「いらっしゃいませ。」海川文弥は、一風変わった男だった。
それは大学生の頃から始まるが、芽生えたのがその時期であったというだけで、元来はもっと昔からこの男の奇異な部分はあったろう。
探偵になるために、初めに彼が始めたのは執筆活動だった。
彼は“自分がプラス思考の人間である”という前提を一番に危険視し、探偵になって破綻するイメージがないという、その自信が危険だと考える様にしたのだ。
つまり、万が一破綻してもやりくりできる様にしなければいけない。と言うところが、最初に煮詰まった壁だった。
予想外とは、予想していないから存在し得るのだと、そう思い至れた彼は早速執筆を始めた。
それは資金を貯めるためで、且つ、金銭的な苦難を乗り越えるためだ。
元々才があったのか、たまたまか。自分の得意分野を、推察し理論的に崩した文章達は、学術的な知財にこそならなかったが、これからその分野に足を踏み入れようと思う若者や、着眼点の面白さを求める一部のニーズに応えたようで、長らく店舗に並んでいる。
しかし、その本がもっとも大きく影響を与えたのは、書いた本人。海川本人だった。
「探偵とは、見聞きした内容から推理し、それを証明する。
だけど、真実とは小説より奇なりっていうだろ?
絶対に等しく“分からない”事は存在する。
本を書いた経験が、僕にそれを教えてくれた。
人間は、大量のアンケートの上に成り立つ事実があっても、その母数に対してあまり着眼しないんだ。
10人に取ったアンケートと、1000人に取ったアンケート。どっちの方が信憑性が高いと思う?」
海川はそう言うと笑ってコーヒーのカップを揺らした。
中で揺れるそれにまだ口をつけていない。
「文書を書くってね。いろんな方向性があるでしょう?
小説、論文、雑誌、漫画、実録。
まぁ、僕が書いたのはエッセイ本に近いかなぁ。
論文みたいに大量の母数を演算に掛けて証明をしたわけじゃないし、だからと言って物語じゃない。
こう思うって言う日々感じることを、大学生目線で、ちょっと余白を大きめに取って語ったって感じ。
普段本を読まない人でも、入りやすい感じで。」
そう言ってやっとコーヒーを飲んだ。
傍から、何を思ったのかため息が聞こえる。海川はそれに笑って返すと、そっとソーサーにコップを置いた。
金髪にはオレンジのメッシュが入っていて、襟足も長そうなそれをお団子にして簪でまとめる。
少し変わったスタイルに独特な雰囲気を感じるのは、彼が糸目である事も関連しているだろうが、それを最も助長しているのはその口ぶりだろう。
ひょうきんに、それでいて明白に。
一線を越えると、どうやらよりひょうきんさを増すらしい言動は、同じ海川探偵事務所に勤める助手への様子を見ていればわかる。
助手はため息ばかり繰り返している。
「まぁ、そんな感じで、
あの本は出版したかな。
今は探偵で生計も立てれているし、どう叩いてもらってもいいけど、そんなことをしても残念ながら思っている様な悪行は無いですよ。
最初から、それが聞きたかったんでしょう?」
そう言われて、今まで素直に話を聞いていた来客の男は、グッと喉を鳴らした。
敵に回す相手を間違えた。その直感は正解である。
大学生の時に出版し、一世を風靡というほどではないが読まれている作品。そんなものがあるならば叩けば埃が出てくるのではないか。そんな来客の考えはあまりにも浅はかで、海川もついにため息をついた。
「さて、もっともっと僕のお話が聞きたいでしょう?ね?
そうじゃないとおかしいよね?
貴方はわざわざここに話を聞きにきたんだから。
さぁ、次は何を聞きたいですか?
なんでもお答えしますよ。」
スッと、部屋の温度が下がる。
正確には下がった気がした。
海川は前のめりに来客の男の顔を覗き込んで、そうしてそっと糸目を開いた。
真っ赤な瞳が、じっと男を見つめている。
「ひっ!
もっ、もう結構です!!」
所狭しと溢れる恐怖に、来客の男は耐えきれなかった。
急いで立ち上がると、荷物を引っ掴んで出口へと向かう。挨拶もなく、とにかく急いで外へと飛び出していく姿はひどく滑稽だった。
「あれれ?そんなに怖かったかな?」
「‥‥最初から分かっててなんでインタビューなんて受けたんですか、、、」
またひょうきんに首を傾げて見せる海川に、助手はため息をついて来客用のカップとソーサーを仕舞っていく。
そんな背中に「ありがとぅ〜」と声をかけながら、少しだけ喉の奥を鳴らして笑った。
「僕はプラス思考だから。
マイナス思考な面もどっちも考えてちゃんと動いただけだよ。
君もいるしね。」
クスクスッと、海川は開け放たれたまま扉を閉めてから自分用のデスクに戻る。
探偵事務所の名に相応しく整えてあるデスクには、何を察知したのか2匹の猫が寝転んでいた。
これでは、仕事が出来ない。
「‥‥ふふっ、、疲れたし、休憩にしようか。」
デスクの椅子に腰掛けて、そっと2匹の猫の頭を撫でてやれば、愛らしい鳴き声と喉鳴らしが迎えてくれる。
助手も時計を見ると海川の意見に賛同した様で、休憩のお供にお菓子を準備し始めた。
なんて事はない昼下がり。街の一角にある少し年季のあるアパートの一室に、海川探偵事務所がある。
一風変わった探偵の名前は海川文弥。
優秀な助手と2匹の猫と共に、貴方の訪問をお待ちしています。