迷い子 分水嶺迷い子
訓練の遠泳から帰ってきたら、教官から「お前と同室の後輩が帰って来ていない」と知らされた。
今日は2年目の自分達と1年目の後輩は別の区域で泳いでいたから自分が監督していたわけではなかったが、この分だとまた連帯責任になるな…とため息をついて、「自分が探しに行きます」と申し出た。
既に遠泳で疲れているのにと口の中で文句を言いながら泳いでいって、ちょうど折り返し地点の岩の陰に後輩の姿を見つけた。
「おい!何やってるんだ!」
「ハード。」
ぎこちなく振り返った後輩は、見たことがないほど動揺して見えた。
いつもぼんやりと、何を考えているか分からない瞳が明らかに動揺していて。
「どうした?何かあったのか?」
怪我でもして動けないのかと思っていると、鰭をこちらに差し出してくる。
震える鰭に、乗せているのは。
「…幼体か?」
まだ幼体の、それこそ新兵にもまだなれないシャケが、鰭の上で、すぴーすぴーと寝息を立てている。
「迷子か?保護したなら、そのまま泳いで帰って来れば良かっただろう?」
こんなところで棒立ちで泳がなくても。
「これ、これは…」
縋るようにこちらをみる。
「まだ、生きているか…?」
…何を言っているんだ?
「いや、どう見てもそうだろう?寝てるだけだ。」
「…ハード、頼む。俺には、俺には分からないんだ。俺がコレを本当に持っているのか、生きているのか。本当は、俺の、気が違って、握りつぶした後で、そう見えているだけなのか。」
「お、まえ…。」
分からないんだ、頼む。とガタガタ震える鰭をこちらに差し出すので慌てて受け取る。
「と、とにかく帰るぞ!」
教官に幼体の保護を報告し、事情があったならと仕置きは免れた。
ほっとして居室に帰った後、とりあえず後輩を寝床に座らせる。未だ震えてる鰭をじっと見つめたまま動かない。
「なあ。」
話しかけると、ゆっくりと顔を上げる。
もう顔からは動揺は失せていて、いつも通りなんの表情もない。
「鰭に、触れてもいいか。」
ゆっくりと頷く。刺激しないように、自分の両鰭を見せてから、後輩の鰭に添える。
「あの幼体、少し休んだらすぐ起きたし元気だったぞ。教官が送って行ってくれたから心配はいらん。」
だから、お前が見たものは幻覚でもなんでもないと言ってやると、徐々に震えが治っていく。
ああ、そうか、コイツは。
「お前は、頭がおかしいが、…本当に、おかしいだけなんだな。」
「…頭がおかしいということは、頭がおかしいということだろう?」
「そうだが、なんというか、理由がない。」
独占欲や、食欲、それこそ死への欲求で狂うものはあるし、そういった何かの欲に駆られて狂うのは分かる。でもコイツはただただ狂気に侵されているだけだ。
これじゃあ、あまりにも救いが無い。
「お前が暴力に固執するのは、狂っていてもそれが一番確かだからだ。そこが現実だと安心するんだろう?」
「…俺は、殴り始めたら、止まらないんだ。…それだけだ。」
「そうだろうな、その間は本能で、五感で現実を感じるから。お前はずっと、何もかもが不確かな世界にいるんだろう。縋りたくもなる。」
暗闇に閉じ込められて、そこに一筋の光がさせば、駆け寄らずにいられない。
おそらく、それだけのことだ。
それが、暴力でしか成せないのだ、この後輩は。
「お前は、正気のフリが上手くていけないな…。」
「さっき、頭がおかしいと言われたばかりだが」
ほら、今もだ。
まるで、『暴力を振るう間だけ狂っているシャケ』のように振る舞う。
ずっと、苦しいほど狂っているのに。
狂気の中で、この受け答えをするのに、お前はどれだけ苦心しているのか。
それでもコイツは。
あの幼体を殺してしまっているかもしれないと。
震えて動けなくなるのだ。
それが、正気のフリでしか無いとしても、その苦しみは本物だろう。
「…ここで、お前を殺してやれたら良かったな。」
それが恐らく、最も苦しまない。
