している。
その感触と、自分のガサガサした指先の違いに眉間を寄せ、思わず小さく息を吐く。
「あぁ、もうどうにでもなれ……」
「すみません、運転手さん、ここで降ります」
料金を支払うとタクシーのドアが閉まるのも待たずに街灯に照らされる夜のアスファルトを走った。
我慢しきれず和さんに電話をかけると数コールの後、「どうした?」と声が返ってくる。
「和さん、忘れ物です」
「……?何も忘れてないぞ?」
息が上がり、胸が苦しい。こんな全力で走ったのはいつぶりだろう。
「…いえっ…忘れてますっ……俺のこと!!」
電話口から駆ける足音が聞こえ、和さんのマンションが見えてくる頃、エントランスから人影が飛び出してきた。
そして自然と互いを求めるように抱き合う。
「お前らしくないな」
「あはは、そうですね……俺も、わざとです」
笑いながら引き寄せられるように唇を重ねる。
柔らかく、熱く、甘く……まるで時が永遠に止まったかのようだった。