砂の肴ずいぶんと前の事だ。そのシャケに初めてあったのは。
先輩のバクダンに連れられてこの基地を訪れた彼は「初めてお目にかかります。フライと呼ばれております。」
それだけ言って深く頭を下げ、また先輩の後に控えるようにして下がった。目と口元に火傷痕があるから、それが名の由来だろう。
…バクダンらしくないシャケだな、というのが正直な感想だった。なんというか覇気とか高揚な意気というようなものが感じられない。
まあ、バクダンであっても隊長でないならそんなものかと思っていると、
「今日はコレの顔見せも兼ねて連れてきました。今後、フライが来ることもあるかと思います。」
大柄なバクダン、ハーディ殿がそう付け加えた。
基地間の交流に付き添い以外で隊長でないものが来るとは考えにくい。
「それはそれは。お若い隊長殿にもウチの基地を楽しんで貰えると良いのですが」
では若さからまだ隊長らしさが育っていないかと思い声をかけるとハーディ殿がカラリと笑って、
「はは、そう若くもありませんよ。フライの方が私より幾つか年上です。バクダンとしては自分が先輩なのですが。…良かったな、フライ、まだ若く見えるそうだぞ?」
「ふふ、お二方に取っては私など若輩者と同義でしょう。ご指導頂ければ幸いです。」
口元に鰭を当てて、にこ、と微笑んで見せる表情は懐っこいシャケのそれで。どうにもバクダンのする顔には思えないのに、このシャケではそれが成立してしまっていた。
ここにいるのは一体『なん』だろうか、と応接の部屋まで当たり障りない会話を繰りながら、ザリ、とした、食べ物の中に砂を噛んだときのような気持ち悪さを飲み込んだ。
その後も何度か交流の為にと、フライというそのシャケと相対したが、依然として『なに』なのかは分からないままだった。
基地内を案内している間のことを後で思い出そうとしてもどこかぼんやりとしていて、ずっと話していた気もするし、ずっと黙っていたような気もする。
記憶力には自信のある方だったがと首を捻るが、他のシャケではこんなことは起こらないので恐らく問題はそこではない。
何をしても印象があまりにも薄い。存在感が薄いわけでもないが、後で思い出そうとしても目元の傷くらいしかハッキリと出てこないのだ。
コレではシャケを相手にしているのか霧を相手にしているのか分かったものではない。また近々来られると聞いているのに、どうにも座りが悪い。
気を紛らわす為にいつものようにくぴりとスキットルから酒を煽る。
…そうだ。相手のペースに飲まれる前に、自分の土俵に誘い込んでみたらどうだろうか?
「フライ殿、良ければ一献お付き合い頂けませんか?」
今回は交易の取り決めの為に会議に基地を訪れていたフライ殿に声を掛ける。
今日は1泊して一昼明かした後で明日の艦で帰られると聞いている。
するとフライ殿は少し困った様な顔をして、
「生憎と酒が飲めない体質でして。茶でも良ければお付き合い出来ますが「構いませんよ!」
この機を逃したくなくて食い気味に放ってしまった言葉に、いつものように、ふふ、と笑って見せて「ではぜひ。」と返される。
アルコールでふやけることは無くとも、場の空気で緩むものもあるだろうからヨシとする。
では客室として頂いているお部屋で飲みますかと聞かれて「よろしいので?自分は朝までおりますよ?」と言ってみると「嬉しいですね。ニトロ殿とはもう少し仲良くなりたいと思っていたんです。」と微笑まれる。
…まるで、アソビの誘い文句にも聞こえたが、流石に違うだろう。この隊長殿は色気こそあるものの、そういう「ナマモノ」な匂いがあまりにも薄い。
部屋の場所を確認して、では夕餉の後に伺います、後ほどと言えば楽しみですと言ってふくふくと笑っていた。
結論から言って、あまり変わりはしなかった。
何を話したかもぼんやりしていて、正体など捉えようもなかった。
強いて言うなら、茶を舐めながら「あまり眠らないタチなので」と言って本当に一晩明かして見せたことだけは驚いたせいか少し明白に覚えていて、その言葉と口元の雫を舐めとる為に灰桃の舌が口を割って出てくる様子だけが今回の収穫だった。
「ニトロ殿。」
はっと気がついて振り返ると支度を済ませたフライ殿が立っていた。
「お待たせ致しました。艦までご一緒に?」
「ええ、見送りまで言いつかってますので。」
「ふふ、嬉しいですな。」
そう言ってゆるゆると帰りの艦に向かって歩き出す。
「ああ、まだ空が紅い。今回は帰りがこと更に早かったので、起きていて正解だったかもしれません。」
「はは、お役に立てた様で何よりですな。」
「でも、帰りの早いと遅いとに限らず、ニトロ殿とはまた飲みたいです。またお茶になりますが。」
よろしいですか?とコチラを伺う目に夕陽が照り返して、じり、と燃えた様に見えて。
これ以上燃えてはと思って何も考えず鰭をフライ殿の目元に当てて。鱗とは違う、ザリ、とした感触。彼の、焼けた、中身。
「ニトロ、殿…?」
「…い、や、眩しそう、だと…」
自分が、なぜそう動いたのかも分からず、言い訳のようなものを口にする。フライ殿は別段おかしいとは思わなかったようで、
「ふふ、お優しいですね、ありがとうございます。」
しばらく目を閉じていた方が良さそうだ、といつものように、にこと微笑んでそう言うのでその方良いかと、と頷く。
「…さっきの話ですが、またぜひ。自分も楽しくありました。」
「それは良かった。次の楽しみが出来ました。…ああ、どうぞここまでで。この先は少し足元が悪いですから。」
「お気遣い痛み入ります。ではまた。」
「ええ、失礼します。」
ゆる、と体を曲げて最敬礼の形をとった後、艦への坂道を下るフライ殿を見送る。
さっきの話も、自身がしたことも、きっと後になったら忘れてしまうのだろう。
机にこぼした酒がいつしかなくなって、自身もこぼしたことを忘れるように。
残るのは、砂を噛んだような違和感だけで。
でもそれさえ残っていれば、次があるから良いだろう。
そう思ってスキットルのキャップを回す鰭には、まだ砂を撫ぜた様な感触が残っていた。