惜しいのは、この強いシャケにとって、最も現実的に実行が不可能なことで。
「…ありがとう、ハード。充分だ。」
まるでとても嬉しいという声色とは裏腹に、その瞳には、やはり何一つの色も無かった。
分水嶺
訓練生の義務として、医局の定期的な検診がある。
今回も片目の視力のことはバレなかったとホッとして、帰ろうとしたところで思い出す。
あの、気が触れている後輩に、何かしてやれることがあればと思っていたのだ。
ともに来ていた同期に、先に帰っていてくれ、後から追うと声を掛けて、もう一度検診をされていた部屋に戻った。
結論から言って、大した収穫は無かった。
「精神の病に対しては正直対応に苦慮しています。強いて言えば、身体的なふれあいがあると落ちつくシャケもいるようですが…」
とかなんとか言われて、「もう閉める時間なので」と追い出された。
まあせっかくだし、やるだけやってみるか。
就寝の準備をしている後輩に少し良いか?と声を掛けるとゆるりと頷くので、今日の医局で聞いたことを説明してやる。
聞いているのかいないのかハッキリしないほどゆっくりと瞬きをしてこちらを真っ黒な瞳で見ているが、いつものことだ。
コイツはコレでもきちんと聞いているのは分かっているから、そんなわけで頭を撫でてみてもいいか、と問う。
「…そういったことをするのは、危険だと思うが。」
「そうか?この前、鰭に触れたときは問題なさそうだったが。」
「頭は撫でられると思う。その先が危ない。」
その先ってなんだと一瞬考えて、言いたいことが分かって思わずげんなりした顔をしてしまう。
「その先は無いから安心してくれ…。」
「そうか。」
ならいいと言うから鰭が見える位置から触れる。じい、と目で追われているが、嫌がる気配はない。
「なにか、落ち着く感じはあるか?」
「分からない。特に変わったことはない。」
「そうか。まあ、そんなものだよな。」
しばらく撫でてからヒレを離す。
「そろそろ休むか。付き合わせて悪かったな。」
「いや、いい。」
そう答えて後輩は寝床に横になる。
灯りを消して、自分も寝床に入ったところで「ハード」と呼ばれる。
「どうした?」
「…さっき、落ち着くかと聞いたな。」
「ん?ああ、そうだな。」
「…」
暗闇の向こうでこちらを見ている気配だけがして首を傾げる。
「…それならお前といるときはいつもそうだ。」
「ああ、何かあっても取り押さえられるからな。そういう意味では安心して落ち着いていられるのかもしれないが。」
「それもある。」
も。それ以外にあるか?
「お前の低い声、神経が毳立たないんだ。たぶん、落ち着くといっていい。動作も急な動きがほとんどない。」
「…そ、うか。」
「寝息か、いびきか…それも低い音だ。…お前なら、神経を落ち着かせないとと思わなくてすむ。」
「何が言いたいんだ?」
純粋に疑問が勝ってそう聞くと後輩はたっぷりと黙ったあと、
「…おやすみ。」
と言った。
「待て。言い逃げはズルいぞ。」
「…わからない。何が言いたかったんだろうな。」
本当に自分がなぜこの話をしたのか分からないようで、それ以上のものが暗闇から帰って来なかった。
言われたことを反芻して組み直す。
…二、三度繰り返し考えてもこれしか結論が出ない。
「撫でられるとか以前に一緒にいるだけで落ち着くって言いたいのか、お前。」
「ハード。」
ごそり、と隣の寝床で寝返りをうつ音がする。
「…おわりだ、この話は。」
向こうを向いて話しているんだろう、少しくぐもった声で言われる。
「…頼む。何も、応えないでくれ。寝てくれ。」
ここが瀬戸際だと言うのでため息を吐く。
「おやすみ。」
「ああ。」
そうだ、最初に「撫でることの先」を想定していたのは後輩の方だった。
気が付かないうちにお互いが歩み寄りすぎていたんだろう。
今がお前に1番近い。この後はたぶん、互いに離れていく。
撫で終わる時に、頷く様に頭が動いたのは、ああ、擦り寄られていたのかと今更気がついた。